香港STYLE Vol.64 言語とアイデンティティ (2019.03.23)

香港スタイル言語

香港からこんにちは

日本中が、一年で最も優しい桜色に染まる季節の到来ですね。 東京でも、29日頃には桜が満開を迎えるそうで、これから全国各地で美しい日本の春が楽しめますね。

よく言われることですが、日本ほど四季の自然が豊かでバランスのよい国は、世界中どこを探してもない、、、本当にそう思います。

春夏秋冬、季節それぞれが固有な美しさを持ち、徐々に変化してゆくその過程すらも美しい。

 

同じ景色が、ある時は心を打つような悠大さ、神々しさを放ち、ある時は心安らぐような優しさ、繊細さで癒し、またある時は、心を清く正すような、言葉なき姿で語りかけてくる、凛とした日本の自然。

媚びず、奢らず、一途に歩みを止めない日本の四季。

世界を見た時、日本が日本たる所以、日本人が日本人たる所以は、その貴重なまでに豊かな日本の自然の移ろいにもきっと起因しているのかなぁとも思うのです。 なぜなら、自然はその土地に生きる人々の思考回路と密接な関係があるから。 

たとえば、イギリス。

EU諸国の面々のウンザリに同情さえ覚える、あの BREXIT 狂騒でのイギリス議会の経過や一連の対応は、まことにあの国らしいというか何というか。。。

日本のような四季がなく、一季に0.5季を加えた程度の、バラエティ豊かとは言い難いイギリスの気候風土をよく知っていれば、あのいつまでも決まらない永遠に続くかにも見える騒動も何ら不思議はなく、イギリス生活が長くイギリスに家族もいる私などには、あの感覚は、ここ香港にいても手に取るように分かり、まぁそう来るでしょうねぇ、お疲れ様、、、と妙に納得がいってしまっているわけなのです 

もっとも、それが離脱合意をズルズルと見苦しいほどに引き延ばしていい理由には、全くなりませんが

とにかく、あのイギリスでさえ気候が人々の思考に少なからず影響を与え、「世界一プライドが高く、世界一長期戦に強く、世界一頑固者で、世界一皮肉屋で、世界一屁理屈屋」という国民性が出来上がっているのは間違いありませんね。 皮肉ではありません、 愛を込めて

では、思考そのものは何によってできるのでしょうか。 

それが『言語』だと私は思っています。  

言語が思考を作り、しいては思考の癖を作り、思考の癖は習慣となり、それが社会、国家、民族になる。

全て元を辿れば『言語』に通じる、というか、そこに行き着く、、、と私はそう思っています。

 

 

 

 

 

そうなってくると、この全く違う『言語』(=思考) を持つ者同士が、お互いに少しでも理解するために必要になってくるのが、当然ですが、共通の言語である『英語』。

日本人の英語の必要性は、日本国内でもとっくに昔から言われていることですが、私が長いこと日本を外から見ていて思うのは、日本人の英語の必要性、などという甘いレベルではなく、もはや差し迫った緊急性

世界共通言語である英語力は、その国の経済力、外交力と同義語です。

誤解を恐れずに言えば、私は個人的には、日本の公立私立関係なく、というより、公立の学校こそ、小学校の一年生から、算数と理科 (高学年になると、数学と、化学・物理学・生物学のサイエンス3種) は、少なくとも全て英語で授業をするべきであり、彼らが実際に使える社会人となるのに時間差があることを考えと、もうすでにしているべきと思っています。

実は、香港のインターナショナルスクールでない、香港の地元の学校がそうで、むしろそれ以上。  中国語と中国史、中国文学以外の教科は、全て英語で授業が行われています。 

香港は、もともと日本以上にグローバル化した近代社会なうえに、一見適当に見える彼らは、何事もやるとなったら、ある意味、日本人が追求する完璧さ以上に抜かりなく徹底します。

彼ら香港人が、世界的にもフットワークが軽く、国をまたいで何かをすることに抵抗がないのも、まず彼らの高い英語力、それに伴い、走りながら考える行動力、間違いを許す社会の寛容さ、それらにつきるのです。  

私の香港人の親しい友人も世界中に親戚一族が散らばっています。  先進国であればどの国に行っても、必ずどこかに血の繋がった親戚がいる。 ある意味、これほど心強いことがあるでしょうか。

頭の柔らかい幼少期から、2言語、3言語を叩き込まれた香港の子供達が、10代になり英語、母国語、人によってはさらにもう一言語を流暢に操り、欧米の寄宿舎学校や大学にすんなりと、少なくとも言葉の問題は全く心配することなく入る。

そしてさらに、異なる環境で世界中の友人知人を相手に対等に生きる力を付け、ある者はそのまま欧米で就職、ある者は国に帰り有力な経済や外交の牽引力となる。

ここなんです。 中華圏経済や外交の強みは。優秀層の徹底度が、日本の優秀層候補のそれとは大違い。

ちまちまと日本国内のみでしか通用しない同調圧力満載の受験競争に明け暮れ、そ一度の間違いも許されぬ、はっきり言ってアプローチのポイントが的外れ。

日本語力が確立する前に英語を始めることは言語の混乱リスクを招くだの、幼児英語教育は日本人としてのアイデンティティ・クライシスになるだの、英語を話すことよりは英語で何を話すかが大事かだの、へんちくりんな儒教をベースに頭の凝り固まった幼児教育専門家の意見など、私にしてみれば全く聞く価値のない、むしろ日本を滅ぼす無益有害な意見

幼児期から複数言語を叩き込まれる香港人が、中華系民族としてのアイデンティティを失っているでしょうか? 

確かに、英語が全てではありません。 しかしながら、英語ができなかったら、スタート地点に立つことすらもできないわけです。 それは紛れもない事実。

ツールである言語とはそんなものでしょう。

そして、国がなくなるような事態にでもなれば、桜が散るようにあっという間に変化するであろう言語に頼るアイデンティティ意識などというものには、あまり強く固執しない方が、実は幸せなのかもしれない。 そんな気もします。

 

桜を思いながら『言語』の意味を考える、ある香港の春の日でした

JUN

 

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