エルサイトウ ジョーク集 その65
最近、取引先の対応が悪いので、後輩に「んも〜、小娘だと思ってなめられてるのかしら」って言ったら「小結?」と言われた。
(Weekly Mag2 2005/7/11)
ミーティングで上司が「今は状況が360度変わっているんだ!!」と力説した。元に戻ってるじゃん、とつっこみたい気持ちをぐっとこらえた…。
(Weekly Mag2 2005/7/11)
ある晴れて暖かな日。お昼ご飯を食べようとしたら、ビール好きの義母がそれでも真っ昼間からアルコールはやばいと思ったのか、一言。「低農薬ビール、飲まない?」(Weekly Mag2 2005/7/11)
先日、いつもダンディーな上司と飲みに行ったときです。上司は「解禁になったことやし、ワインでも飲むか」と店員を呼びました。さすが「取り敢えずビール」じゃないんだと感心していたら、「ボジョレヌーブラ、ボトルで」と、まじめな顔でオーダーしていました。店員さんは固まってましたが、私はこの上司についていこうと決心しました。
(Weekly Mag2 2005/7/11)
夏も近くなってきたある日、少し薄着になり電車に乗ってお出かけした。電車は混んではいなかったが、つい朝通勤のクセで車両の真中に立ってしまった。そしたら目の前に座っていたおじさん(推定50歳)が急に立ち上がり、「いや! すんません! 気が付かなくって!」と言いながら席を譲ってくれた。別に座らせろと威嚇してたわけでもないのになんでだろうと思ったら、その日はいていたのは、気を緩ませると私のビール腹をよく目立たせるスカートだった。一体何に気づかなかったと言うのだ・・・
(Weekly Mag2 2005/7/11)
生ビールの泡がクリーミーで美味しい店がある。この前、生ビールのおかわりを店長に注文する時、「ここの生ビールの泡は本当に美味しいでね」と褒めたら、「サービスさせていただきました」と言ってほとんど泡ばかりのビールを持ってきた。
(Weekly Mag2 2005/7/11)
始めての飲酒の検問で、警官に「ここにハー」とやってと言われ舞い上がっていた僕は、オペラ歌手顔負けの声で「ハー」と叫んでしまった。
(Weekly Mag2 2005/7/11)
息子5歳。連れてったこともないのに居酒屋メニューが大好き。将来は酒豪を約束されています。はじめて水族館に行った時、巨大水槽の前で「ママー! ホッケとシシャモはどれー!?」と叫びました。家で、「水族館にはね、お魚がたくさんいるんだよー」と言った時のあのウレシそうな顔の意味がわかりました。
(Weekly Mag2 2005/7/11)
4歳の息子に、「お花はどうして咲くの?」と聞かれたら「それはね、春の妖精さんが“そろそろ春ですよ〜”ってお花に教えてあげるからよ」などと、いつも情緒たっぷりに答えている私。先日朝寝坊して大急ぎで着替えている時、息子が、「ママはどうしていつもアリエルみたいに、それ(ブラジャー)してるの?」と聞いてきた。てんぱっていた私はとっさに、「垂れないように!」と答えた。息子よ、これが現実だ。
(Weekly Mag2 2005/7/14)
学校で貧血を起こして倒れてしまい、やっとの思いで一人暮らしをしているアパートへ帰った。そのことを先生が実家へ連絡したらしく、夜になって実家の母から電話が来た。「あんたまた貧血で倒れたんだって? サプライズ飲みなさい、サプライズ!!」。うん、そうだね。一人暮らしだと栄養偏りがちだし、飲むことにするよ、サプリメント。
(Weekly Mag2 2005/7/14)
旦那は家では関西弁で、「おう? なんか文句あるんけ? おう?」と始終「おう、
おう」と言っている。2歳の娘が動物園に行き「お父さんの声が聞こえる!」と急に走り出した先は、オットセイの前だった。オットセイに向かって「おとうさ〜〜〜ん」と手を振っている娘の周りには、人だかりができた。
(Weekly Mag2 2005/7/14)
「ひた向き」を「した向き」と言っている所長がいて、「この人、江戸っ子か?」と思っていた。ある日、役員への提出書類を見たら意見欄に「所員一同、目標達成を目指し、下向きに頑張る」と書いてあった。
(Weekly Mag2 2005/7/18)
日曜日、朝早くから、夫婦で田舎の朝市に新鮮な野菜を買いに行った。帰りに妻が「今日は朝から疲れたから、外食しよう」と言った。
(Weekly Mag2 2005/7/18)
メールを読もうと受信トレイを開けようとしたとき、ときどき「受信トイレ」に見える。疲れてるのかなぁ…?
(Weekly Mag2 2005/7/18)
私の彼はボディービルダーです。ある日一緒に寝ていると「ちょっと! 触らないで!」と怒鳴るのです。何事!?と思い、怖かったのでとりあえず離れて様子をうかがっていたところ、「このダンベル70キロもあるんだから、落としたら危ないでしょ!」と。寝言でした。彼が「いくら寝ても疲れが取れない」という理由が分かった気がしました。
(Weekly Mag2 2005/7/18)
仕事と育児と家事に疲れてへとへとの私。子供たちを寝かし付けながら、「お母さんは疲れたおばさんに見える?」と聞くと、7歳の息子は「ううん、疲れたお母さんに見える」と答え、3歳の娘は「疲れたお姉さん!」とボソっとつぶやきました。私の子育ては間違っていない!?
(Weekly Mag2 2005/7/18)
私のメル友はスーパーの主任で、暮れは大忙し! 疲れもピークの頃、店内放送で、「年内休まず営業しております」のところを、「年内休メズ…」とやってしまったそうだ。もちろん店内は爆になった。
(Weekly Mag2 2005/7/18)
娘の幼稚園の保護者会で、「園児達が初めて書いたひらがなです」とお教室の壁に飾ってあるお習字を見せて頂きました。『りす』『ねこ』『くるま』…などと可愛く書かれてある中、我が娘のはゴッツイ字で『なまごみ』と。あるお母様から「濁点を書けてて凄いじゃない!」と、なぐさめともなんとも言えない言葉を頂き、悲しいやら恥ずかしいやら…。
(Weekly Mag2 2005/7/20)
いつもの美容院に久しぶりに行ったら、若い見習い生が、シャンプー台に案内してくれた。ケープをかけると、一言「押し倒します」と言って私の額に手をかけた。ぎょっとしたが、よくよく考えたら「おイス、倒します」だった。お願い、早口で言わないで〜。
(Weekly Mag2 2005/7/20)
息子(10歳)のクラスでは誕生日に、クラス全員が一言書いた寄せ書きが贈られる。息子にプレゼントされた寄せ書きを見ていると、「べんきょおがんばてください」と書いていた子がいた。おまえも頑張れ。
(Weekly Mag2 2005/7/20)
車を運転していると、前方にパトカー。少しスピードをゆるめると、ベニヤ板に立体的に描かれた見事な絵であることが判明。「うまいなあ」と感心してながめていると、下に「よそ見をするな」書いてあった。
(Weekly Mag2 2005/7/22)
洋服売り場で母に、「ねえ、この服どう?似合う?」と聞いたら、母「う〜ん、ちょっと大人っぽ過ぎるんじゃない?」って母よ、私はもうすぐ三十路に片足突っ込む年なのよ…。
(Weekly Mag2 2005/7/22)
ウチの新人君が急に休んだ。理由は「昨日、飲みすぎて体調が悪い」からだった。(正直に言うなっつーの!) 彼の「有給休暇届け」を代理で記入する時に、届けの理由欄に「正直モノでバカだから」と書きそうになりました。
(Weekly Mag2 2005/7/25)
我が社の工場長なんですが、「もっとよく考えて仕事やれ!」と従業員に雷を落とします。その工場長が、痔が悪化して1週間前に入院。初めは、取引先から工場長宛にかかってくる電話に、「お休みしてます」と応えていましたが、まだ休んでいることを不信に感じる人も多くなり、「どうかされたんですか?」と聞かれるようになりました。「えぇ。ちょっと入院しておりまして…」と返答すると、「どこが悪いんですか?」と聞かれます。何て答えれば(汗)。どうせ入院するならもう少し体裁のいい病気にしてくれればいいのに。工場長に一言! 病気も「もっとよく考えてやれ!」。
(Weekly Mag2 2005/7/25)
私はシステムを開発している会社に派遣されている。この業界では常識らしいが、皆休日も取らずに連日夜中まで働いていて、体調を崩し病欠する人も多く、全員がそろう日はめったにない。今日、“ズルッ・ドサッ”と鈍い音がしたので驚いて立ち上がると、1人椅子から落ちたところだった。彼の手はキーボードを打つ形のまま固まっていたが、寝顔は安らかだった。
(Weekly Mag2 2005/7/25)
今のプロジェクトの上司は、「熱が下らない」、「体調が悪い」と言う理由で1週間ズル休みする人です。ちなみに、そのまた上司は、働き過ぎで1ヵ月以上休んでいます。どんな会社なんでしょうか?
(Weekly Mag2 2005/7/25)
二日酔いで1時間遅れて出社し、会議室で昼まで仮眠をとった揚げ句、「顔が黄色いので帰らせて下さい」と、何も仕事をしないで帰宅した同期のA君。あれから10年経つが、あれに勝る早退理由を聞いた事が無い。
(Weekly Mag2 2005/7/25)
中学生の時、友人が朝からはしゃいでいる。聞くと、弁当にパイナップルが入っているとの事。しかし昼になってやけに静かなので見に行くと、入っていたのはパイナップルじゃなくて厚めに切ったたくあんだった。どうやら母親にだまされたらしい。
(Weekly Mag2 2005/7/27)
大きな書店のレジそばで立ち読みしていたら、レジの女の人が「2万5千が3点ですね。」と言った。全部で75,000円とは、ずいぶん高額な買い物をする人だと思って、レジを見たら2万5千分の1の地図が3枚。3枚で976円だった。
(Weekly Mag2 2005/7/27)
先週の投稿で「妻の数百円の洗顔フォームを使ったらむちゃくちゃ怒られた」というのがあったが、それは本当は「数千円もする洗顔フォーム」で、奥様に「数百円」とだまされているのかもしれません。
(Weekly Mag2 2005/7/27)
課内によく休む人がいる。半休とって昼から出社しての一言。「すみません、睡眠の調整がうまくいかなくて…」。えーと、それは寝坊かっ!?
(Weekly Mag2 2005/7/28)
母の日のプレゼントのため、洋服を買いに、某百貨店へ行った。サイズがいまいちわからず悩んでいると、店員さんが寄ってきた。母の体型(典型的なおばさん=小太りタイプ)を説明し、サイズ的に合うか悩んでいることを言うと、「ちょっと待ってて下さい!」と言ってどこかへ走って行った。数秒後、小太りタイプの店員さんを連れて戻ってきて、服をあて「こんな感じです」と…。連れてこられた店員さん曰く、「この時期は引っ張りだこなのよ」
(Weekly Mag2 2005/7/29)
高校時代、学校に母の作った弁当を持参していた。ある日、いつもの弁当箱の他に小さいタッパーもあったので、デザートだと思い、わくわくしながら弁当箱のチャーハンをたいらげ、そちらを開けると、中にはチャーハンが入っていた。収まりきらなかっただけなのね。
(Weekly Mag2 2005/7/29)

能登紀行 その5 (金沢)
今回の僕達の能登の旅は、能登半島の東側の付け根にある富山市から始まり、能登半島をほぼ一周して、半島の西側の付け根にある金沢市で終わりました。金沢は今回の旅の仕上げの街でした。
能登半島を回って、途中、内灘での用事を済ませて、金沢の街に到着したのは、レンタカー会社のオフィスが閉まる、夜8時ぎりぎりでした。
僕達にとっては、金沢訪問は今回が2度目になります。数年前に仕事で1度来ているのです。ですから、街の様子もおおよそわかっておりました。
金沢の特徴は、なんと言っても京都との関わりの深さだと思います。金沢の伝統的な工芸や行事は、その起源を京都に求めているだけではなく、僕の知る限り、終始、京都を強く意識しているように思われます。
全国各地に「小京都」といわれる地域がたくさんありますが、その筆頭は、この「北陸の小京都」、金沢ではないかと思います。
加賀友禅として知られる染め物は、江戸時代半ば(1712年)に、京都から移住して来た、宮崎友禅斎という、京友禅の染め物師が、京都から伝えたものです。
また、金沢箔として知られる、金箔の製造も、加賀藩初代藩主、前田利家が京都から持ち込んだ技術です。利家が織田信長から命じられて、まず能登の七尾、ついで金沢に入城したのは、1580年代のことでした。ですから金沢での金箔製造の歴史は、400年以上になるのですが、現在のように金箔の全国シェアのほとんどを占めるようになったのは、明治以降のことなのだそうです。それまでは全国各地にあった製箔業が、藩の庇護を失って衰退・消滅していく中で、金沢だけが独占的な地位を確立していきました。現在金沢は、全国の金箔生産の99%のシェアを持っているのだそうです。
ちなみに金箔は、厚さが1万分の2、3ミリ程度。製法は、金の薄い小片を紙の間にはさみ、重ねた束を皮で包み、それを打ち叩いて作るのだそうです。10円硬貨大の小片が、畳一枚ほどの大きさになるのだそうですから、すごいですね。
この箔打ちに使われた「打ち紙」は、昔から女性の化粧直しに重宝され、それが現在流行の「顔の油取り紙」になっていったのだそうです。ご参考までに。
また、久谷焼は、いったん途絶えて再興されたのですが、その再興のために招聘されたのは、京都の焼き物職人達でした。17世紀半ばに始まった久谷焼を「古久谷」。その後50年ほどでいったん途絶し、それから約1世紀後に再興されたものを「再興久谷」と言うようです。これらも、明らかに京都の楽焼きの影響が、極めて強いように思います。
金沢漆器も、加賀藩が京都から蒔絵師を招聘して、振興したことが始まりだということです。蒔絵にその特徴があります。
全国的に有名になっている、「近江町市場」もそうです。さすがに日本海に面した北陸の中心都市らしく、海の幸が中心ですが、京都の「錦市場」の雰囲気と酷似しています。業界人だけではなくて、一般消費者にとって必要不可欠な生鮮品市場になっている点が、そのような共通の雰囲気を醸し出しているのだと思います。
そんなふうに、常に京都を意識して来た金沢ですから、近年完成したばかりのJR金沢駅も、なんとなく、あの斬新なJR京都駅と共通する点が多いような気がしてなりません。金沢=京都という、色眼鏡で見てしまっているのかもしれませんが。
ところで、上の写真は、江戸時代の終盤に整備されたと言われている、茶屋街、つまり花街です。加賀藩が整備したものとしては、「ひがし茶屋街」と「にし茶屋街」がありますが、写真は「ひがし茶屋街」です。
京都で言えば、上七軒、祇園、宮川町、先斗町といった花街にあたります。もちろん現在では、お茶屋さんとして営業しているお店はむしろ少数でして、他は観光に関連する様々な業種のお店になっております。この写真を撮影したのは、朝7時過ぎのウォーキング中でしたので、もちろんどこもまだ開いてはおりませんでした。
その後、ちょっとお茶屋さんでお話をうかがったのですが、金沢の花街は京都のそれと多くの共通点があったのですが、1点だけ決定的な違いがありました。それは「置屋」さんの存在の有無です。
金沢でもお茶屋さんは料理を作らず、仕出し屋さんから取り寄せるのは京都と同じなのですが、京都のような「芸者置屋」さんは存在していなくて、芸者さんは、お茶屋さんに直接所属していたのだそうです。つまり、お茶屋さんは、置屋さんを兼ねていたわけです。そのあたりが、全国からのお客様を相手にしていた京都と、地方区であった金沢の違いなのかもしれません。
金沢が持つ、もうひとつの京都との共通点ですが、それはお寺の多さです。宗派としては、真宗大谷派(つまり、東本願寺派)がもっとも多いように見受けましたが、とにかくお寺の数が極めて多いのです。
もっとも、金沢城防衛のために、意図的に作った寺院群もあるそうなのです。これらは、3代藩主、前田利常が藩主の時代(1605年〜1639年)に、徳川幕府を警戒して行った防衛策のひとつでした。
関ヶ原の戦い(1600年)が終わり、1615年に大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、その後、徳川幕藩体制が安定するまでは、各地の戦国大名の生き残りは、この先どうなってしまうのか、まったくわからないという時代でした。いつ取りつぶしにあうのか、まったくわからなかったのです。
かと言って、城の装備を拡充したり、新たに城を築いたりはできない状況だったでしょうから、寺院群を城の防御に使うというのは、苦肉の策であったことと思います。よく考えましたね。
こうした寺院群は、金沢城をはさんで、東北と西南の方向に、それぞれひとつずつ設けられました。金沢は市内東部に浅野川、西部に犀川という2つの大きな川にはさまれています。
その浅野川近くの、東北部にあるのが、卯辰山(うたつやま)山麓寺院群というのだそうで、これだけでも50余りの寺院があります。
それから、犀川近く、市内西南部には、寺町寺院群があります。ここには、約70の寺院があると聞きました。
金沢でもっとも大きな影響力を持っている仏教宗派は、真宗大谷派、つまり東本願寺の系列寺院だと見受けました。市内各所で本当によく見かけます。ちょっと調べてみたのですが、約半数が真宗大谷派でした。この数字は、2001年現在のものです。
天台宗系 12
真言宗系 28
臨済宗系 8
曹洞宗系 58
浄土宗系 25
浄土真宗系西本願寺系 17
浄土真宗東本願寺系 192
浄土真宗 その他 1
時宗 1
日蓮宗系 54
合計 396
これは寺院経営という視点から見ると、どんなものでしょうか?
金沢市の人口は45万人余、世帯数は18万5千世帯余です。(2005年4月現在) そしてその一方で、仏教寺院総数は、396ですから、単純計算では、1寺院あたりの世帯数は、467世帯、人口は1136人になります。
京都でしたら、本山だとか、総本山などという立場で、全国の末寺から上納金が入って来ますが、金沢ではそうもいかないだろうと思います。
そこで、これまた物好きにも、寺院経営の資料を探して調べてみました。それによりますと、お寺の収入は平均的には以下のようなものなのだそうです。ご存じでしたか?
葬儀時のお布施は檀家年収の1/12
年間葬儀件数 = 檀家数×5%
法事の布施は葬儀時の1/10
年間法事件数 = 葬儀数×10
年間平均定例行事5回/檀家1軒
定例行事の布施は葬儀時の1/100
以上の寺院収入は、住職給与、寺の経費、それに積立にほぼ3等分される。
ということは、たとえば金沢市内の世帯の平均年収を、α 円とすると、寺院の宗教的収入は
1)葬儀収入 467軒 × 0.05 × α ÷ 12 = 1.95α
2)法事収入 467軒 × 0.05 × 10 ÷ 12 ÷ 10 × α = 1.95α
3)定例行事収入 467軒 × 5 × α ÷ 12 ÷ 100 = 1.95α
なんと面白いことに、1)、2)、3)の数字は、まったく同じで、それぞれ檀家年収の1.95倍なのです。
したがって、合計すると、寺院の収入は、檀家の平均年収の5.85倍、つまり5.85αです。
仮に α 円を700万円とすると、寺院の収入は4095万円になりますので、その1/3が住職給与とすると、1365万円となります。あくまでも単純計算ですが、これなら十分やっていけそうですね。心配することはなかったようです。
松本清張の「ゼロの焦点」を中心に据えて、小説の世界を楽しみながら能登半島を回って来たのですが、金沢市に入ってからは、いやに生々しい話になりました。ごめんなさい。
そう言えば、「ゼロの焦点」でも、金沢市内の描写は少なかったですね。能登半島の漁村の詳細な描写に比べると、金沢市内は、駅とか宿とかの描写がさらりとしてあっただけでした。そして実は僕は、有名よりも無名を大切にする、松本清張のそんな感性にも、好感を持っているのです。あなたはいかがですか?
以上、紀行文とはまったく言えない、金沢紀行でした。今回の能登紀行は以上でおしまいです。駄文におつき合いいただきまして、本当にありがとうございました。
日吉さんに関して、いつも感心していることのひとつは(実は他にもたくさんあるのですが・・・)、よい映画をまことに丹念に見ておられることです。それはもう、感嘆に値すると思っております。本当にすごいですねえ!
お知らせいただいた映画は、たしか新聞の映画評で読んだ記憶があります。そうでしたか、舞台となったのは、能登の「總持寺」でしたか。
このお寺の正式な名前は、「曹洞宗大本山總持寺祖院」というようです。地名も、門前町と言いますから、歴史の長さも見当がつきます。
創建は14世紀(1321年)ですから、鎌倉幕府の末期でした。足利尊氏が室町幕府を開いたのが1338年ですから、鎌倉時代の本当の終わり頃ですね。
ところが、1898年(明治31年)4月13日に不幸にして大火により七堂伽藍の大部分を焼失してしまったのだそうです。火災は本堂の一部から出火したものらしいのですが、折からのフェーン現象の影響もあり、瞬時にして猛火は全山に拡がり、ほんのわずかの建物を除き、ほとんどすべての伽藍を焼失してしまいました。
大本山焼失というこの未曾有の危機に際して、曹洞宗という宗派は、考え抜いた末、布教伝道の中心を能登から、神奈川県横浜市の鶴見に移しました。僕でも知っている、鶴見の總持寺というのは、それで出来たわけです。
ですから、この能登の總持寺は復興後は、祖院と呼ばれ、発祥の地となっているわけです。
曹洞宗と言えば、福井に永平寺がありますので、同じ宗派の大本山を2つも北陸に置かずに、ひとつを人口の多い首都圏に移したことは、宗派経営のためにも有益であったと推察します。
すみません、余計なことを付け加えましたが、ご紹介いただいた映画のDVDは、必ず見てみます。
お知らせくださって、本当にありがとうございました。
エルサイトウ ジョーク集 その64
先日、朝の星占いで主人の星座のラッキーアイテムが「窓際の席」だった。それを主人に言うと「俺は毎日座っている…」との答えだった。私は窓際族の妻!
(Weekly Mag2 2005/7/1)
保育園に行き始めた3才の長男。大ベテランの園長先生が抱っこしようとすると逃げて行ってしまう。「きっと恥ずかしいんですね、すみません」と、私は謝ったが実は知っている。若い保母さんの場合は自ら抱っこをせがむ長男を…。
(Weekly Mag2 2005/7/1)
高校時代の友人Nはしょっちゅう寝坊をしていたため、駅から学校までいつも走っていた。学校へ到着する頃にはいつもハァハァ息を切らせていた。その友人の名言は「遅刻は最大のスポーツだ!」。何か違う気が…。
(Weekly Mag2 2005/7/2)
海外生活をはじめて約1年。ついた肉は7キロほど。運動してもやせられず、嘆きのメールを書いてたら 「変化無し」が「変 哀し」って。やっぱ、哀しい。
(Weekly Mag2 2005/7/2)
喫茶店で男女が喧嘩して、女が男に向かってコップの水をかける…というTVでよく見る(テレビでしか見ない)光景に遭遇しました。テレビだと水をかけた後、場面が変わりますが、現実はビショビショの男性1人…ポツン。現実は厳しいと思いました。
(Weekly Mag2 2005/7/6)
母とお中元の買い物に行く約束をしてたのですが、子供が熱を出してしまったので、メールをしました。「××が熱出しちゃったから、今日ハム理想」。きっと今年はハムに違いない。
(Weekly Mag2 2005/7/6)
「ねこのきもち」という雑誌を購読している、わが妻よ…。その前に「だんなのきもち」を理解してくれ。
(Weekly Mag2 2005/7/6)
工藤静香と観月ありさが、くびれをつまんで「軽くやばい」と言う、ビールのCMがあった。それを観た我が家の息子は、妻の腹をつまんで「かなりやばい」と言った。その後がたいへんだったのは言うまでもない。(怖かった…)
(Weekly Mag2 2005/7/7)
50歳になるまで「欠伸」を「おなら」と読んでいました。
(Weekly Mag2 2005/7/7)

先日、チャルマーズ・ジョンソン氏が、「とてもいい映画が出たから是非ご覧なさい」と、DVD(写真左)と同じ内容のビデオを貸してくださいました。ジャン・ユンカーマンという人が監督した『映画 日本国憲法』というドキュメンタリーです。DVDには日本語の字幕が出ますが、ビデオは外国向けで、英語の字幕が出ます。読本(写真右)もあります。
このドキュメンタリーにはジョンソン氏や、『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワー氏、日高六郎氏など、研究者が登場しますが、もっと幅広く、沖縄の人々、中国や韓国、またパレスチナ難民の人々の率直な声が聞かれます。特に、ドイツのように戦中の犯罪についてきちんと謝罪していない日本が、憲法第9条で戦争を放棄していることによって、かろうじてアジア諸国に受け入れられているという、日本の外における日本国憲法の意味が、このドキュメンタリーから教えられます。
アメリカ人政治学者で沖縄について著作活動を続けているC・ダグラス・ラミスという人も登場しますが、彼の、アメリカでは戦争するのが当たり前になっているけれど、日本では平和が当たり前なのだという指摘は、現在アメリカに住んでいる私には実感として強く感じられます。
日本国憲法、特に第9条は、日本国民の問題としてだけでなく、世界の中での、特にアジア諸国との問題として、日本国憲法を考え、そこに含められている意味を守り、強めていかなければ、と思います。それは恵マスターがNo.1055で書かれたこととも一致すると思います。
まだご存知なかったら、是非ご覧になってください。一般公開も計画されているそうですよ。
権利の上に眠る者
1996年に82歳で亡くなられた丸山真男氏という、戦後民主主義を代表する思想家がおられます。
晩年、「戦後民主主義の虚妄を作り出した1人」と不当な非難を受けた時、「戦前の『現実』と、戦後民主主義の『虚妄』との間でどちらを選ぶかと言われれば、私は後者に賭ける」と言い切っておられました。僕は今、氏のその精神にあらためて心からの敬意を感じています。
最近、古い本ですが、氏の「日本の思想(岩波新書)」を久しぶりに読み返す機会を持ちました。僕が今持っているこの岩波新書は、1997年4月発行の第68刷です。
岩波書店さんは、このクラスの新書版を1回に何部くらい印刷するのか知りませんが、それにしても、1961年に第1刷が発行されて以来、37年間に68刷ですから、平均すると1年間に1.8刷は発行されていたことになります。かなりの部数が発行され、ずいぶんと多くの人々に読まれてきたことがわかります。
久しぶりに読み返してみて、今回ちょっと目にとまったことをご紹介させていただきます。それは、「権利の上に眠る者」という言葉です。
民法の中にも、「時効」という制度がありますが、丸山氏が学生時代に受けた民法講義の中で、時効についてこんな説明を受けたことが、その後も強く印象に残っていると書いておられました。
時効に関して言えば、たとえばお金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババを決め込む不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするというのは、ずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれているというのです。
つまり、請求する行為によって時効を中断しない限り、単に自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというこのロジックの中には、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われるのです。
たとえば、日本国憲法の第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されています。
この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという、憲法第97条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したのだと言えます。
この考え方は、「時効」の根本精神と著しく共通していると思いませんか?
そこで、上記の憲法の規定をこの「時効」の根本精神にもとづいて若干読みかえてみますと、こんなふうになります。
「国民は今や主権者となった。しかし、主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているという事態が起きることは十分にありうる」というわけです。
これは、大げさな威嚇でも、空疎な説教でもありません。ナポレオン3世のクーデターから、ヒットラーの権力掌握に至るまでの西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。
「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし、自由を市民が日々行使することは、さらに困難である。」という言葉があるように、いつの間にか、自由の実質がカラッポになってしまう危険性は、極めて現実的にありうることです。
自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってのみ守られる。言い換えれば、日々自由になろうと努力することによってはじめて、自由でありうるということなのです。
今から40年以上前に書かれた先人のこんな文章を、現代に生きる僕達は大いに噛みしめて日々の行動に反映させるべきだなあ、とあらためて思います。
丸山真男氏をはじめ、自らの信条と善意に基づいて、場合によっては損な役割を演じてくれた、例えば日高六郎氏など多くの戦後の知性に対しても、その後の世代に属する僕達は責任があります。何歳になっても、そのことを忘れてはいけないと、ささやかながら、僕はいつも自らに言い聞かせているのです。
上記、マキシミリアン皇帝の銃殺に関連して、いろいろ考えていたのですが、いかんせん僕自身が、メキシコの歴史に関して、ほとんど知識がないことを、あらためて思い知らされました。というわけで、まずちょっとあの時代のメキシコに関する年表をおさらいしてみます。たまにはいいですね、こういうのも。
しかし、このメキシコという国の近代史も、ずいぶんとにぎやかな内容ですね。極めて簡単な概略ですが、なんとなくこの国がただの発展途上国ではない所以が、ちょっとわかったような気がします。
○ 1848年
1月28日: アルタ・カリフォルニアのサクラメント近郊、サッターズ・クリークで金山発見。ゴールドラッシュを迎える。歌に出てくる「フォーティナイナー」とは、「1849年の人々」、つまりこの時期にゴールドラッシュに乗って、一山当てようと繰り出した連中のことです。
○ 1849年
メキシコ政府は、ユカタンの反乱平定に乗り出す。3人の指導者があいついで暗殺され、反乱軍は劣勢に追いこまれる。8年間の戦いの間にユカタンの人口は半分に減少。何千人もの避難者が英領ホンジュラスに逃亡。
○ 1850年
カリフォルニアが、アメリカの31番目の州となる。
○ 1853年
4月15日: メキシコ国内で保守派によるクーデター。
4月20日: ベネズエラ亡命中の保守派指導者、サンタアナを呼び戻し4度目の大統領に据える。サンタアナは国会を廃止し、「終身独裁官」を名乗る。
6月: サンタアナ、自由主義者に対し弾圧開始。国外追放や亡命が相次ぐ。この後も、サンタアナは腐敗政治と浪費を繰り返し、国家財政を破綻に追い込む。
9月: ユカタンの反乱軍降服。一部はさらに長期にわたり抵抗を続ける。捕虜の多くはキューバへ奴隷として売却される。戦争による犠牲者はユカタン半島全人口の半分25万人におよぶとされる。
12月30日:米国、ヒラ川南方のラ・メシージャ地方760万ヘクタールをメキシコより割譲させる。交渉にあたった米国特使の名を取りガスデン協定とよばれる。同時にテウアンテペク地峡の自由通行権、コロラド川とカリフォルニア湾の自由利用権を認める。補償金はわずか一千万ドル。サンタアナは秘密裏に交渉を進め、補償金を着服。
○ 1854年
3月1日: サンタアナの背信行為を前に反対勢力が大同団結。アユトラ宣言を発し、南部山岳地帯で反乱を開始.
○ 1855年
8月9日: サンタアナ、辞職し、ベネズエラへ亡命.
8月13日: 自由党軍、メキシコ市に入城。革命成功。
10月4日: アルバレスが臨時大統領となる。政権の主体を若手改革派がにぎる。
11月14日:法相に就任したファレス、軍人および僧侶の裁判上の特権を廃止しようと「ファレス法」を提出。その主たる内容は次の3点。
@ 教会による土地所有を、教会に直接関係するものに限定し、その他のものは売却させる。
A 出生、結婚、死亡などの登録に関する教会の権限を取り上げる。
B 聖体拝受のための課金を禁止する。
12月: ファレス法が保守層の猛反発を食い流産。ファレスは教皇ピウス9世により破門される。
○ 1856年
6月: ファレス法に代わり、教会の土地問題に絞ったレルド法が公布される。共同体と教会の土地所有を禁止し、競売を強制する。この時点でカトリック教会は国土のほぼ半分を所有していた。同時にインディオの共有地(エヒード)も強制売却させたことにより、インディオの貧困化をうながす。共有地(エヒード)を奪われたインディオとこれを扇動する教会の反乱が拡がる。
○ 1857年
2月5日: 1857年憲法制定。改革諸法の他、3権分立、共和制、2年毎に選ばれる1院制議会、連邦制などを定める。サンタアナ独裁の教訓から、議会の権限を大幅に強化するとともに、言論・出版・信仰の自由を保障する。教会法制定、教会の不動産所有を禁じ、教会が信者から謝礼を受け取ることを禁止。ローマ法王ピウス9世は、メキシコ政府を非難する声明。
7月: 新憲法に反対する保守党はタクバヤ計画を発する。これに同調する首都駐屯部隊の蜂起、自由党政府崩壊。反乱部隊は,軍と聖職者の支持を得て議会を解散。
8月: 首都を追われた改革派は、グアナファトに逃れて臨時政府を樹立。脱獄に成功したファレス最高裁長官が大統領に選出される。3年にわたる「改革戦争」に移行。
○ 1857年
ユカタンで「物言う十字架崇拝」運動による反乱。チャン・サンタクルスを首都として教会中心に行政制度を確立。イギリス軍の暗黙の支持も受け、以後40年間にわたり半独立状態を確保。
○ 1858年
1月: スロアガ将軍、大統領就任を宣言。ただちにレルド法を無効と宣言。
5月: グアナファト、保守党軍により陥落。ファレスは米国に亡命し臨時政府樹立。
○ 1859年
保守派に内紛。大統領交替。
○ 1860年
10月: 米国大統領にリンカ−ン就任.
12月23日:ファレス、米国の支援を受けてベラクルスへの上陸に成功。レルド法をさらに徹底したレフォルマ法を公布。教会の十分の一税の廃止、教会財産の無償没収を宣言。ほかに修道院の閉鎖、婚姻登録の世俗化、共同墓地管理の民事移管、宗教的祭日の廃止などを盛り込む。
○ 1861年
3月: ファレスは大統領選挙に勝利。外国債権者はいっせいに債務支払いを要求。ファレスは全ての対外債務返済の一時停止を宣言。
4月 米国で南北戦争開始
10月4日: ナポレオン3世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を通じてフェルディナンド・ヨーゼフ・マクシミリアン大公(フランツ・ヨーゼフの弟)にメキシコ皇帝即位を依頼。(アメリカの南北戦争によるドサクサ紛れの感がありますね。)
10月: 英、仏、スペインの主要債権国がロンドン会議を開催。対外債務の支払いを求め、武力干渉と関税差し押えを決定。
12月14日:スペイン艦隊がメキシコのベラクルスに到着して占領開始。
○ 1862年
三国同盟軍、債務不履行を口実にベラクルス港を占拠。メキシコ国内の保守派はこれに呼応して決起。
2月: イギリスとスペインは、ファレスの新提案を受入れ撤退。フランスはそのまま居残り、傀儡政府を立て干渉戦争準備に入る。
4月16日: フランスがメキシコに宣戦布告。フランス軍、メキシコ市をめざし進軍。
5月5日: イグナシオ・サラゴサ将軍のひきいるメキシコ軍は、プエブラに侵攻したフランス軍を迎えうち撃破。(この日はメキシコの祝日となっている) フランス軍はいったんベラクルスへ撤収。保守派はフランス軍に内通し、君主制の樹立をめざす。
○ 1863年
3月: フランス、3万6千人を出兵し、再度侵攻を開始。プエブラ包囲作戦を開始。
5月: プエブラの抵抗も破れる。亡命先から帰国して参戦したコモンフォールト前大統領、プエブラの戦いで戦死。
5月: ファレス、プエブラ陥落を受け首都から避難。
6月7日: フランス軍、メキシコ市を無血占領。ファレスは、チワワ州パソ・デル・ノルテ(現シウダ・ファレス)で米国の支援のもとに4年間にわたる抵抗運動を続ける。南部ではアルバレスやディアスが抵抗を開始。
6月: フランス軍、保守派による臨時政府を樹立。ただちにナポレオン3世の計画にもとづき,マキシミリアンを迎えるための交渉(ミラマル協定)に入る。
10月3日: メキシコの保守党の代表派遣団、オーストリア・ハプスブルグ家のフェルディナント・マキシミリアン・ジョセフ大公と面接。メキシコ皇帝となるよう要請。
○ 1864年
4月: マキシミリアン、メキシコ皇帝となることを受諾。ナポレオン3世と会見し、メキシコ側の負担で引き続きフランス軍が駐留することで合意。
6月12日: 皇帝マキシミリアン1世とベルギー人の妻マリー・シャロット・アメリー・レオポルディン(カルロタ皇后)がメキシコシティーに到着。米国はマクシミリアンを承認せず、モンロー主義の立場からファレス政府を支持。南北戦争はまだ継続中。
10月: ユカタン州南部の市パリサダの町でフランス軍と市民との戦い。市民の約半数が戦死するが、多くの犠牲を出したフランス軍はビジャエルモッサへの進軍を断念。
○ 1865年
4月9日: 米国・南北戦争終結
11月: ファレス、内戦が終了するまで大統領にとどまると宣言。南北戦争を終えた米国は本格的なメキシコ支援に乗り出す。
○ 1866年
2月12日: 米国、マクシミリアン大公の皇帝承認を拒否。フランスにメキシコ撤退を迫る。
3月: プロシアとの対応に追われるナポレオン3世は、米国の圧力に屈して撤退に応じ、撤退開始。
10月: マクシミリアン、メキシコ市を脱出しケレタロにたてこもる。
○ 1867年
2月19日: 共和国軍、政府軍に対する攻撃作戦を開始。
3月12日: フランス軍、メキシコからの撤退を完了。
5月15日: 皇帝派最後の拠点ケレタロの戦い。マキシミリアン皇帝と保守派指導者は捕えられる。
6月14日: マクシミリアン、「国家反逆の罪」で新生メキシコ共和国の軍事法廷により死刑判決を受ける。
6月19日: マキシミリアン皇帝、銃殺される。保守派のミラモン、メヒア両将軍も同時に処刑される。
7月15日: ファレス、共和制の復活を宣言。財政再建のため革命軍を解散し経済復興に力を集中。軍の勢力削減と財政再建の観点から常備軍を3万から1万に減らす。このため将兵から恨みを買う。
12月: ファレス、軍不平派の代表ポルフィリオ・ディアスを破り大統領に再選。初等教育の無償、義務化を定めた公教育組織法公布。教会から大衆教育を切り離す。
いかがですか、すごい内容だと思います。それにしても、教会・軍・保守派・地主対共和派の戦いという構図は、1930年代のスペイン内乱と共通するものがありますね。
でもこれだけ気骨があり、また複雑な民族に対しては、時代錯誤の野心家、ナポレオン3世のたくらみは通じなかったはずだと思います。お気の毒なのは、誘いに乗ったマキシミリアンだという気がします。今から140年ほど前のことでした。
メキシコの近代史について、ちょっと付け加えさせてください。
実はメキシコはアメリカ合衆国と1846年から1848年まで戦争をしています。メキシコが北部領土をアメリカに譲歩する条約に調印(つまり敗北)したのは、1848年2月2日。この北部領土には現在のカリフォルニアが含まれていました。条約調印時のメキシコには、カリフォルニアでの金鉱発見の情報など入っていなかったでしょう。
恵マスターの説明に、何度かユカタンでの反乱が言及されていますが、その反乱とは、マヤ文明を築いた先住民の末裔です。
1862年5月5日のプエブラで、軍備の不十分なメキシコ軍が当時最新武器を持つと言われていたフランス軍を打ちのめしたのは、メキシコ人の誇りではありますが、その日が祝日となっているのは、どういう訳か(ビール会社の陰謀だという説もありますが)、アメリカのメキシコ系人の間であって、メキシコでは祝日とはなっていません。メキシコでお祝いのパーティーをするとしたら、アメリカからの逆輸入だそうです。
これは恵マスターの説明の枠からはずれますが、メキシコの近代現代史の中で一番重大なできごとは、1910年から始まったメキシコ革命です。メキシコ中が大荒れに荒れ、20年近くも不安定な状態が続きました。でも、この中から、他のラテンアメリカ諸国にはまれな強い国民意識が生まれたのです。
いろいろ深刻な問題を抱える国ですが、私はメキシコが大好きなのです。
虹は7色という先入観のせいでしょうか、なんだか不気味な感じがしますねぇ…
恵マスターが「虹の彼方に」でお書きになった内容、つまり言論の自由に対する圧迫が、実はアメリカでは現在進行中で、なんとも不気味な雰囲気が漂っています。
政府が直接介入すると、憲法問題になりますから、ブッシュ政権を後押しする右翼が表に出て、政権に批判的なメディアを「公正さとバランスに欠ける」として、片っ端から攻撃しているのです。政権の音頭取りをするような報道や、もっと過激な右翼の番組こそ、「公正さとバランスに欠ける」のに、それは野放図。
このごろ、私はアメリカには本当の民主主義はあるのだろうかと疑っています。 地域のレベルでは、民主主義はしっかり残っていると言えますが、アメリカ全体から見ると、民主主義は死んでしまったと思います。それならもともとあったのか、と問われたら、返答に困ってしまいます。白人の男性の間だったら、「あった」と答えられるでしょうが… それでもお金の力が働いていたでしょうから、どこまで本物の民主主義だったのか疑問です。
一方で、草の根的なテレビやラジオの番組がどんどん生まれて来て、少しずつ伸びて来ているのを見ると、右翼の圧力に負けまいとする人たちの輪が次第に広がっていることも感じます。
虹はやはり7色であってほしい、そう思います。
白虹は自然が作り出した現象で、それなりに意味があろう、という恵マスターのご意見、おっしゃる通りですね。
が、虹は7色であってほしいと思ったのは、公民権運動にかかわってきたジェシー・ジャクソン氏のRainbow Coalition(虹連合)のイメージがあったからです。多数の色があわさって虹が成り立つ。アメリカ社会を構成するさまざまな人種やエスニック集団を、虹の色にたとえたのです。とすると、やはり白一色の虹は困るのです。

パナマ運河疑獄事件
疑獄事件などというものは、バレるかバレないかの差があったり、形はまったく様々ですが、いつの世にも、どこの社会にも存在します。
僕にしてはめずらしく、「存在します。」と、最初から断定しますが、つまり、そのくらい自信を持って言えるのです、疑獄事件の存在は。残念ながら、およそ権力の存在するところ、必ずついてまわるというのが、僕の確信です。
ところで、「パナマ運河疑獄事件」というのをご存知ですか? まあ、近代の疑獄事件の典型のひとつであり、また元祖とも言えるものです。そして、それはまた近現代史にいろいろな意味で強い影響を持ったという点で、かねてから僕がとても注目しているものでもあります。
まず、ちょっとその概要をお話しておきましょう。
パナマ運河は、ご存じの通り、太平洋と大西洋を結ぶ、現在でもたいへん重要な運河です。中米・パナマにあり、アメリカが、1914年8月15日に開通させたものです。ちなみに上の写真は。パナマ運河の近影です。
この1914年という年は、奇しくも第一次世界大戦が始まった年でもあります。オーストリアがセルビアに宣戦布告して、戦争が始まったのは、同年7月28日のことでしたから、それからほんの半月余り後のことですね。
ところが、この運河はそんなにすんなりと完成したわけではなかったのです。開通からさかのぼること4分の1世紀前、たいへんな事件をフランスで起こしていたのです。
地中海と紅海を結ぶスエズ運河が、人的にも大きな犠牲を払いながらも完成したのは、1869年(明治2年)のことでした。その巨大プロジェクトの指揮者は、フランス人外交官のフェルディナン・レセップスでした。
レセップスの圧倒的な名声は、次には、パナマ運河の建設に利用されることになりました。大西洋と太平洋を結ぶという壮大な計画実現のために、レセップスを代表として、1879年、フランスにパナマ運河会社が設立され、翌年から工事が始まりました。
こうした巨大事業には、いつの世でも、それに関わる巨大なお金 = 経済的利権を巡って、実に様々な輩が活躍(暗躍)します。この事件は、まさに近代的疑獄事件の元祖というにふさわしいものでした。
まず、中米パナマの熱帯雨林の中での工事は、予想を以上に困難を極めました。難工事続きの中、会社は、当然のことながら、幾度となく資金難に陥りました。しかし、何度も発生した巨額の資金ショートの度に、運河会社は政府と議会に対して社債の発行を認可してくれるよう工作し、それに成功して、問題を先送りしていきました。(問題の先送りの借金と言えば、現在の日本政府も地方自治体も、大いにやっていることですね。)レセップスは、認可をスムースに進めるために、なんと国会議員の過半数、官僚の全部、新聞界の半数以上を完全に買収していたのです。
運河建設の現場では、極端な難工事、熱帯の厳しい気候、風土病、士気低下などで、開通などほとんど絶望的と見られていたにもかかわらず、国民は甘い幻想を抱かされ続け、社債を買い続けました。
さらに運河会社は各新聞社に対しても、途方もない金額の「広告費」を払ったのです。そして、それに対する新聞界の御礼と言えば、もちろん「開通の夢」を新聞紙上で語ることでした。
また、一獲千金を夢みる人物達にとって金儲けのいちばんの近道は議員になることでした。政治が商売となっていたのです。議員にとっては、自分を選出してくれたグループに、国家から特権を引き出して、それを貢ぐことが仕事となりました。そして党派の違いによって「論争」はしても、自分たちのこの秘密についてはかばいあったのです。「自由」が「自由競争」に、「平等」が「腐敗」に、「友愛」が「徒党の目くばせ」になり果てたのです。
こうしてパナマ運河会社の社債発行は完全に国家的詐欺になりました。(どこか身近なところにも、このような構図があるように思いませんか?)
結局、開通祝賀式を開催する予定であった1888年、パナマ運河会社はついに行き詰まり、翌89年に破産宣告を受けました。工事期間中の8年間に、社債として国民から引き出したお金は13億3500万フランにのぼりました。それがすべて紙くずとなってしまったわけです。当然、工事は完全にストップし、1903年に、アメリカが再着工するまでの10数年間は、熱帯雨林に埋もれていました。
なお、アメリカは1903年、パナマと条約を調印し、地峡を通る大洋間を渡る大型船通行可能な運河の計画に着手しました。翌年、アメリカはフランス運河会社から権利と所有権を4千万ドルで買い取り、本格着工し、10年後の1914年に完成にこぎつけたわけです。
ところで1889年のフランス・パナマ運河会社の破産は、フランス国内の約50万の中産階級の家族の生活の破綻を生み出したと言われています。
疑獄事件の裁判が姶まり、何人もの国会議員が喚問され追及されましたが、長い裁判が終わってみると(1903年)、政治家で有罪となったのは、工事期間中の元建設大臣1人のみでした。「法の前の平等」も「法治国家」も、誰からも信用されなくなりました。
議員が商人であり、互いに利権をめぐって「自由競争」しても、この特殊な商人は自分達の共通の利害に関してはかばいあうものであることを、国民はよく理解しました。こうして、腐敗した共和政に対して、噴出先のない憎しみが国民の中で、発酵していったわけです。
パナマ運河疑獄事件が明らかにしたもう1つのことは、運河会社という私的事業と国家機構をとり持つ斡旋役をユダヤ人が独占している、という事実でした。これは、その後に起きた「ドレフュス事件」に大きな影響を与えます。いや、ドレフュス事件の根は、このパナマ運河疑獄事件にあったと言ってもよいかもしれません。
パナマ運河会社が議員や官僚を買収した際のお金の配分を担ったのは、ジャーク・レーナックとコルネリウス・エルツという名の2人のユダヤ人でした。彼ら同士は互いに悪事をタネにゆすりあう関係であったのですが、一大疑獄事件に発展したその端緒は、そのうちの1人が自分だけの免罪を条件に、収賄議員の一覧名簿を新聞に譲り渡したことから始まったのです。
結局はその後、彼ら自身が「いけにえ」の役目を負わされることとなり、「国の経済・政治を牛耳っているユダヤ人」に対する憎しみの火がついたのです。
ところで、これをお読みのあなたは、「ドレフュス事件」ってご存じでしょうか? 上記のパナマ運河疑獄事件が発覚してから数年後の1894年に、フランス社会を揺るがした事件なのですが、ヨーロッパ諸国の帝国主義的発展とその後の戦争の時代に、大きな関わりがあったと僕は思っている重要な出来事でした。
ヨーロッパの近代史の本には必ず登場するこの事件ですし、この掲示板カフェでも、「ドレフュス事件とエミール・ガレ」と題して、3年以上前に取り上げたことがあります。よろしければ、ご参照ください。(記事番号1900番)
http://www.el-saito.co.jp/cgi-bin/el_cafe/cafe.cgi?no=1900
ついでですから、531番の記事にもとづいて、ちょっと「ドレフュス事件」の顛末をお話してみます。
時は1894年(日本では日清戦争が始まった年です。これもまた日本の帝国主義発展の大きな一里塚でした。)、パリのドイツ大使館から1通の手紙が盗み出され、それがまわりまわってフランス陸軍省の手に入りました。ところが、その手紙の中に、フランス陸軍の機密文書のリストが記載されていたから、たいへんなことになったのです。つまりフランス陸軍の中枢にスパイがいることが明らかになったわけですから。
当時のフランスの状況はと言えば、普仏戦争(1870〜1871)でプロシャ(ドイツ)に大負けして、アルザス・ロレーヌ地方を奪われ、工業生産力もアメリカ、ドイツに抜かれて、世界第4位に転落して焦りを深める一方では、チュニジアやインドシナを植民地化するという、帝国主義的競争のまっただ中におりました。
また、フランス国民の戦争相手国ドイツに対する復讐心は強く、社会的には軍部や右翼が台頭し、第三共和制を揺るがしておりました。王党派、ボナパルト派などもこれに加わり、第三共和制を倒して、軍部独裁政権の樹立をねらうクーデター計画まであったくらいです。(ブーランジュ事件 1889年)
こういう雰囲気の中では、必ずと言ってよいほど「産軍複合体」の利益を代表して、争いの中で金儲けを企む「愛国者」を自称する輩が多く登場します。「愛国主義」を声高に叫び、それを他に強制する人達の本質には、昔から指摘されているように、常に自己の利益追求がその隠された根底にあるものです。
ところでドレフュスは、アルザス出身のユダヤ系フランス人で、当時フランス陸軍参謀本部に勤務していた砲兵大尉でした。事件発覚後まもなく、彼がこのスパイ事件の犯人として逮捕され、右翼、愛国主義者達の声高な主張の中、陸軍は異例の速さで軍法会議を結審させ、無罪を主張するドレフュスに終身禁固刑を言い渡して、官位剥奪の上、南米ギアナ沖の悪名高い監獄へ送り込んでしまいました。実質上は、死刑のようなものでした。そこは、ひどい環境で、どんな人でも、とうてい長く生きられるような場所ではなかったからです。
ところが、実は真犯人は別にいたのです。事件発覚の2年後に、陸軍情報部のエステラジー少佐が犯人であったことが、陸軍の内部調査で判明したにもかかわらず、陸軍は体面を保つためにそのもみ消しをはかりました。
そしてこのあたりから、お金と権力、それに社会的な名誉を求める亡者達の暗躍も始まり、フランス社会を2分する大騒動になりました。
反ユダヤ主義、愛国主義、産軍複合体の利益擁護、帝国主義的権益の保護、排外主義等々が声高な主張を繰り返す中、軍部や産軍複合体の横暴を非難して、真実を明らかにせよ、という世論も沸き上がってきました。
その代表的な論客は、作家のエミール・ゾラ (1840 〜 1902 画家ゼザンヌとの関係でこのカフェにも登場しております。この掲示板のワード検索でお調べください。)です。「私は弾劾する」という大統領宛の公開質問状を新聞紙上に発表し、ドレフュス擁護の論陣を張ったことで有名です。多くの知識人、自由主義者達も立ち上がりました。
この時フランス国民は、その後のナチスにも通じる、排外主義、帝国主義の途か、共和主義の途のいずれをとるのか、選択を迫られていたのです。
ところで、パナマ運河会社の最盛期に、社債投資によるお金儲けに熱中したのは、植民地事業への投資の見返りを期待した小金持ちばかりではありませんでした。国家機構を利用して国民から金を巻き上げ、私腹を肥したのは、政治家、議員達、そして官僚、更にはスキャンダルをタネに議員たちをゆすってひと儲けを企んだ新聞界等、要するに徒党に分裂したフランス共和政そのものであったのです。
スキャンダルの連続と破産の大波の中から、多くの国民は、自分達が代表されていない議会を憎み、そして自分達を破産させた社会の在り方を憎んだのです。
また、こうした人々の凶暴な憎しみを煽り、組織し、方向を与えたものは、減びつつある古い社会の基盤に依って立ち、共和政にひと泡吹かせようとチャンスを狙っていた軍とカソリック教会の勢力でした。
そして彼らの標的となったのが、「いけにえ」としてのユダヤ人将校ドレフュスだったのです。さらに悲劇的なことは、その後、ドレフュスの無罪が明白になった時点でもなお、フランス共和制はドレフュスという1人の人間に下された誤まった審判を正すことが出来なかったことです。
世界中からの非難と注目の中、1900年の「パリ万博」の開催までもが危ぶまれる事態となった1899年9月に開かれた事件の再審で、ドレフュスは情状酌量禁固10年に減刑され、その1週間後、大統領特赦で釈放されました。そしてその年の暮れ、大赦によってドレフュス事件は「終止符」を打たれることになりました。
1906年、クレマンソー内閣の発足と同時に、また再審が開始されたのですが、そこでも、「無罪」を下すことは裁判機構上「権限」がないとされ、ついに暖味なまま終わりました。あれほど広範に国中を覆った反ユダヤ主義の嵐に対しても結局、理性的なケリをつけることができなかったのです。さらに、1909年、ドレフュスは暴漢に襲われたのですが、結局暴漢は無罪となりました。
感情的議論と憎悪をベースにした愛国主義や、拝外主義は、極めて凶暴なものですし、もっとも警戒すべき国民感情だと思います。それは戦争の世紀と言われる20世紀の凶暴性そのもののようにも思えます。その後のナチスドイツ、大日本帝国等がたどった道を考えると、こうした感情的愛国主義、拝外主義は、極めて危険な意識だと言わざるを得ません。
現在の日本も、周辺各国との関係において、ややもすると感情的な論が声高になりそうな危険性を僕は強く感じています。だからこそ、憎悪や感情をむき出しにした議論の危険性を、歴史からも大いに学んでいきたいと痛感しているのです。
エルサイトウ ジョーク集 その62
風邪を引いて、病院に行ったときのこと。「妻が妊娠中で…」といったら、お医者さんが気を利かせてくれて注射を打ってくれることになりました。ところが、注射は「おしり」で看護婦さんのまでで半ケツをする羽目に! しかも、そんなことになるとは思ってもいなかったので、その時にはいていたのは「くまのプーさん」のかわいいトランクス。看護婦さんがつぶやいた「あっ、プーさん」の一言が忘れられません。
(Weekly Mag2 2005/5/30)
同居人が「夕食はスープカレーにしろ」とメールしてきた。「しるか!」と返信すると、「そうだよ、汁だよ」と返ってきた。
(Weekly Mag2 2005/6/1)
イタリア製の素晴らしい工具を入手しました。車の整備、日常生活、サバイバル、本当に何でも出来そうです。唯一の欠点は、この工具の調整のために精密な工具一式を常に準備しておかなければならないことです。
(Weekly Mag2 2005/6/1)
父は山下達郎の『クリスマス・イブ』の一節、「Silent night, Holy night」を、「さいげんない、こ〜り〜ない」だと思っていたそうです。
(Weekly Mag2 2005/6/1)
「英検」「漢検」と同じように、「車検」は車の車種や部品を答える検定だと思ってました。
(Weekly Mag2 2005/6/1)
要領が悪く、万年ヒラ社員だが完全に開き直っている自分。ある日、スキー場のアンケートを集計していて、「非来場者」と入力したところ、何と変換されたのは「ヒラ異常者」。さすがの自分も傷ついた。
(Weekly Mag2 2005/6/6)
先日、娘が学校からもらってきたプリントには、
歓送迎会に
・参加 します
・不参加 しません
どちらかに○をつけてください
とあった。欠席はできないな・・・。
(Weekly Mag2 2005/6/10)
うちに来る宅配便のお兄さんは、午前でお願いすると11時55分に、午後でお願いすると12時5分に来ます。
(Weekly Mag2 2005/6/13)
新婚1ヶ月、主人が布団を干していて、どうやら何かを探している様子。布団たたきを探しているんだ!と分かったので、手渡そうとしたら、「はい、袋だたき」と言ってしまった。固まっていた。
(Weekly Mag2 2005/6/13)
パソコンのキーボード、「I」と「U」はお隣同士。
先日、上司に返信メールをした。
件名「○○部長が提出された愚案について」
以来、その話題は出てこない…。
(Weekly Mag2 2005/6/13)
ダイエット&美容・健康のため、同僚と1日2リットルの水を飲み始めました。初日の私達のコメントは、「アルコールだったらこの位軽いのに、水はきついねぇ」でした。ビールなら3リットルOK!
(Weekly Mag2 2005/6/13)
風呂場に並んでいるシャンプーやボディーソープ群の中に、ウエストを引き締めるローションとバストをふくよかにするローションがあった。うちの奥方は絶対間違えて使っているとしか思えない。
(Weekly Mag2 2005/6/13)
来月結婚式を挙げる彼女と同棲中だが、仕事からくたびれて帰ると、「ブライダルエステ、どうしようかなぁ。大体どこもコースがあって、3万、5万、10万って感じなんだよねー」というので、車好きの僕は「あぁ、車の板金修理も、5万、7万、15万って感じだし、同じだねー」と答えると、食べていたポップコーンを物凄い勢いで投げつけ、「修理って言うな!!」と。つーか、まず深夜のポップコーンをやめたらどうだろうか。
(Weekly Mag2 2005/6/13)
衝動買いがはげしくて悩んでます。「あ、この服かわいい」「この本、読みたい!」と深く考えずに買ってしまい、狭い部屋がさらに物でいっぱいに。なのに、150円のトマトを買うのに10分間悩んでしまうのはなぜなのか…。
(Weekly Mag2 2005/6/16)
麻雀で漢字を覚えた妹は、テストで「東西南北」を「とんなんしゃーぺー」と書いたため、母親が学校に呼び出されたことがある。
(Weekly Mag2 2005/6/16)
テレビをつけてボーっとしていたら、提供が読み上げられた。「この番組は、『金儲け商品』…」え?と思ったら「カ○ボウ化粧品」の聞き間違いだった。
(Weekly Mag2 2005/6/16)
先日、娘の宿題を見ていました。
私 「“黒板”はなんて読むの?」
娘 「こくばん!」
私 「“板張り”は?」
娘 「いた…ばり?」
私 「そうそう、じゃあ“回覧板”は?」
娘 「…まわらんいた?」
…回すんです。
(Weekly Mag2 2005/6/16)
ところで、例の会社は現在自社のホームページを持っている様子はありません。
ですから、インターネット上で同社名で検索すると、当社掲示板のような、本来まったく無関係なサイトが登場してしまうというわけです。
当社サイトは、そんなこともあるせいか、本来の販売業務以外の目的でご来店くださる方も多く、おかげさまで、今年2月に開設7年で100万件の累積アクセスを頂戴しております。
そんなサイトでこれだけおしゃべりがなされているにも関わらず、まったく同じ人物が、まったく同じやり方をずっと続けているようですので、この人達、そんなにタチが悪くもないのかな、などとすら持ってしまいます。
でもまあ、「君子危うきに近寄らず」は、こうした場合、絶対の真理だと思います。どうぞ、十分ご注意ください。
エルサイトウ ジョーク集 その61
職場には勧誘や営業などの迷惑電話が頻繁にかかってくるため、妙に愛想がよくて、名乗らない電話は無闇に取り次がないよう気をつけている。先日も1本の外線電話が。
相手「田中いますか?」
私 「…失礼ですが、お名前頂けますでしょうか?」
相手「カナイです」
私 「どちらのカナイ様でしょうか?」
相手「妻です!」
…社会って厳しいなあ。(入社2年目)
(Weekly Mag2 2005/5/2)
重たい箱を抱えていた時のこと。腰や膝に負担をかけないよう、しっかり腰を落として、ゆっくり下ろして「うまくいった!」と思った瞬間、床と箱の間に指を挟んだ。
(Weekly Mag2 2005/5/2)
ネパール料理店へランチを食べに行ったときのこと。店員さんが、セットメニューの内容を確認する際、「ナンノコッチャ」と言うので「???」となった私。「ナンと紅茶」のことだと気づいたのは、店員さんが去った後でした。
(Weekly Mag2 2005/5/6)
駅で5歳くらいの女の子がダダをこねて両親を困らせていました。ふと目をやるとその子のTシャツには「困った娘です」という文字が…。(納得)
(Weekly Mag2 2005/5/6)
3年ほど前から、転職したいと言い続けていた友人。資格を取るなど、万全の準備をしていましたが、その間に彼以外の同期がみんな転職してしまったそうです。今では「会社に残って社長を目指す!」と張り切っています。
(Weekly Mag2 2005/5/6)
先日、メガネ屋さんに行ったときのことである。団塊の世代と思われる疲れた男性が横に座った。店員が色々と説明し、希望を聞いていた途中で、
店員「形はこれでよろしいでしょうか?」
男性「ええ。お任せします」
店員「無色ですか?」
男性「えぇ! わかりますか? 実は突然リストラされたんですけど・・・」
店員「・・・」
男性「息子は大学に入ったばかりで、家のローンもまだ・・・」
(Weekly Mag2 2005/5/6)
18才で就職した会社が肌に合わず5年で退職、希望の会社に就職したが2年で社長が夜逃げ、次が経営不振でリストラを始め希望退職。次の面接先で「この会社はつぶれませんか?」って思わず聞いてしまって不合格。この間、聞いた話では最初の会社は2年前につぶれたって聞きました。今では「俺は就職難の最先端だー!」って笑いを取るしかない人生。 (残った道は自営業?)
(Weekly Mag2 2005/5/6)
夕食を食べ終わって、妻が一言、「厳選素材を使っているから美味しいね」。我が家の厳選素材と言うのは、特売のチラシを厳選して底値の素材を集めた、ということです。自分も厳選されたのか?
(Weekly Mag2 2005/5/10)
夫から「今日の夕飯は、赤い彼と緑の彼どっちがいい? アジア風に」と言うメールが。「ダーリンの作ってくれるものならどっちでもいいよ♪」と返事をし、楽しみに帰った。テーブルに用意されていたのは、〇ちゃんの『赤いきつね』と『緑のたぬき』でした…(-_-)。
(Weekly Mag2 2005/5/10)
先日、勧誘らしき電話がかかってきて、うちの祖母が出た時のこと。「もしもーし、あら…聞こえん、聞こえん…おばあちゃん耳が遠くて聞こえんのよー」と言いつつも、電話を切った後に「失礼しましたって切られた」と。しっかり追っ払い方法を覚えているうちの祖母は今年米寿です。
(Weekly Mag2 2005/5/11)
とある試験の模試の日、1週間前からかなり気合いを入れて臨んだのですが、前に座った女の子のジャケットのエリに付いてた値札(ジャスコ・4800円)に気を取られ、まったく集中できず散々な目に。競争相手を落とすタメの作戦としては最高の作戦です。お試しあれ。
(Weekly Mag2 2005/5/11)
中学の時の熱血強面の体育教師が保健の講義も担当していた。性病の授業の時、生徒の1人が「淋病・梅毒も一度かかれば免疫ができるのではないでしょうか」と意見を述べたとたん、先生はやにわにムキになって、「免疫などできん! 何度でもかかる!」と唸り声をあげた。生徒一同が先生を疑った瞬間だった。
(Weekly Mag2 2005/5/11)
ある夜、寝ていたら隣の部屋から、「わーっ!!」という叫び声が。びっくりしていたら、またも同じ部屋から「あ〜、びっくりした」という声。寝ていた父親が自分の寝言(叫び声)で起きたらしい。
(Weekly Mag2 2005/5/16)
私の席の隣にいるきれいなおねえさんが、仕事相手からメールを受け取りました。差出人は丁寧なことに、自分の名前の後ろに「拝」と記入。おねえさんは差出人に返事を出しました。「田中 治拝様」。
(Weekly Mag2 2005/5/16)
海外生まれの海外育ちの上司がいる。英語は全然問題ないんだけど、日本語があまり上手ではなく、契約成立の報告を聞きながら「それは願ったり叶ったりだね」と言うべきところ、「それは踏んだり蹴ったりだね」と言っていた。
(Weekly Mag2 2005/5/16)
以前勤めていた会社の上司は、長年アメリカに駐在していたためか、会話の中に英語の単語を混ぜて話していた。例えば、苦情を言うときは、「これは“コモンセンス(常識)”の問題ですよ。“コンプレィン(苦情を言う)”させてもらって当然です」とか。そんな彼は私がプリンターの調子が悪くて直そうとしていた時、「どうしたんや?“ペーパー”が“ジャム”したんか?」と。紙詰まりって言わんかいって思った。
(Weekly Mag2 2005/5/16)
アメリカ人S君と部長が海外でレストランに行った時のことです。部長の頼んだステーキセットにはスープかサラダが付くのですが、ウェイトレスさんの「Soup or Salad?」(スープをつけますか、サラダですか?)の問いに、部長はノリノリで「Oh Yeah!」と答え、何度も確認するウェイトレスさんに、「Come On! Please! I can eat!」と答え続けたそうです。S君が慌てて、「スープとサラダどっちにします?」と日本語できくと、「ああ、そういうことね」と部長。ずっと「スーパーサラダを食べてみるか?」と聞かれていると思っていたそうです。確かに「スープオァサラダ」。聞こえなくはないですね…。
(Weekly Mag2 2005/5/16)
私がFAXを受信しているのを見て、義母が感心して言った。「今の電話はすごいねー。しゃべったことが紙に書かれて出てくるんでしょう?」…私は、どこから説明しようかと考え込んだ。
(Weekly Mag2 2005/5/18)
レジに並んだとたん、「お待ちのお客様どうぞ。」と、隣のレジが開いた。すると、私の前にいたオバサマは、ドンと私をおしのけて、そっちに走ろうとしたが…缶づめの山をひっくり返して転んでしまい、お尻の下のアンパンはアンがとびだし、卵はぐちゃぐちゃ、グレープフルーツはころんころん。レジのお姉さんと顔を見合わせて…笑うに笑えず。あのオバサマどうしただろう…。
(Weekly Mag2 2005/5/18)
パソコン入門者の同僚が「そのパソコンおもて計算ソフトがついてます?」と聞いてきた。きっと表計算をおもてと読み違えたんだろうけど、申告時期に、裏計算ソフトなんて作ったら売れるだろうなあ?
(Weekly Mag2 2005/5/20)
電車の中での友人との会話で、「ちかんする時って、せいきひょうげんを知らないとダメだよね」そしたら、周りの白い目。違うんです。本当は、「置換する時って、正規表現を知らないとダメだよね。」なんです。パソコンを使う仕事なら常識ですよね?
(Weekly Mag2 2005/5/20)
私の母は、先日勧誘とおぼしき電話がかかってきた時、「母が外出中でわかりません」と答えていた。私の母は78歳。祖母は天国にお出かけ中。
(Weekly Mag2 2005/5/25)
9ヶ月の息子におはようのキスをしたら、「おえっ」と吐かれた。ちょっとブルーになった。
(Weekly Mag2 2005/5/26)
不要なDMが山のように届くようになり、頭に来て佐川急便の着払いで送り返してやった。ある日家に帰ると、見覚えのある封筒と送り状の字が目に飛び込んできた。なんと「お届け先」「ご依頼主」を反対に書いたのだ。9通しめて5400円。姉に「はい、立て替えておいたよ」と手を出された。ガガーン、もうしばらく立ち直れない。
(Weekly Mag2 2005/5/27)
先日、娘の育児日記を読み返していたら生後3ヶ月の娘に「毒茶」なるものを与えていました。娘はもうすぐ6ヶ月…。元気に育ってます。(麦茶?)
(Weekly Mag2 2005/5/27)
今日は日直でした。日直日誌には先生へのメッセージ欄があって、みんな様々なことを書いていました。その中でも特に印象が強かったのは某Aのメッセージで、「先生、最近、欲求不満になっていませんか。診断テストがあるのでしてみて下さい」と…。先生からのコメントは「じゃあ、してみます」とあった。
(Weekly Mag2 2005/5/27)
キーボードで「〜を負うものではない」と打って変換したら「大物ではない」と・・・。確かにそうだけど・・・。
(Weekly Mag2 2005/5/30)

「虹の彼方に」
「虹」という言葉から何を連想しますか、と問われたら、たいていの方は「虹の彼方に」のような、夢の架け橋と言うか、何かロマンチックな世界を思い浮かべることと思います。そして、それは決して間違っていることでも、非難されるべきことでもありません。しごく当たり前のことだと思います。
でも、歴史上には(しかも、今から100年も経たない日本において)、「虹」に関連して、極めて深刻な事件もあったのです。今日はそのことをちょっとおしゃべりしてみたいと思います。それは、「白虹事件」という言論弾圧事件です。
現在の日本の在り様を考えると、なんとなく気になるものですから、数日前に自宅から久しぶりに見えた虹を眺めながら、ついそんなことを思い出しておりました。上の写真は、先日自宅の3Fベランダから見た、雨上がりの夕方の虹です。とても綺麗でした。
歴史好きの僕のひが目かもしれませんが、一般的に言って、日本では自分達に身近な、近現代の歴史知識の普及が、あまりにも貧弱な気がしてなりません。つまり、自分達や両親、祖父母といった身近な人々が、なんらかの形でからんでいる、近現代の歴史を、人々があまりにも知らなさすぎるように思うのです。そしてそのことが、第2次大戦後60年を経過し、経済的な支援をいくらしてもなお、日本や日本人が、アジアのほとんどの国々から、どうしても心の深いところで信頼を得ることができない、ひとつの大きな原因のように思います。
「白虹」つまり、白い虹などという虹が本当に存在するのか否か、僕は知りませんが(少なくとも上の写真は、白虹ではありません。普通の7色の虹でした。)、漢文で「白虹日を貫く」と言うと、それは国の大乱、革命を意味するのだそうです。そのことをまずご記憶ください。
話は、1918年(大正7年)にさかのぼります。大正デモクラシーが頂点を極め、前年秋のロシア革命が、世界中を震撼させていた時期のことです。
1918年8月、シベリア出兵をあてこむ米の買占めによって米の値段が暴騰しました。あまりの不条理さに、富山県の漁村のおかみさん達が大挙して米屋におしかけ、打ち壊しを始めたことに端を発した「米騒動」は、たちまち全国に広がりました。
東京・大阪・神戸などの都市では焼き打ち、強奪の大暴動となり、政府は警察だけでなく、軍隊までも動員して、力ずくで事態を収拾しようと懸命でした。
時の首相は、長州閥、陸軍出身の寺内正毅でした。内閣は暴動拡大防止を理由に8月14日、米騒動に関する一切の新聞報道を禁止しました。報道の全面規制です。
それに対して、新聞記者側は全国的に呼応して「禁止令の解除」および「政府の引責辞職」を要求し、記者大会を開きました。8月25日に開かれた関西記者大会には、九州からの出席もふくめて86社、代表166名が参加し、それぞれ強く政府を弾劾しました。
大阪朝日のその日の夕刊には、大会の記事が掲載されましたが、その中に「白虹」という言葉がありました。
「『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」という文章です。そしてその一節の前には、「我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいてゐるのではないか」とあったのです。
かねてから言論弾圧の機会をねらっていた、寺内首相は絶好の機会とばかりに、ここで一挙に反撃に出ました。朝日新聞の報道を「朝憲紊乱罪」(天皇制国家の基本法を乱す罪)という当時最大の罪にもあたるとし、新聞紙法違反により、これも最強力の罰則である「発行禁止処分」、つまりは廃業、会社解散に追い込もうとしたのです。
当時は稀代の悪法、治安維持法はまだ成立していなかったのですが、そのわずか7年後の1925年(大正14年)には、政府は治安維持法を強引に成立せしめ、1928年にはさらに改悪して、恐怖政治の道具として大いに濫用しました。
検事局は問題の記事の筆者である大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄氏を起訴し、各6ヶ月の禁固刑の上に、朝日新聞の発行禁止処分を求刑しました。右翼のボスの組織である大同団結浪人会は、朝日新聞を「非国民」と断じて、その処分に関して司法権を監視すると決議しました。
朝日新聞の村山社長は、当局に対して監督不行届きを陳謝し、社内の粛正を誓いましたが、9月28日、新聞社からの帰途、大阪・中之島公園内で数名の暴漢に襲われました。
乗っていた人力車は転覆し、村山は暴漢に杖でなぐられたのちに「代天誅国賊」としるした布切れを首に結ばれ、石灯籠に縛りつけられました。
暴漢たちは、「檄文 皇国青年会」と記した印刷物数百枚などを現場にのこして逃走しましたが、その後の調べにより、黒龍会の所属であったことが判明しました。
結局、寺内内閣は9月のほぼ同時期に退陣し、9月29日、原敬が首相兼法相となりました。原は郵便報知新聞の記者から大東日報の主筆をへて外務省に入った経歴の持主であり、その後にまた大阪毎日から請われて契約社長に就任したことさえあるという、新聞界を熟知した人物でしたので、かえって新聞操縦術にたけていたと言えるのかもしれません。
村山朝日新聞社長は、原を訪れて寛大な処置をもとめ、編集首脳とともに自分も辞任することによって、朝日新聞は「発行禁止」、つまりは廃業をまぬかれました。
原は朝日新聞新社長の上野理一を電報で呼び寄せ、「鈴木司法次官立会にて」決意をたしかめ、起訴された社員に対して、判決には控訴しないよう説得することまで約束させました。
この会談の3日後にあたる12月4日に、2人の被告はともに「禁固2ヶ月」を言い渡されましたがが控訴せず、朝日新聞は発行禁止処分=廃業処分を受けなかったのです。
政府の理不尽を弾劾する新聞記者の大会を開催できるような社会的環境が、かろうじてでもあった時期から、ほんのわずかの間に、全国の新聞は、朝日新聞が受けた脅しに震え上がり、メディア本来の役割を放棄することになったのです。
流れは始まるとあっという間に奔流になります。甘く見ていると、いつの間にかとんでもない事態になってしまったという事例が、近現代の世界の歴史にも、わんさとあります。だからこそ、僕達は実際は何があったのかをよく知るべきですし、また中には、残念ながら、そうした事実を多くの人には知らせたくない人々がいるのも確かなのです。
本来は、美しい、夢の架け橋であるはずの「虹」から、こんなことを連想しなければならないのは、僕自身にとってもたいへん悲しいことですが、これからもこんな意識を決して捨てないつもりです。
「白虹事件」、どうかあなた様もご記憶ください。この「白虹」の彼方には、なしくずしの戦争と悲惨への道が開かれていったのです。でも、先日見た上の虹は、本当に美しいものでした。

6月3日(金)〜 5日(日)の3日間です。
エルサイトウが、毎年渾身の力をこめて開催いたします、初夏の新作ジュエリー展示会の日程は、今年は6月3日(金)から5日(日)の3日間です。
毎回、関係者達は全力を尽くして、ほぼ半年がかりで、商品を手配し、パンフレットを作成し、様々な特典のご用意等々をいたします。
以下は、今回の展示会に際して、お客様にお送りしたメッセージ・レターです。
エルサイトウのパンフレットは、お金を払って外部の専門家集団に丸投げ依託して作っているものではありません。もちろん写真撮影など、外部の一流専門家の力は借りるのですが、その内容、コピー等もすべて、社内の担当者達が、何ヶ月もの間、真剣な努力をして作成いたします。夜中に目を覚まして、思いついたことをメモするなどということすらあります。
実は毎回お客様にお送りするこのメッセージも、私が経営責任者として、これまでもすべて自分で書いて参りました。決して上手な文章などではありませんが、ご一読いただけたら幸いです。今回も私の持てる力をすべて出して書きましたので。
悠久(ゆうきゅう)
1912年(大正元年)に祖父が創業いたしましたエルサイトウは、おかげさまで今年、93年目を迎えることができました。その間、エルサイトウをご贔屓にしてくださった数え切れないくらい大勢のお客様のおかげと、衷心より感謝申し上げます。
不本意ながら短命に終る会社もある中で、こうして1世紀近くも元気に存命できましたことを、私達一同は何よりの励みとして、これからも私達に課せられたお客様のご期待と、お店の社会的な責任をまっとうすべく、さらに精進いたします。
歌舞伎役者、中村勘三郎襲名の舞台裏を取材したTV番組を見た時に、カテゴリーやタイム・スケールの差はあっても、共通することが多いという感慨を持ったことがありました。永く継続する者や組織は、どんな分野にあっても、品質にこだわり、絶えず自らに厳しい修練を課し、周囲の皆様に感謝する気持を何よりも大切にする。そんな共通点を持っているものだと、あらためて強く感じました。
今回の6月の展示会は、そんな思いを品物にも、また舞台装置にも、思い切りこめて開催させていただきます。3年前の2002年6月からご案内を開始しました、3年分・6冊のパンフレットをお集めいただきました方は、ぜひ展示会当日にご持参ください。継続の価値を人一倍大切に思うエルサイトウから素敵なプレゼントをお贈りいたします。
ところで、今回のパンフレットの中の「美的永久」のページをご覧いただけましたか?
そこには、有田の柿右衛門のお皿と、それを真剣に写して作ったドイツ・マイセンのコーヒーカップ皿、「柿右衛門写し」が掲載されています。
有田焼がオランダ東インド会社によってヨーロッパに初めて輸出されたのは、江戸時代初期の1650年のことでした。その美しさに魅せられたヨーロッパ人達が、見たこともない異国の竹や、うぐいすなどを見よう見まねで描いて作ったのが、マイセンの「柿右衛門写し」です。彼の地の人々が有田焼と初めて出会ってから数十年以上が経ってからのことでした。
マイセンのお皿では、梅の花が竹の上部に咲いていたり、竹の頭部が不自然だったり、はたまたウグイスの頭部もなんとなくおかしいのですが、そんなことはどうでもよく思えるような熱意と探求心を感じませんか? しかもさらに興味深いことは、竹やウグイスの現物を容易に見ることができる現在でも、マイセンは「柿右衛門写し」の絵柄を変えていないのです。
時の流れにしたがって変えるべきものと、変えてはいけないものがあるように思います。エルサイトウは、これまでお客様からお喜びいただいてきたものはさらに大きくし、時代に合わせて変化させるべきものは果敢に改め、そして何よりも誠実に、熱心に、悠久の価値をご提案させていただきます。私達一同は、それを心から楽しんでいるのです。
おかげさまで、エルサイトウの存在や展示会の在り方は、全国的に知られるようになってまいりました。悠久の価値をひたすらに探求し、ご提案するという私達の気持が多くの皆様の共感を得るようになったからだと存じます。
さあ、お出かけになりませんか、エルサイトウの展示会へ ! きっと悠久をお感じいただける素敵な品物と、他所ではなかなかご体験することの少ない、あたたかくて満ち足りた時間をお楽しみいただけます。
株式会社 エル・サイトウ
代表取締役 齋藤 恵
なお、上の写真が、この文中に出て参りましたマイセンのコーヒーカップ皿、「柿右衛門写し」です。この原型となりました本当の「柿右衛門」は、「エルサイトウの店内情報」のページに、掲載いたしました。よろしければ、ご覧ください。
http://www.el-saito.co.jp/cgi-bin/whats2/pmdiary.cgi?
エルサイトウ ジョーク集 その60
友人とメールで喧嘩中、「おまえが悪いんじゃないかっ!」と打ったつもりが、「おまえが悪いんジャマイカっ!」になっていた。頭の中で陽気なレゲエが鳴り響き、いっぺんに怒る気が失せた。その後素直にあやまった。それでもやっぱりおまえが悪い♪
(Weekly Mag2 2005/3/24)
パソコンで「データ」と入力したつもりが、画面を見ると「出たー」になっていた。
(Weekly Mag2 2005/3/24)
おじいちゃんが、「通販のパンツが安くて丈夫だったから、追加で10枚頼んどって。」と言った。そしたらおばあちゃんが、「そんなに生きられんから5枚にしときんさい。」と言い返した。
(Weekly Mag2 2005/3/30)
ステーキレストランに行った時のこと。隣の席にすわった10代のカップルがステーキを注文し、店員に「お肉の焼き加減は?」と聞かれ、「中火で」と答えていた。
(Weekly Mag2 2005/3/30)
母が、「防犯アラームって、カウントダウンショップに売ってるよね?」と言った。意味が分からないので詳しく尋ねると、それはディスカウントショップのことだった。
(Weekly Mag2 2005/4/4)
部長が現場に行くから作業服出してくれと新人の女子社員に頼んでいた。
部長「作業服エロエロ」
女子社員「色々ですか?」
部長「エロエロだよ! エロエロ!!」
女子社員「…エロエロって」
部長「サイズだよ〜エロエロも持ってこいってば!」
LLサイズと判断されるまで、事務所中エロエロを何回も連発していた。
(Weekly Mag2 2005/4/4)
夫が矢田亜希子の大ファンなので、美容院で「矢田亜希子さんのような髪型にしてください」と言った。カット中は疲れが出たのか、ついうとうとしてしまい、「お待たせいたしました」の声で鏡をみると、私の頭はベリーショートに! 矢田と和田を聞き間違えるなんてぇぇぇッーーーーー!!
(Weekly Mag2 2005/4/4)
美容院でパーマをかけた。最後のシャンプー中に美容師さんが、「気持ち悪い所ありませんか?」と聞いてきたので、思わず「私の顔」と言いそうになった。4時間も鏡の前に座ってて、自分の顔にうんざりしてたので…。(うまづら娘。)
(Weekly Mag2 2005/4/4)
東京勤務になり、すっかり東京ツウになった夫。丸ビルや六本木ヒルズなど、話題のスポットにも詳しくなった。先日、夫が「次の休みに青山に行こう! ズボンを買いたいんだ。」と言うので、私はおしゃれしてウキウキと出掛けた。着いた場所は家から車で10分の“洋服の青山”だった…。
(Weekly Mag2 2005/4/4)
洋服の整理をしていたら、5年前のスカートが出てきた。捨てようと思ったが試しに履いてみた。案外いけたので、今日が最後と近所のデパートへ買い物へ。やけに注目を浴びるので、気分がよくなり、やっぱりこのスカート捨てるのやめようと考えていたら、後ろから「あのぉ〜…」と。ナンパか? と思いつつ振り返る私。「チャック開いてますよ…」。その瞬間ようやく思い出しました。5年前、チャックが片側レールのみしか上げ下げ出来なくなってしまい、今度直そうと放置しつづけていた事を。
(Weekly Mag2 2005/4/4)
他の部署と共同で使っている冷蔵庫に『生ものは入れないように!』という張り紙が! 生ものを入れずに何を入れるのか…。
(Weekly Mag2 2005/4/10)
もうすぐ新人さんが入ってきます。先日、同期の友人と飲んでいて「もう1年経っちゃったけど、なにを身に付けたんだろうな?」と話していたら「これ!」とわき腹を掴まれた。
(Weekly Mag2 2005/4/11)
今を去ること16年ほど前。バブル絶頂期にデパートへ就職した私は、連日目の回るような忙しい日々を送っていました。通勤の電車の中でうとうとしていたら、ドアが開いて乗り込んできた乗客に向かって思わず「いらっしゃいませ」と…。次の駅に着くまでの5分間、微妙な忍び笑いの渦の中、眠気はすっかり飛んでいました。
(Weekly Mag2 2005/4/11)
実家近くに、焼きカレーが美味しいと評判のお店がある。しかし、行ってもよく臨時休業だったりすることがある。ある時、そのお店でカフェオレを飲んでいると、店内に「気をつけよう 休みは突然 やってくる」と標語があるのを見つけてしまった!(確信犯?)
(Weekly Mag2 2005/4/15)
スーパーで買い物していたら、子供が騒いでいる親子連れがいた。
子供「ワー、☆★※#〜! キャハハ〜! 買って〜!」
母 「ホントにこの子は。電池抜いてやりたいわ!」
(Weekly Mag2 2005/4/15)
中学1年生の時の音楽のテストで、モルダウの作曲者スメタナの出身地は? という問題に、同じクラスのHさんは広島県と書いていた。
(Weekly Mag2 2005/4/20)
新学期が始まるので、夜は早めに寝なさいと娘に話をした。すると、「わかった! 早く寝るために学校って行くんだー!」 …そんな理由で今まで学校に行っていたのだろうか。
(Weekly Mag2 2005/4/22)
朝の満員電車で、大口あけて寝ているOLを見たサラリーマンが携帯で「外は満開の桜、隣の姉さん口も満開」とメールしてました。確かにゴミ箱になりそうな口でした。上を向いて寝るのはやめようね! よだれより怖い!!
(Weekly Mag2 2005/4/22)
喪服が必要になり、実家から送ってもらおうと会社から電話をかけたところ、母が出た。「もしもし?お母さん?」と急いで話しかけたら、しばしの沈黙の後「どちらさまですか?」と聞かれた。振り込めサギだと思っているな〜と思い、仕方なく「○田×子です」とフルネームで名乗った。一人娘なのに…。
(Weekly Mag2 2005/4/22)
4月になってそれぞれ進級した小学生の息子たちに抱負を聞いた。
私「A(長男)は5年生になってどうする?」
A「どうもしない」
私「B(次男)は2年生になってどうする?」
B「どうにかする」
(Weekly Mag2 2005/4/25)
最近太ってきた姉、会社でくしゃみをする時、スカートのボタンが飛ぶのを恐れ、変に力が入り、ぶっ!とオナラが出てしまったと泣いて帰って来ました。
(Weekly Mag2 2005/4/25)
仕事帰りに工事現場を通ると、ロボットが通行する車に向かって旗を振っていた。その横にはおじさんがぼーっと立っていた。そのおじさんの腕には“ロボット監視係”と書いてある腕章が。それって…。 (自分で旗振ったら?)
(Weekly Mag2 2005/4/29)
顎の下に異物を感じたので、整形外科に行き切開して取り出すことになった。問診中、医者が「今、人生でどおですか?」と聞いてきた。「どおって何がですか?」っと言ったら、「今が太っている時なら、骨に沿って切ると、今後痩せたときに傷が凹むので跡が目立つんですよ」と。いきなり、人生でどお?って聞かれてもねえ。先に説明しろってゆうの!
(Weekly Mag2 2005/4/29)
大学の研究室で哲学の授業を受けていたら、研究室の電話が鳴った。どうやらマンションの勧誘だったらしく、「授業中だから」と教授が断るも、なかなか解放してくれない様子。業を煮やした教授は「今、哲学の授業で、人間の造る物はいつかは崩れ去ってしまうので虚しいものである、という話をしていたので、マンションなんてとても買う気になれない」と言って断っていた。
(Weekly Mag2 2005/4/29)
ある日曜日の昼下がりのこと。リビングの掃除しようとして、ゴロゴロしてる旦那に、「ちょっと掃除したいから手伝ってよ」と言ったところ、「俺はなー、毎日種馬みたいに働いてくたくたなんだよ!」っとのたまった。あんた、それを言うなら「馬車馬」だろが…。毎日、会社でどんな仕事しとんじゃ!
(Weekly Mag2 2005/4/29)
休日にテレビを見てゴロゴロしている子供達に、「おいっ! アニメばっかり真剣に見てるんじゃない! 外で遊べ! いい加減にしろよっ!」の言葉を発しながら、視線はテレビにクギづけの旦那がいる。アンタが一番真剣だろ〜がっ!
(Weekly Mag2 2005/4/29)

太秦(うずまさ)
一般的に地名というものは読みにくいことがよくあるというのはたしかです。故事来歴がある場合は、どうしてもそうなりがちです。
タイトルの京都市内の「太秦」などは、その代表的な例のひとつだと思います。どこをどんなふうに読んでも、「太」と「秦」で「うずまさ」などと読めるはずがありません。これは完全な当て字です。
ところで京都で言えば、私見ですが、この「太秦」と並ぶ変な読み方の双璧は、「先斗町(ぽんとちょう)」だと思います。これだって、いったいどうやったら「先斗」を「ぽんと」などと読むことができるでしょうか?
もうひとつ思い出しました。京都市内ではありませんが、京都府北部に、丹後という場所がありますが、そこに「間人」という地名があります。これなんて読むかご存じでしょうか? なんと「間人 = たいざ」と読むのです。何でも聖徳太子の母親にからむことが来歴らしいのですが、知らなければ絶対に読めませんね。
ところで、「ぽんとちょう」の方の由来は、比較的簡単でして、ポルトガル語のポンタ(ponta)、ポント(ponto)から名づけられたのだそうです。
ポンタは「先端」の意味。ポントは「点」「地点」の意味で、英語の「ポイント(point)」にも通じるのだそうですが、鴨側の水の流れに運ばれた土砂が積もり積もって、水面に現れた地点を「ぽんと町」と言うのだそうです。漢字で「先斗」と書くのは、単に「ポン」を「先」に、「ト」を「斗」にあてはめただけの、完全な当て字なのです。
この先斗町は、鴨川に沿って西側 (つまり河原町通り側) を、三条通りと四条通りを結ぶ通りのことで、上七軒、祇園甲部、宮川町、祇園東と共に、京都の五花街のひとつです。
ところが、「太秦(うずまさ)」の由来は、もう少し複雑です。
太秦と言えば、「弥勒菩薩」(上の写真です)で有名な「広隆寺」があったり、また「東映」の「太秦映画村」などで知られる、京都市右京区(市内西北部)にある地名です。
そもそも「太」は、「大」をふたつ重ねた「大大 = 極めて大きい」とか、「モノの始め」を意味するのだそうですから、「大きい秦」とか、「秦の始まり、始祖」と考えてよいでしょうね。
ところで、多分まったく関係ないと思いますが、中国語で「結婚している女性 = 奥さん」のことを「太太」(北京語はどう発音するのか知りませんが、広東語では、タイタイと発音します。)と言います。「大」2つを意味するその「太」をさらに2つくっつけて「太太」と言うのです。つまり「大」4つ分ということです。ということは・・・? さすが漢字発祥の国の言葉!? いや、これ以上は何か差し障りがありそうですから、「太太」についてのおしゃべりは控えておきましょう。
ところで、「太秦」がなぜ「うずまさ」と読まれるのか、例によって、知らなくても日常生活ではまったく困らないことを、あれこれ詮索するのが、当カフェの存在意義のひとつですので、またやってみます。ご興味をお持ちになった方だけ、どうぞおつき合いください。
まず「秦」のことですが、これは間違いなく、大陸から渡来した技術者集団、秦(はた)氏一族のことです。
聖徳太子の時代(7世紀初め)に、山背の国(やましろのくに)葛野(かどの)の地(現在の太秦あたり)に住み着いた大陸からの渡来人一族が、現在の太秦一帯を開発したのだそうです。それまでは、葛野県主(かどののあがたぬし)や、賀茂県主(かものあがたぬし)一族が居住していたのですが、秦氏が渡来して以降、治水を含む大規模な開発で、秦氏の居住地域となりました。平安遷都が794年のことですから、それに先立つこと2世紀近く前ということになります。
秦氏一族は、織物の技術に長けており、その技法を日本に伝えました。朝廷に絹織物を多く献じて、日本社会に食い込んで行ったらしいですね。
とまあここまでは、簡単なのですが、ここから先が諸説入り乱れという状況になります。こういうことを研究する人達は、熱心なのか、ヒマなのか、ともかく感心します。
まず諸説その1です。
『日本書紀』(720年完成)によると、雄略天皇15年(5世紀頃)、秦酒公(はだのさけのきみ)が、絹織物を朝廷に献上し、建物に一杯積み上げました。それで「禺豆(うず)麻佐(まさ)」という姓を賜わったとあるのだそうです。
平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』にもほぼ同じような逸話が記されているのだそうです。秦酒公から献じられた絹などの布は「柔軟(やわらか)にして、温暖(あたたか)きこと肌膚(はだへ)の如し」と天皇を喜ばせ、うず高く積まれた献上品にちなんで「萬都(うず)万佐(まさ)」の号を与えられたのだそうです。これが、5世紀中ごろの「太秦」の地名起源説として広く知られているものです。
ところが、実はこれを真っ向から否定する説もあるのだそうです。
それは、「ウヅマサ」は朝鮮語系の「ウヅ」(貴)と「マサ」(勝)の意で、すなわち族長と解するべきだという説も、最近ではけっこう有力になっているらしいのです。これが諸説その2です。
まだまだありますよ。
その3です。太秦の南に接して、梅津(うめづ)という地名が今でもあります。梅津は桂川沿いの埋め立て地でして、ウメヅ(梅津)はウメツ(埋め津)から来ているのだそうです。それと同様に考えると、北側隣接地のウヅマサ(太秦)も、ウヅム(埋)に関した語であるとする見方も出来ます。これだとウヅマ(埋)サ(砂)という語源分析にもなりますね。
次はその4です。太秦の地は梅津の北側、双ヶ岡(ならびがおか)山麓にありまして、梅津あたりの埋め立て地とは異なり、洪積層土質のやや高い地帯なのだそうです。古代地勢から見ると宇太村と呼ばれた、ウタ(歌)の地(またはその一部)に相当するのではないかと思われます。そうすると、ウツマサ(太秦)のウツは、宇太村のウタ(歌)と同じものであり、ウタ(歌)が良い田、すなわちウタ(宜田)と解せるのと同じように、ウツマサ(太秦)のウツはウツ(宜津)つまり宜(よろ)しい津の意味となってきます。そして下に付いている「マサ」は、ほめたたえる敬語なのだそうです。
居住するという意味の敬語にイマス(坐)という古代語があります。イマス(坐)は「君が坐(ま)さむ」など『万葉集』の歌などによく使われ、漢字「坐」をマサと読んでいます。そのマサ(坐)がウツマサ(太秦)のマサだと言うのです。つまり、ウツマサ(太秦)はウツマサ(宜津坐)で、秦氏一族が、ここを宜(よろ)しい所としておわしました、という敬称に由来するというわけです。
古代帰化人中最大の一族であった秦氏が力を持ったのは、5世紀ごろから朝廷の伴造となって秦部(織物部)を主宰したこと。そして6世紀以後は、朝廷の財産管理者となっていったことなどが原因だと思われます。そしてその中心がこの葛野(かどの)に住み着いた秦氏だったのです。
前述したように、「太」は「大」を二つ重ねた「大大」が縮められて出来たといわれるほど、たいへん大きいという意味です。大きな秦氏一族の土地。まあ、そんなところなのだと思います。
いずれにしても太古の時代より葛野の桂川流域一帯に根を下ろし、太秦〜淀川〜瀬戸内海〜大陸との交易、大堰をつくって治水によって農耕、養蚕、機織と産業を興し繁栄を作りだしていったわけです。そして、「太秦(うずまさ)」の地が、秦氏の広大な勢力圏の中心部分だったことはまちがいありません。
以上、知っていても何の役にも立たないのですが、知っていた方が面白い雑学のひとつでした。
この掲示板カフェのご常連の皆様は、上の「社長秘書」さんが語っておられる相手が、どんな連中なのか、よくご存じのことと存じます。
でも、この掲示板には、日々新しいお客様もお越しくださっておりますので、ちょっとご説明させていただきますね。
これは、そもそも2002年8月に私が書いた記事、「詐欺でしょうか?」(当掲示板記事番号2155番)の続きの話なのです。ご参考までにURLをご案内させていただきます。
http://www.el-saito.co.jp/cgi-bin/el_cafe/cafe.cgi?no=2155
それが、その後延々と続いておりまして、当掲示板内だけでも、かなりの記事数、コメント数になっております。
要は、「東商経済リサーチ」社という「調査会社」に関することなのですが、詳細はどうぞ、上記の記事や、または、当掲示板の「ワード検索」で、この会社の名前をキーワードにしてお調べください。
なにせ、今や「Yahoo」でも、「東商経済リサーチ」で検索すると、この掲示板がトップに出て来るようですので、本来まったく関係ない当社なのですが、これも仕方がありませんね。
ともかく、皆様、ご自分の頭でしっかりお考えください。社長秘書さん、ご来店ありがとうございました。社長さんに、よろしくお伝えください、元気をお出しくださいと。

チューリッヒのメガネ屋さん
ヨーロッパの多くの国々では、メガネ業界には、検眼師というか、視力測定医というような、かなり重厚な資格制度があります。要は、これを持っていないとメガネ店を開業できないわけです。
ということは、逆に言えば、その資格さえ取ってしまうと、あまり競争にさらされることなく、安泰な商売ができるということでもありました。
その結果、他の業種のお店に比べて、メガネ屋さんのお店は、暗い、魅力的でない、ピカピカに磨いていない、入りにくい等々、要するに資格制度によりかかって、あまりお店の在り方や魅力作りに努力を傾注しているとは言い難いお店がほとんどでした。
ところが、先頃、スイス・チューリッヒの目抜き通り、バーンホーフ・シュトラッセで見つけました、これまでのスイスにメガネ屋さんからすると革命的なお店を。
上の写真は通りから写したものですが、明るい、きれい、入りやすい、大きい、スタッフがにこやかである、等々、これまでとほぼ正反対なメガネ屋さんがありました。
店名は、Grand Optical と言いましたが、これは画期的でしたねえ! 保守的な商売が多いヨーロッパでも、やはり変化はあるのですね。大いに参考にしてまいりました。

スイスのホット・スポット
僕にとっては、お客様、お取引先、社内関係、それに友人達とのコミュニケーションに際して、メールは情報の大動脈です。おおげさではなくて、インターネットの接続ができないと、たとえ1日でも困ってしまいます。
というわけで、僕は1998年頃から、どこに出かけるのにも必ずPCを持参してきました。きっと格好をつけているように思われることもあったと思います、振り返ってみますと。でもそれは本当に必要だったのです。
ただ、従来は外出先でのインターネット接続には、けっこう苦労していました。国内にいる時は、まだよかったのです。早期からカード式PHS接続を確保しておりましたので、PHSさえつながれば、国内のどこにいてもまず、問題はありませんでした。また、PHSが接続できない所では、アナログ電話回線でのダイアルアップ接続を使っておりましたので、これもなんとかなっておりました。
問題は海外に出張中の期間でした。長い時には2週間余になりますので、接続の可否はもう本当に死活問題くらいに重要なことでした。
でも、国によって接続のシステムが違い、基本的には「海外ローミング」と「ダイヤルアップ」を使うのですが、けっこう苦労した記憶があります。大都市のしっかりしたホテルならまだしも、ちょっと地方に入って、インターネットなどまだ関心外のホテルなどでは、電話回線を確保して、ダイヤルアップするのにえらい苦労をしたことが度々でした。
2年ほど前、英国・オックスフォード・シャー、ウッドストック (Woodstock)という村にある、ブレナム パレス (Blenhaim Palace) に出かけて、その近所のローカルホテルに宿泊した時に、インターネット接続など、まったく未経験のホテル・スタッフ達に、お宅の電話回線(もちろん、完全なアナログ)でも、こうすればインターネットにつながりますよと、ちょっとした講習会をやってしまったこともありました。
ブレナム パレスについて、もうちょっとお知りになりたい方は、以下のURLをご覧ください。
http://www.el-saito.co.jp/cgi-bin/el_cafe/cafe.cgi?no=2367
その後インターネット接続環境は、だんだん進歩してきて、今や「ホット・スポット」の時代に入りました。いやあ、話には聞いていましたが、ホテル、駅、空港等々、ちょっとした場所にたくさん設置されている、ホット・スポットという空間にワイヤレスLANが設置されていることのありがたみを、今回スイスでいやというほど体験しました。
もちろん、スイスのことですから、しっかりお金は払わなければなりませんし、それは決して安いとは言えないのですが、本当に便利で、僕のような任務を持った旅行者には、なによりもうれしいおもてなしでした。
今回初めて、このホット・スポットを大いに活用しましたので、ちょっとご参考までに、そのシステムをご紹介させていただきます。
まず、スイス・コム (Swiss Com) という接続会社があります。その会社が、スイス各地のホテル、駅、空港等々に、かなりの数のワイヤレスLANを設置した空間・場所を設けています。それがホット・スポットです。
その空間内に入ると、PCさえ持っていれば、電源を入れると自動的にワイヤレスネットワーク接続が出来上がります。そして、インターネット・エクスプローラーを開きますと、自動的にスイス・コムのHP画面が表示されます。ちなみに、今回宿泊したチューリッヒのホテルは、館内全室がホット・スポットになっておりました。
スイス・コムのページを開きますと、まずどういう方法で支払いをするのかを聞かれます。本来は Value Card というワイヤレスLAN専用カードを事前に買うことになります。そのカードは、ホテルやお店で簡単に買うことができますが、便利なことに、スイス・コムのページから、その場でクレジットカードで買うこともできるのです。これも旅行者としてスイスに入ったばかりの人には、たいへん便利です。この購入手続きまでは、本格接続ではなくて、スイス・コムとの仮接続の状態でできるところがミソです。通信速度も高速通信として十分なものです。
Value Card には、30分、2時間、24時間接続用と各種ありますが、30分で9フラン(810円)、2時間で19フラン(1710円)、24時間で48フラン(4320円)とスイスらしく、たいへん高いものです。でも、出先でインターネットを必要とする者にとっては、この程度のお金には換えられません。
そうして、まずカードを購入しますと、ユーザーIDと、パスワードが表示されます。IDは10桁の数字、PWは4桁の数字です。
ネット上で購入すると、そのままログインボタンを押せば、正式に接続完了です。その場合、接続開始時間とID、PWを必ずひかえておくことが大切です。何かの理由で、途中、接続が切れた場合など、再接続に必要となります。
もしも現物のカードを買いますと、それはちょうど日本のテレホンカードのようなものなのですが、透明なセロハンの袋に入っています。そして、その袋を破いて開き、カードの裏側に印刷してあるIDとPWを、コインでこすって削り出す方式で読みとる仕組みになっています。
その10桁と4桁の数字を、スイス・コムのHPの指定箇所に入力すれば、それでOKです。あとは、購入契約した時間だけ接続が自動的に可能になります。
なお、直接にカードを買おうと、インターネット購入しようと、その場で使用しなくとも1年間くらいの有効期間内なら、IDとPWは、いつでも使用可能です。ただし、いったんログインすると、途中で中断はできません。
これがおおよその使用法です。こういうのが全国に張り巡らさせていたら、旅行者は本当に助かりますね。
ところで、上の写真はそのホット・スポットのひとつで、昨年秋に新装なった、チューリッヒ・クローテン空港内、ターミナルEのビジネスラウンジです。もちろん飲食のカウンターがこの脇にあり、かなりの種類の飲食サービスが可能になっています。4月3日(日)に立ち寄った折に、あまりの綺麗さにちょっと感動さえ覚えて、つい撮影してしまいました。
僕もここでメール処理を何通かしたのですが、実に使い心地のよい、すばらしいラウンジでした。仕事がら、かなりの数の空港のラウンジを体験しておりますが、チューリッヒ・クローテン空港の設備は、機能性、使いやすさ、快適性、美しさ等、あらゆる面で、僕の知る限り、現在圧倒的にナンバーワンだと思います。
ホット・スポット。なにやらいわくありげな名前ですが、こんな場所のことでした。日本ではどうなっているのでしょうか?

ブラート・ビュルスト
Kalpsbratwurst または、単に Bratwurst と言われて、すぐにおわかりになる方は、ゲルマン系の国々で、食べ物に苦労した経験をお持ちの方ではないでしょうか? (勝手な推測で恐縮ですが・・・)
標題のブラート・ビュルストとは、焼きソーセージのことです。それも仔牛の肉を使った、白っぽい色のソーセージです。
実は上の写真がその現物を写したものなのですが、これが僕のバーゼル・フェア期間中の会場での昼食の定番です。けっこういけます。(ちなみに上の写真は妻と僕の2人分です。)
バーゼル・フェアとして知られています、時計・ジュエリー業界における世界最大の見本市に僕が最初に出かけて行ったのは、1986年3月のことでした。
以来19年間、途中やむを得ない事情で2回行けなかったことがあるのですが、それ以外は毎年通い続けた、僕にとってはたいへん縁の深い見本市です。数えてみますと、今年で18回目の参加になりました。
まあ一般的に言って、どこでもこうした見本市会場内、またはその周辺で、ランチにおいしい食べ物を期待することなどは、元々無理なことはたしかなのですが、スイスのドイツ語圏という地域の食の水準を考えますと、ランチとは言え、たしかに絶望的です。
もちろん関係者は世界中から集まって来ますので、会場内でも、地元のスイス、ドイツ料理以外にも、様々なものが用意されています。オーソドックス系のユダヤ人用には、コーシャー料理、それから様々なエスニックの真似ゴトのような、無国籍系の料理などなどです。
18回の参加で、1回がだいたい2日〜3日は会場に行きますので、ざっと見ても僕は40〜50回は、バーゼル・フェアでの昼食を経験しているわけです。
ご存知の方はご存知の通り、こと食に関しては、強い好奇心と意欲を持っている僕ですから、「絶望的」な中でも、様々なものを試みてみました。そして、あらゆる試みが期待水準を大きく下回り、いつの頃からか、すべてを諦めてランチはこれ1本に絞ることにしました。早い、まあまあ食べられる、でも安くはない(スイスだから)という条件を飲んだ上でのことですが。
それが、ブラート・ビュルスト、つまり「焼いた仔牛肉のソーセージ」なのです。おいしい食に対する情熱に乏しい(私見で恐縮ですが)、ゲルマン系の食事圏では、僕は本当に苦労します。そして、不思議なことに(当たり前かもしれませんが・・・)、ゲルマン語圏での生活経験者には、僕と同意見の方が多いのです。
というわけで、あの地域のことを僕はひそかに、「腸詰め圏」と呼んでいるのです。たしかに、腸詰め(ソーセージ)とハムは、種類も驚くほど多いのですが、よく選べば、とってもおいしいものがあります。
ですから、郷に入ったら、その郷のお得意のカテゴリーの中から、食べ物を探すのが賢明なのだろうという結論に達したわけです。
それにしても、パンとカラシ等の香辛料がついて、ブラート・ビュルスト1本が6.5スイスフランもします。1フランが約90円ですから、なんとこれだけで600円近くするのです。こちらも時間的に制約された会場内に居ますので、弱みにつけ込まれているのはたしかです。町中で買えば、きっとその半分くらいになるのかもしれません。
ともかく、美しく、上質なジュエリーを求めて、メーカーさん達と真剣勝負をしているさなかに食べるランチはこれです。
これに、僕の場合は、アルコール抜きのビール(アルコホール・フライ・ビアーと発音するとわかってもらえます。)を1本と、食後のコーヒーが1杯で、しめて1人分、16フラン(1440円)、チーン、毎度アリー、というわけです。まあ、日本でもこんなものでしょうか?
今年も、おかげさまで、ブラート・ビュルスト・ランチを食べて頑張って参りました。世界中から関係者が集まりますので、その時々の世界経済の趨勢を身をもって感じることができるのも、こうした場所に来るひとつの大きな意味です。今年は、中国からのバイヤー達の激増ぶりを痛感しました。中国、ロシア、インドからのバイヤーの増加が目立っていました。なるほど・・・。

さようなら、パリ
僕が初めてパリに足を踏み入れたのは、1963年(東京オリンピックの前年)のことでした。当時、僕は高校1年生で、アテネで開催されたボーイスカウトの世界大会に参加した後に、バスでヨーロッパを横断したのです。
現在なら、とりたててどうということはない、ありふれたことですが、今から42年前の日本社会では、それはまだかなりめずらしいことでした。何か大義名分がなければ、海外渡航などは考えられない時代でしたので。
以来、しばらく空白期間はありましたが、「花の都」とされるパリとはもう40年以上のおつき合いになりますし、その間いったい何回くらい出入りしたのか、もう僕自身も覚えておりません。この街には、仕事上のジュエリーはもちろん、美術、建築、音楽、食、人間等々、本当に魅力的なモノやコトがたくさんあります。ですから、決して清潔とは言えず、一般的に人柄がよいとも言えない人達が多いこの街を、僕もそれなりに大切に思って来ました。また、半世紀近い間に仕事の相手や、友人達も増え、僕にとってはパリは、いつの頃か、たいへん身近な街になっていました。
でも、ここ何年か、どうも事情が変わってきているような気がするのです。どこの国でも、人々の意識や文化の在り方は時代にともなって変化します。またどこの地域の文化にも、それぞれに長所も短所もあるのですが、どうもこのフランスという国では、短所が大幅に増え、長所が減って来ているように思われるのです。もしかしたら、僕がそれだけ年齢を重ねたために、「今どきの若い者は・・・」的な見方を自然にしてしまうのかもしれませんが、いちおう僕の愚痴をお聞きください。
まず上の写真をご覧ください。妻と僕がパリを出る日の朝、ホテルのカフェで簡単な朝食を取った時に出てきた、カフェ・オレのポットの本体とその蓋です。
ポット本体と蓋の内側の磁器が、どれくらいいたんでいるかご覧いただけるかと思いますが、いかがでしょうか? 写真の上半分がポット本体で、下半分はそのポットのフタの内側を撮影したものです。フタの内側写真では、本来は落下防止のために作ってある突起が、悲惨なくらいに破損しています。上半分のポット本体のフタの口の部分の欠けも相当なものでした。
近年のパリ市内の治安の著しい悪化を痛切に感じている僕達は、今や安全は買うしかないと考え、最高級とは申しませんが、それなりに値段的にも格式のあるホテルに滞在することにしています。ですから、このポットは場末のカフェのポットではないのです。
こんなひどくいたんだポットを、そのクラスのホテルのカフェで出されるのは心外というのが僕の実感なのですが、ともかく、「優しさ」とか「思いやり」、それに「おもてなし」などという言葉は、こういう仕事をする人達にはまったく無縁ですし、おそらくそんな言葉の存在すら知らないのではないかという気になります。
一般的フランス人の特徴である、自己主張が強く、自分を大切にすること自体は、決して否定すべきこととは思いませんが、自分を大切にすることが、自分以外の人の気持を無視し、犠牲にするという水準にまで達しているのではないかと思うことがあるのです、この国では。
もちろん、コトは単にカフェ・オレのポットにとどまる話ではありません。一般的に仕事のクオリティ全般にわたって言えることだと常々感じておりましたので、こんな記事を書く気になったわけです。
たとえば、CDGとして知られている、パリ・シャルルドゴール空港は、僕の知る限り先進経済国の主要空港のうちで、もっとも利用者サービス精神に欠けている空港だと思います。私的なことで恐縮ですが、僕が長年使用しているスーツケースは、CDGを利用した場合は、ほとんど例外なく、どこかに部分的な破損を起こします。たしかに僕のスーツケースは、仕事上、カタログなど入っていることがあり、重いことが多いのですが、日本国内はもちろん、アジア、ヨーロッパの他の空港ではまず破損被害を受けることはありません。CDGだけが、あまりにも破損の発生率が高すぎるのです。これは数回単位の体験ではなくて、少なくとも数十回もの経験によるものですので、たぶん統計的に見ても正しいと思います。ちなみに、今回もロンドンからCDGに到着した時に、スーツケースのコーナーのひとつが、少し壊されておりました。まず間違いなく、空港でのハンドリングの際に、放り投げられたのだと思います。今回も帰国後、メーカーの修理部門にまたお世話にならなければなりません。
その他、乗り継ぎや到着案内サインの位置や数、トイレの位置、待つ時の設備の在り方などなど、およそどこの国でも愛想が悪い入管スタッフの水準を別としても、本当に不親切にできています。
また一般的にフランス人は、自分のしている仕事が嫌いなのだろうか、と思ってしまうくらい、仕事の質に愛着を持っていない成果を見せられることが多いのです。失業や首切りへの恐怖は、人一倍持っているようですし、また個人的によく知るフランス人の友人達は、人柄もよいし、仕事にも極めて熱心です。
いったいどこで、こんな乖離ができてしまうのか、まったくとまどうばかりです。でも少なくとも、上の写真のようなポットを平気でお客様に出してくるその神経。それから、そもそもポットを使ったり洗ったりする時に、そうとう乱暴な扱いをしなければ、ああはならないだろうと思われることを考えますと、「ていねいな仕事」、「心を込めた仕事」、「思いやりのある仕事」が、仕事の現場で実行されているとは、まったく思えません。
30年近くにわたる友人であるフランス人女性は、パリの安全性と快適性に疑問を強め、近くパリから脱出して、別の街に移り住むことを最近決めました。僕も今や、進んで行きたい街のリストから、パリをはずしました。もっと田舎の街の方が、どれほど快適で清潔かしれません。先日、パリから1時間余のセーヌ川下流にある、人口10万人ほどのルーアンという街に出かけた時も、本当にそんな気がしました。
自分のことだけを考え、周辺の人々への思いやりや配慮ができないのは、やはり文化的な後退だと思います。パリの街と人々が、今後どのような方向へ進んで行くのか、しばらく注視してみようと思います。メトロも路線によっては、昼間でも身の危険を感じることがあるのは確かです。僕は何十年来、もっともカモになりにくいタイプ(つまり金目のものを持っていない!)と思われるせいか、およそ盗難の類の被害にはまったく遭ったことがありませんが、何年か前にパリのメトロ(モンマルトルの丘を降りた所、メトロ2号線の Anvers 駅。たしかに場所もよくありませんでした。)で集団スリに囲まれて危うい目に遭ったことがあります。もちろん大きな声を出して抵抗しましたし、しっかりしたカバンにすべてを入れておき、ポケットにはハンカチしかありませんでしたので、被害はなかったのですが、これまで何十年間も何事もなかった、この僕までもが狙われたということは大いにショックでした。
不快で危険な思いを日常的にしなければならない街は、もう花の都とは言えないと思います。人々の心がもう少しまともな方向を向くまで、パリにはあまり足を向けないようにしようと思っております。パリ好きの方には、ごめんなさいね。

日の名残り (The Remains of the Day)
上の写真は、英国南部のある海岸風景です。写真の左手はすぐ海になっており、この時ちょうど引き潮のため干潟状態になっていた海辺には、潮の香りが充ち満ちていました。
親族を訪ねて、ロンドンから車で2時間余りのこの海岸近くまで来たのですが、この風景を見ながら、僕は映画「日の名残り (The Remains of the Day)」で、主人公のアンソニー・ホプキンスと、エマ・トンプソンが再会した、英国南西部の海岸地帯を思い出していました。もっとも、あの映画のロケ地は、ブリストル近くの、Weston-super-Mare というリゾート地なのだそうです。上の写真のポーツマス近くの海岸とは異なりますので、念のため申し添えさせていただきます。
基本的に寒冷地である英国の海岸には、たとえば南仏のコートダジュールのような、南欧の海浜保養地が共通して持っている明るく、華やいだ雰囲気はありませんが、それでも英国全土から多くの人々が、老後の住まいを求めて来るような、英国にしては温暖な地域ではあります。
それにしても、素敵な小説であり、素敵な映画でしたね、あの「日の名残り」は。第2次世界大戦をはさんで、時代に翻弄された人々の生き方を、老執事役の名優、アンソニー・ホプキンスの目を通して描いた作品でしたが、やはり、イシグロ・カズオさんという英国に帰化した日本人の原作のすばらしさが、その基本にあるのだと思います。
この小説(映画)をご覧になっておられないか、またはご記憶が薄くなった方のために、ちょっと中身のおさらいをしておきましょう。(実は、この僕自身もだいぶ前のことで、いささか記憶が薄くなっていました。)
1958年。英国、オックスフォード・シャーにあるダーリントン・ホール(この場合のホールとは、領主の館のことです。コンサート・ホール等のホールのことではありません。)は、前の持ち主のダーリントン卿が亡くなり、アメリカ人の富豪ルイスの手に渡っていました。
かつては政府要人や外交使節の訪問で賑わったこともある屋敷は、使用人もほとんど去り、老執事スティーヴン(アンソニー・ホプキンス)も、十分な管理ができず、持て余していました。そんな折、以前屋敷で働いていた、かつての女中頭、ミス・ケントン(エマ・トンプソン)から手紙をもらったスティーヴンは、新しい主人の車を借りて、彼女の元を訪ねることにしました。その目的地は英国南西部の海岸地帯でした。
あまり幸せな結婚生活をしていないことをほのめかすケントンからの手紙に、かつて20年も昔に一緒に仕事をしたことのある有能なスタッフを、また迎えることができるかもしれないという期待に加えて、ある思いを募らせる彼は、旅の途中で過去を回想していきます。
小説は冒頭、このような形で始まります。これ以降も、主人公の執事の語りで物語は進んでいくのですが(1人称小説形式)、これがまた実に丁寧なイギリス執事風の語りなのです。多くの人には、もったいをつけ過ぎているとさえ感じられるのではないでしょうか?
でも、実はそのような語り口が、たぶんこの小説を面白くしているポイントなのだという気がします。「執事(バトラー)は英国にしか居ない。他の国に居るのは召使いだけだ。」という表現をどこかで見た記憶があります。僕にはそんな世界のことは、本当はよくわかりませんが、そうなのかもしれませんね。
執事、スティーヴンの旅の間に起こる様々な小さな事件、出来事と、その合間に回想される、かつての主人と過ごした華やかな日々の記憶がこの物語の重要なテーマです。
かつての主人、ダーリントン卿は、イギリス政府に強い影響力を持つ英国貴族でした。第1次大戦後のドイツの処遇を巡ってのヨーロッパ各国の思惑や、アメリカの思惑などを、自分の屋敷に関係者たちを集めて、秘密会議を持つことで調整しようとするような、そんな「大物」であったのです。
でも、ドイツに対して同情的であった彼は、第2次大戦の中盤から戦後にかけて、対ドイツ協力者としての汚名を受けることにもなったのです。執事は、それらの出来事を、この貴族に真摯に誠実に仕えることで、ごく身近に見聞していました。
主人公の執事の語りは、こういうかつての主人の姿の回想と平行するように、これから向かう、かつての同僚、女中頭の女性との思い出にも及んでいきます。そして、執事と女中頭として、時にぶつかりあいながらも、英国社会に強い影響力を持ち、あたかも社会を動かしているかのような主人と共にあるという華やかさや、ひそかな自負心の中で過ごした日々が、記憶の中から現れてきます。
回想のシーンは大きく分けて、かつての主人との思い出と、女中頭との思い出に分けられるのですが、その中で際立っているのは、どの場面でも、執事の感情を赤裸々に吐露するということが決してないということです。1人称の小説の最大の利点は、ある場面にいる主人公の感情を赤裸々に表現出来ることにあると思いますが、この小説は、その利点を逆に利用しているように感じられます。
執事は「品格」という言葉を、意識的に頻繁に使います。この「品格」は、執事としての品格として語られるのですが、スティーヴンにとっては、一流の執事であるための絶対条件となっているようです。
回想の中で、ドイツ大使の影響で、ダーリントン卿がユダヤ人のメイドを解雇するように執事に命じる場面があります。彼は、この主人の命令を忠実に果たそうとするだけで、そのことの是非は決して問いませんでした。そのために、そのような命令を無批判に実行しようとする執事に対して腹を立てた女中頭と深刻な対立に至ることになりました。
しかし、主人公の回想では、自身の判断や、その命令に対する感情は、ごくごく控えめにしか語られません。執事は一貫して主人の命令を果たそうとし、現実にそれを淡々と実行して来ました。でもその後、主人がその命令を反省したときには、ごく控えめな喜びを回想の中の自分自身のこととして語ったりもするのです。
こうした複雑な感情を持ちながらも、それを「品格」の中に隠していた主人公が、あえて自身の恋心を、「品格」の中に隠し持ったまま、しかも、それを自分自身にすら隠すようにして20年後に会いに行く物語だからこそ、この小説は美しいのかもしれません。
孫が生まれたために、仕事は手伝えないというケントンの手を握って別れを告げたスティーヴンが、沈みゆく太陽を見つめながら涙を流す姿は、印象的でしたね。鑑賞後に何かほのぼのとした、美しい気持が残るような小説や映画が、数少なくなっているように思えてなりませんが、この小説と映画は、間違いなくそんな1本でした。すばらしい才能を感じさせる作者の今後の作品を期待したい気持です。
巴里(パリ)への途
この記事番号は、2848番です。ご来店のお客様の書き込みも含めて、記事数が1000件になったということです。各記事に寄せられましたコメント数は把握しておりませんが、それにしても、7年と2ヶ月足らずの間に、これだけの記事が出揃ったというわけです。投稿してくださった方はもちろん、お読みくださっているあなた様のような方のおかげです。本当にありがとうございます。
ところで、2845番、2846番の記事で、1867年(慶応3年)にパリで開催された、万国博覧会のことを書きました。
そして2846番の記事の最後に、当時どうやって、またどのくらいの日数をかけて、東洋の果てに位置する日本からパリまで行ったのかをご報告しますとお約束しておりました。今なら、成田空港から直行便に乗れば12〜13時間で着いてしまうわけですが、当時の交通手段では、いったいどのくらいかかったのでしょうか。
ちょっとした記録を見る機会がありましたので、ご紹介させていただきます。それによるとこんな具合でした。
まず、1867年1月11日、徳川昭武率いる総勢33名の幕府使節団が、横浜を出航し、フランスへと旅立ちました。これは、フランス客船「アルフェト号」に乗船しての旅でした。当時の日本には、ヨーロッパまで出かける航海技術も船舶もなかったのだと思います。
船はまず、横浜から中国の上海に渡ると、そのあとは、
香港 → サイゴン(ベトナム) → シンガポール → セイロン(スリランカ) → アデン(イエメン)と旅をし、そして、スエズ(エジプト)に到着しました。
スエズまでたどり着けば、今ならスエズ運河を通ることになりますが、実は1867年には、スエズ運河はまだ完成していなかったのです。
どこかで学んだご記憶があることと存じますが、スエズ運河は、フランスの外交官、フェルディナン・レセップスの指揮によって建設されました。着工は、1859年4月25日で、10年余の歳月をかけて建設され、1869年11月17日に開通しました。ですから、この日本からの派遣団が通った1867年には、工事は終盤ではありましたが、まだ出来上がってはいなかったのです。
というわけで、一行はここで汽車(電車ではありません)に乗り換え、エジプトのカイロを通って、アレキサンドリアへと向かい、ここからフランス船「サイド号」に乗り換え、メッシナ(イタリア)を経由して、ようやく2月29日の朝、フランスのマルセイユに上陸しました。
ということは、横浜を出てから49日かかって、南フランスまでたどりついたわけです。本当に命がけと言っても過言ではありません。
それからさらに汽車で最終目的地のパリに着いたのは、同年3月7日のことでした。日本を離れて56日が経過していました。
56日間というと、1344時間になります。現在の飛行機直行便が13時間とすると、ざっと100倍のスピードになるわけです。こうして見ると、時間の観念が大きく変化したことも納得できますね。
一行は、パリに到着するまでに、ずいぶん多くの都市を見て来たわけですが、随行員の一人はこんなふうに書き残しています。
「パリスに着く。その広大奇麗、盛賑は各国各都の冠たり」
(フランスのパリに着きました。その広大で、街の綺麗なこと、盛んに賑わっている様子は、全世界のどの国のどの都市の中でも一番ではないかと思えるほどです。)
近々、僕は仕事でヨーロッパに出かけるのですが、今の僕達には彼の地まで2ヶ月もかけて旅することなど、とうてい出来ません。もしやるとしたら、それはもう途方もない贅沢です。
時間、速度、距離などの観念も、時代によってこんなに違ってくるのですね。でも13時間でも、機内にじっとしている身には、けっこうこたえます。それと我が身に照らして思いついたのですが、2ヶ月もかけて移動するメリットのひとつは、時差に苦しむことがなかったことだと思います。ジワジワと移動し変化しますので、時差の問題は、ほとんどなかったことでしょうね。うらやましい! 間近に控えた時差と機内の時間を考えると、いささか憂鬱です。
エルサイトウ ジョーク集 その59
インフルエンザにかかって、ガラガラ声で実家に電話した。電話にでた母が一言、「うちの息子はそんな声じゃありません!振り込め詐欺ですねっ。…ガチャッ」苦しんでいる実の息子にトドメかよっ…。
(Weekly Mag2 2005/3/3)
同僚とステーキハウスへ食事に行きました。店員さんに、「焼き加減は?」と聞かれた同僚は、「…ウェルカム」と返答。店員さんは「いらっしゃいませ」と返していました。店員さん、ナイス!
(Weekly Mag2 2005/3/3)
両親と私でオリンピックの結果を見ていたところ、東京オリンピックの映像が出てきて、それを見た母が一言「東京ってオリンピック発祥の地なのよね」とのたまった。母の頭の中も夏バテしているようです。
(Weekly Mag2 2005/3/4)
先日テレビで「江沢民が」という言葉が流れたときにそばにいた友人が、俺のことかといわんばかりに振り向いた。おまえは大田区民。私は江戸川区民。
(Weekly Mag2 2005/3/4)
東京駅の駅弁売り場をふと見たら、「森の怪」という駅弁があった。あやしいネーミングなので、どんな物かと良く見たら「森の径(みち)」だった。
(Weekly Mag2 2005/3/4)
スーパーで3歳の娘を連れて買い物中、見知らぬ上品そうなオバサマが話しかけてきた。「カワイイわねぇ、おいくつ?」などと娘に聞いたあと、ふと私のオナカの辺りを指差して「あら、お作りになったの?」と尋ねてきた。確かに出産間近でデカイ腹はしているが、あまりにもロコツな言い方にギョッとしながら「ハイ…作りました…」と赤面で答えると、オバサマはニッコリ。「上手ねぇ。私も編み物は大好きなの♪」。…肩に掛けたショールの事だった。私の場合、作ったのは子供だけ・・・。
(Weekly Mag2 2005/3/8)
お歳暮に送った会社の商品が余ったので、夏の分も合わせてわかるようにラベルをつけておくよう、新卒派遣の子に頼んだ。その派遣の子がやめてから棚を開けたら、「お歳暮(冬)」「お歳暮(夏)」とラベルが貼ってあった。
(Weekly Mag2 2005/3/8)
我が社には20代のひょろっちい男の子が勤務している。が!どうも私達女子社員には、彼を男として見ないむきがある。というのも、彼が座っているとき、デスクの下からみえる脚が、ぴったりととじられているからだ! 退社した後、彼のスリッパは「ハ」の字にならべてあったりもする…。ちなみに、電卓を使う指使いも美しい。(観察魔)
(Weekly Mag2 2005/3/8)
ある日、息子がまじめな顔をして「新しい家に引越ししたい」と言いだした。理由を聞くと、「やかんが汚いから!」とキッパリと言われた…。すみません、洗っておきます。
(Weekly Mag2 2005/3/8)
戦隊シリーズもののビデオにはまっている2歳の次男。家に遊びに来ていた5歳の女の子と大騒ぎしているうち、興奮のあまり「カモン・ベイビー」と叫んでいた。「オマエがベイビーだろ」とその子の母親に突っ込まれていた。
(Weekly Mag2 2005/3/9)
髪をとかしながら、昔の歌が思い浮かび口ずさんでいた。「自分の姿におびえないで〜♪」と歌って、こんな歌詞だった? と気になり歌詞カードを見てみたら、「見るもの全てにおびえないで」だった。どうも鏡に映った自分を見て少しアレンジを加えてしまったようだ。これは深層心理?
(Weekly Mag2 2005/3/9)
ペットは飼い主に似るというが、3年前に買った私のCDデッキは、最近ボリュームのつまみをマイナスの方へ回すと音が大きくなり、プラスの方へ回すと小さくなります。確かに私は天邪鬼だが、そこまで似なくても…。
(Weekly Mag2 2005/3/9)
ものぐさな私は、携帯メールのやりとりで、新規作成はせずに返信で送ります。私の友人も、ものぐさな人が多いため、件名は「Re>Re>Re>Re>Re…」がほとんどです。件名だけじゃ、どんな内容だったのか全く判断できません。
(Weekly Mag2 2005/3/11)
知り合いに「ほんと、頭が下がる思いです」と打とうとしたら、「ほんと、頭が下がる重いです」になっていた。そりゃ、重ければ頭も下がるだろう!と、1人で納得した。
(Weekly Mag2 2005/3/11)
大学を卒業する甥に「もうすぐ卒業だね」と打ったつもりだったが、送った後で読み返してみると、「もうすぐ失業だね」になってた…。彼はまだ就職が決まってなく、“I”と“O”のキーが隣合わせであることを真剣に恨んだ…。祈、景気回復!
(Weekly Mag2 2005/3/11)
妻から「貼るキャベツと糊を買ってきて」とメールが届いた。キャベツをどこに貼るのだろうと思い、「この2つどうするの?」と返事を出したところ、「2つとも食べるに決まっているじゃない!」と怒られた。しばらくすると、「春キャベツと海苔」と訂正がきた。そういえば子供の工作のページを検索していたな〜。
(Weekly Mag2 2005/3/11)
会社でのランチは毎日カレーです。ゴハンだけ家から持参して、ルーだけ買って食べてます。会社近くに何件かカレー屋さんがあるので、毎日食べても飽きません。家でも食べるので、1週間朝昼晩カレーということもありました。ちなみに、全然知らない人なんだけど、あちこちのカレー屋さんでよく見かける人がいます。きっとあの人も毎日カレー。(黄色)
(Weekly Mag2 2005/3/11)
友人から「誕生日プレゼント送ったからね」とメールが来た。楽しみに待っていたら「代引き」だった…。えっ? 私が払うのか? Happy Birthda to me ?
(Weekly Mag2 2005/3/11)
実家の父が、「アフガニスタンは花粉症によく効く。アフガニスタンを食え。」としきりに言っていた。何の事だかわからずにいると、母が「ヨーグルトの事よ」と。そりゃブルガリアでしょうが…。
(Weekly Mag2 2005/3/11)
繁華街を同僚と歩いていたら、客引きのお兄さんが前に立ちはだかり、ハデな手振りを交えて「Don't stop! Dont'stop!」と、カッコつけた英語で声をかけてきた。引き留めようとしたのだろうが、私達は素直にその場を立ち去った。
(Weekly Mag2 2005/3/11)
マッサージチェアが大好きだが、買うほどの経済的余裕はなく、スーパーの家電売り場等にあるお試しコーナーへ行くのが楽しみ。店員さんに顔を覚えられるのもイヤなので、足をのばして新しい店を開拓してきた。片道1時間以上かかるスーパー。そこまで運転して行く間の腰痛が、耐えがたくなってきた。
(Weekly Mag2 2005/3/11)
家族で旅行に行ったときのこと。雄大な山の景色を目の前にして母が一言、「自然がちっぽけに感じるねぇ!」 一瞬納得してしまいました。
(Weekly Mag2 2005/3/12)
父親が帰宅するなり、「おーい、テポドンもらってきたぞぉ」と声をかけてきたので、驚いた母親が駆け寄ると、父親の手には鮮やかな色合いの“デコポン”が握られていたそうです。うちは全員、柑橘系が好き。
(Weekly Mag2 2005/3/13)
うちの犬は散歩から帰った後、必ず自分の寝床にオシッコする。何のための散歩だろう?
(Weekly Mag2 2005/3/13)
合宿で熊本に行った時のこと。練習試合をして、熊本の高校生と仲良くなった。宮崎に住んでいる私もすごい方言なのですが、熊本の方言も使ってみたくなり、熊本の子が「〜ばい」と言って話しかけてくるので、「わかったばい」と言ってみた。すると熊本の子に「ばいの使い方が違うばい」と言われた。
(Weekly Mag2 2005/3/13)
昔住んでたアパートで、彼氏と大ゲンカした時のこと。外で親子が、
子供「ねえ、おかあさん空から靴がふってきたよー」
母親「何言ってるの、ふるのは雨でしょ。靴はふらないよ」
おかあさん、あなたの子供はうそつきではありません。犯人は私。
(Weekly Mag2 2005/3/13)
4歳の次男が5歳の長男にピストルを突きつけ、「手をあげたら撃つぞ!」と叫んだ。その後、長男は手をあげようか下げようか迷っていたが、やっぱり撃たれていた。
(Weekly Mag2 2005/3/16)
うちのテレビは本体でボリュームを上げようとするとチャンネルがかわる。
(Weekly Mag2 2005/3/16)
メールチェックをすると「倉庫にある廃棄パソコンどうしましょう?」という開発部からのメールと「腰が痛くてたまらん!」という主人からのメールが来ていました。「使い物にならないものは捨てましょう」と、「大事にしてね」を逆に送ってしまい、倉庫には使えないパソコンがそのまま保管され、主人から「鬼!」というメールが戻ってきました。
(Weekly Mag2 2005/3/16)
田舎のおじいちゃんの家に子供と一緒に遊びに行った。近所を散歩している時、小学校3年の息子が「おじいちゃんは、あのハカに行くの?」と指さした。その先には「歯科」があった。
(Weekly Mag2 2005/3/17)
ダンナが出張先から「今から帰る」とメールをくれたので、「ラジャー!」と返信したら、ダンナは「ブラジャー」と読んでしまい、何と返信すればいいのか悩んだそうだ。
(Weekly Mag2 2005/3/18)
私のパソコンは、「けっこん」と入力すると、「結婚」ではなく、「血痕」に一発変換される…。さらにワープロだった頃、「僕たちは」と入力したつもりが“かな変換”になっており、変換キーを押した後、あまりの恐怖に叫んだ。変換されたのは…「子等の泣く血」…。私が泣く…。
(Weekly Mag2 2005/3/18)
高校生の時、二人連れの外人さんに「あなた、笑顔できますかぁ?」といきなり聞かれた。私は仕方なくニタニタしていたのだが、隣にいた友人は「江川できますか?」と聞こえたたらしく両耳を懸命に引っ張ってのばしていました。「英語できますか?」と言ったらしい。
(Weekly Mag2 2005/3/18)
90歳になる義父が「葬式の袋、くれんか」というので、どこに香典を包むのかと思いつつ、不祝儀袋を数枚渡すと、「掃除機の袋だよ。ゴミで満杯になっとるから換えてやる」と。有難うお義父さん、でも、『ジ』ははっきり発音してね♪
(Weekly Mag2 2005/3/18)
モロッコに旅行した時のこと。現地ガイドはなかなか日本語が上手く、漢字も少しなら書けるという。書いてみてと言うと、彼は手帳に拙い字で「会社員」と書いた。休暇中なのに、嫌なことを思い出させないで欲しかった。
(Weekly Mag2 2005/3/18)
久しぶりに片付けをしていたら高校の頃の模試の問題が出てきた。なつかしく思い、めくってみると『我が人生に悔いなし』と書いてあった。テスト結果も一緒にあったので見ると、23点だった。なにかあったのだろうか? (そのテスト、実は200点満点だった!)
(Weekly Mag2 2005/3/18)
部屋の模様替えが好きな私。いつも、あまりに物が多くて収納場所に困っているので、先日思い切っていらないものを大量に捨ててみた。最後に残ったのは、大量の収納グッズだった。宣誓、百円均一ショップ卒業!
(Weekly Mag2 2005/3/18)
大通りを横切ろうとした時のこと。立てかけてあった看板に「いま何キロ?」の文字。もちろん体重を聞いているのではないことは明白だが、思わず「ほっといてくれ!」と返したくなった。
(Weekly Mag2 2005/3/21)
となりの担当のチーフ(係長)がパソコンを見ていると、何かショックなことがあったらしく、「がちょーん!」と言った。次の瞬間、すぐ後ろに座っている課長が「なに?」。自分のことを呼ばれたと思ったらしい。
(Weekly Mag2 2005/3/21)

薩摩琉球國勲章
この直前記事、「慶応3年の金時計」の中で、1867年にパリで開催された万国博覧会には、当時の日本から2つの組織が、張り合って出展したことにふれました。
ひとつは、もちろんその時の名目上は公式な統治者であった徳川幕府です。その派遣団員(総勢33名)の代表が、前記の徳川昭武であったわけです。
そしてもうひとつは、倒幕派の雄であった薩摩藩でした。上の写真は、その薩摩藩がナポレオン3世をはじめ、現地の主要人物にばらまいた「薩摩琉球國勲章」です。薩摩藩は、これでヨーロッパの人々の認知度を大いに上げたというのです。
でも、これは妙な話ですね。幕末の大混乱期であったのはたしかですが、一応、政治体制としては、まだ徳川幕府が中央政権としての立場を保持していたわけですし、当時のフランス皇帝・ナポレオン3世は、友好関係を結んでいた日本の徳川幕府に対して、パリ万国博覧会への参加を求めたわけですから。
当初は、日本国代表として徳川幕府が参加し、各大名家も名産品を出品するという段取りだったのですが、薩摩藩はこれに強く反対しました。単独出品にこだわったのです。もちろん、その前提には倒幕の意思が強く存在していたことは間違いありません。
実はここで大活躍したのが、後に大阪商工会議所初代会頭になった、薩摩藩出身の五代友厚という人物でした。
五代は、1865年(慶応元年)に薩摩藩の留学生としてヨーロッパへ渡航して、言語・文化を学び、人脈を築いていたのです。そのために、多少怪しげな人物達も総動員して、万博内に幕府とは別に、「薩摩藩コーナー」を設けさせてしまったのです。
したがって、日本からの出展者は単一ではなく複数となり、それぞれに旗を掲げました。日本代表である徳川幕府は日の丸の旗を掲げましたが、薩摩藩は丸に十字の藩旗を高々と掲げました。勲章についているあれです。
当然、徳川幕府側は薩摩藩に抗議しましたが、薩摩藩はまったく取り合わず、最後まで薩摩琉球國代表として、単独出展を続けました。ですから、日本とかかわりを持つ諸外国の面々には、日本には主権国家が2つあるのかと、疑問に思われたわけです。ここらあたりの薩摩藩の策略は、なかなかのもので、さすがに藩独自の留学生をヨーロッパに送り出していただけのことがあります。勲章をばらまくなどということも、きっと五代あたりの入れ智恵ではないでしょうか?
その一方で、幕府は友好関係にあったフランス第2帝政からの招待を受けて、いわば受け身で出かけたわけですから、出展に対する意気込みは大いに違ったと思います。
そう言えば、何年か前、鹿児島大学の原口泉先生のセミナーを受講した際に、こんなことを聞きました。
「関ヶ原の戦い」以来、徳川幕府にとって「A級戦犯」であった薩摩藩は、ことあるごとに幕府からの締め付け、嫌がらせを受けて来ました。いつ「取りつぶし」にあっても不思議ではない状態が、2百数十年続いたわけです。参勤交代ひとつとっても、そうでした。
この時代、参勤交代で鹿児島から江戸に出るためには、片道約50日かかりました。そして、幕府の命により、毎回千人の供をつけることが義務づけられました。
この50日という日数は、全国のすべての藩の中で、もっとも長い日数でしたし、千人の供というのも最大級でした。
考えてみてください。現在、社員を宿泊が必要な出張に出したら、1人1日いくらかかるでしょうか? 通常の給与は別として、交通費、食費、宿泊費、それに準備にかかった諸費用を考えると、どう節約しても、1人1日1万円くらいはかかりますよね。
ということは、千人が50日ですから、これだけでも5億円になります。それに加えて様々なみやげ類、藩主をはじめとする上級武士達にかかる追加費用等を考えると、2年に1度の参勤交代の片道だけでも数億円。往復すれば10何億円はかかってしまったわけです。
これが藩財政を著しく圧迫したことは想像に難くありません。ところが実はこれにも大きな意味があったというのです、後から考えると。
幕藩体制の時代、国民のほとんどは、一生の行動範囲が極めて限られていました。ごくわずかの人達のみが、生まれた地方とは違う地域への旅行を体験できたわけで、ほとんどの人にとっては、生まれ育った環境や風習が人生のすべてでした。
そんな時代に、2年毎に1度、千人の人々が国内で、しかも強制的とは言え、異なる風土や文化に50日間も直接にふれる機会があったわけで、そのことが思考の進歩に大いに寄与したというのです。うーん、そうかもしれません。
それと、薩摩藩には琉球という島国があったこと。そして、秀吉の朝鮮出兵以来、朝鮮籍の人々が、かなり住み着いたこと。そんなことも、異国の文化に対する抵抗を少なくしたのかもしれません。当初の「攘夷論」の愚かさを、薩英戦争などにより、肌身にしみて早期に悟ったのも薩摩でしたね。
そんなわけで、外国とのおつき合いのノウハウに関しては、14歳の将軍代理を立てた徳川幕府よりも、自前でしかも辣腕の留学生をかかえ、売り込みに熱心であった薩摩藩に軍配が上がったとしても不思議ではありません。
こんなことを思い浮かべながら、もう一度上の勲章をご覧ください。権謀術数の記念品のようなものですね。まあ、勲章などというものは、すべてそんなカテゴリーのものかもしれませんが・・・。
現物は、美しいエナメル仕上げでした。制作は、鹿児島ではなくて、パリで作らせたのだそうです。五代友厚氏は、なかなかの策謀家であったようですね。
1867年のパリ万国博覧会については、もうひとつ記事を書きます。派遣団が通ったルートです。どこをどんなふうに通って行ったのでしょうか? 近日中に次の記事でご紹介いたします。関心のある方は、お楽しみに。
エルサイトウ ジョーク集 その58
病院の待合室で順番待ちをしていた時、すでに診察を終えて帰ろうとしているお父さんが子供に、「早く、靴はけよ」と言ったら、「2歳なんだから1人ではけるわけないじゃん!」と言っていた。それだけ言えるなら、靴ぐらい1人ではけそうだけど…。
(Weekly Mag2 2005/2/7)
社内で年季の入った人達がみな、トイレでハンカチを口にくわえて用を足しているのを見て、「おお! ああすれば、手を洗ったあとポケットを濡らさずにすむな」と感心し、早速まねして用を足していたところへ、隣にやって来た同僚がひとこと「なんでハンカチくわえてんの?」。説明しようと口を開いた途端、ハラリとハンカチは便器の中へ…。いまだにその件で会社の笑い者にされています。トホホ。
(Weekly Mag2 2005/2/7)
駅の階段を上りながら、ケーキを食べるOLを見ました。左手にケーキ、右手にフォークで。なぜそんな場所であわてて食べていたのか謎。
(Weekly Mag2 2005/2/10)
国語のテストで「平仮名に直しなさい」という問いを、「へいかめいになおしなさい」だと思い、ひとつも答えることが出来なかった。
(Weekly Mag2 2005/2/10)
必ず30分遅刻する友達M子は、「今度は30分遅刻しない!」と宣言し、その待ち合わせに1時間遅れてきた。確かに30分ではなかったけど…。
(Weekly Mag2 2005/2/10)
我が家のすぐ近くにコンビニができた。開店の日に、カップラーメンとサンドイッチを買いにいった。レジにいったら、アルバイトらしき店員さんがカップラーメンとサンドイッチを見て一発、「あたためますかぁ?」。どないせぇちゅうねん。
(Weekly Mag2 2005/2/10)
外資系の会社に勤めている友人からメールがきました。「BTW、ごはん食べない?」なんだろう? ベーコン・レタス・バーガーはBLBだし…。返信して意味をたずねると、「By the way = ところで」でした!
(Weekly Mag2 2005/2/11)
娘が幼稚園の時、母の日参観に行きました。後ろの壁には、××するお母さんという題名で絵が書かれていました。洗濯をするお母さん、掃除をするお母さん、皆は何かしら仕事をしているお母さんを書いておりましたが、うちの娘だけは、食事をするお母さんでした。
(Weekly Mag2 2005/2/12)
我が家の息子が3歳の時、旅行先の温泉で滑って転んで、椅子に頭をぶつけて切ってしまいました。救急病院に連れて行かれ、「レントゲンを撮ろうね」と言われて不安そうな息子に、「写真みたいなものだから」と私は説明しました。「撮りますよ〜」と言われて、頭の痛みになみだ目になりながらも、息子はひきつった笑顔を作っていました。
(Weekly Mag2 2005/2/12)
高校受験の日、寝坊して慌てて家を飛び出し駅へ向かったら、改札口で財布を忘れたのに気づいた。何とか受験会場に辿り着いたら受験票を忘れていた。文句言われながらも会場に入れてもらい、回答用紙に名前を書こうとしたら、筆記用具を忘れていた。「まるで悪夢だ!」と叫んだところで目が覚めた。夢だった。しかも汗びっしょりだった。もう40歳過ぎているのに…。
(Weekly Mag2 2005/2/14)
カタカナに弱いくせにやたら使いたがる上司が、電話でメリットを連呼していました。よく聞くと、納期の最終期限の確認のようで…。それはリミットでは…。後日、メリットはシャンプーですと教えてあげました。
(Weekly Mag2 2005/2/14)
久々に風邪を引きました。「大丈夫?」と心配してくれる同僚に「うん。行きつけの病院に帰り寄るから。」と言ったら、「アルコール消毒(ビール)で治す気?」といわれました。
(Weekly Mag2 2005/2/14)
私が中学生の頃、夏休みの部活の弁当に、2本の魔法瓶にそれぞれそうめんとめんつゆを入れて持参したツワモノ(と言うか、ツワモノの母を持つ少年)がいました。そうめん瓶にはもちろん氷も標準装備。魔法瓶に付属のコップでつるつると昼食を取る彼が2本の魔法瓶を持参したのは、後にも先にもそのときだけでした。
(Weekly Mag2 2005/2/14)
連日の残業で疲れていたある晩の事。海を泳いでいる夢を見ていたら、突然、タコの足みたいなのが身体じゅうに巻きついて溺れた。ビクッとして目を覚ますと、顔じゅうにパスタの麺が張り付いてました、どうやら食事中に寝てしまったらしい。目撃者(妻)いわく、「すごくゆったりとパスタに沈んでいったわよ(爆笑)」と。見殺しかよぉー!(しかもナポリタン!)
(Weekly Mag2 2005/2/14)
ある年のクリスマスのこと。イブなのにど田舎に出張。しかも残業で帰りは深夜。お店も空いてないのでコンビニでカップラーメンを買って帰宅。この時点でもかなりみじめなのに、なんとお箸が入ってない! ウィークリー・マンション型ホテルなのでフロントの人もいない! …仕方ないので歯ブラシで食べました。これと比べると、たいていの辛いことは乗り切れます。
(Weekly Mag2 2005/2/14)
うちの弟は大のカップラーメン好き。新製品は食べずにはいられず、まるでカップラーメン博士。そんな弟がつぶやいた。「俺、カップラーメンおいしく感じなくなった。ブルジョアになったってことかな」…風邪引いて味わからないって言ってたじゃん。
(Weekly Mag2 2005/2/14)
自転車をこぎながらカップラーメンを食べる人の投稿で思い出したのですが、私の友人のお兄さん(当時ヤンキー)は、自転車をこぎながらカップラーメンを食べていて、高級車にひかれたそうです。自転車ごと倒れたけれど、幸い怪我もなく無事だったお兄さんの第一声は、「俺のラーメンは!?」。高級車に乗ったお金持ちは、新しい自転車と、うな重をおごってくれたそうです。
(Weekly Mag2 2005/2/15)
久しぶりに布団を干して取り込んだ夜、敷き布団を掛けて寝てしまった。でもよく見たら両方とも敷き布団だった。
(Weekly Mag2 2005/2/15)
田舎に引っ越していった両親が、郵便局の場所を道ゆく人に尋ねたときのこと。その郵便局は「札」という地名のところにあるので、「あの、札にはどう行けばいいですか?」と聞きました。聞かれた人はびっくりした様子でしたが、丁寧に行き方を教えてくれたそうです。ところが、行ってみると、なんとそこは交番! わからないから交番で聞きなおせっていう意味だったのか?それとも、「札(ふだ)」を「サツ」と読んだのがいけなかったのか?…うちはみんな、人相悪いからねえ。
(Weekly Mag2 2005/2/21)
旦那の会社は体育会系の陽気な人が多い。がしかし、礼儀にはうるさい。忘年会で乾杯の音頭をとらされた入社3年目の後輩は、「え〜、今日は無礼講ではありません。気をつけましょう。乾杯!」と挨拶したらしい。
(Weekly Mag2 2005/2/21)
最近、日が暮れる頃に何処からともなく「ホォーホォー」という音が聞こえてくるので、「フクロウでも近くに住み着いたのかなぁ」と家族で話していた。が、ついに犯人発見! 隣のおばちゃんが物凄い形相で、なわとびの2重回しをしていた。しかもエプロンしたままで。
(Weekly Mag2 2005/2/23)
私の隣の席のSさんは、その日誕生日を迎えた社長に「“米寿”って知ってる?」と聞かれ、「知ってますよ! 茶色の薄かとでしょう!!」と答えた。
(Weekly Mag2 2005/2/23)
食べ放題のお店に行った帰り、電車の中でお腹が苦しくなってしまいました。「ふー、はー」と大きく呼吸していたら、「妊婦さんですか?」と訊かれ、席を譲っていただくことに。ありがたいけど、女心は複雑です…。
(Weekly Mag2 2005/2/24)
バレーボール・Vリーグ男子の決勝戦が「サントリー対JT」だった。観戦に行く私に父がこう言った。「なんだ、酒屋とタバコ屋の対決か。じゃあ未成年は入場禁止じゃないのか?」・・・別に、商品の即売会をやるわけじゃないんだから。
(Weekly Mag2 2005/2/24)
ウチの子は小学校の入学式の最中、上履きをかじりだしました。
(Weekly Mag2 2005/2/24)
某電機屋のレジ奥に置いてある、マジックで「ゴキ」と書かれたダンボール箱の中味がずっと気になっています。いつ行っても置いてあります。おそろしい想像をしてしまうのは私だけではないはず…。
(Weekly Mag2 2005/2/24)
会社のポストに入っていた保険会社のチラシを見たら、片隅に「星座占い」があったので自分の誕生月を見てみた。『××月生まれ…薄着をすると風邪をひく』とだけ書いてあった。そのチラシは今も会社の机にしまってある。
(Weekly Mag2 2005/2/26)
ハワイへの社員旅行を控え、ウキウキの主人。子供達に『お土産は何がいい?』と上機嫌。思わず、保険金と言いそうになった私。無事帰ってきて下さい。
(Weekly Mag2 2005/2/26)
あるHPを見ていて上の方の広告を見ると。えっ?『アソコの入院保険』? そしてちゃんと見てみると、アリコでしたぁ。まぢ、体があっつくなりました。
(Weekly Mag2 2005/2/26)
友人がお産で入院した時、余りの痛さに「もうやだぁー」と叫んだら、看護婦さんに「それはご主人と相談して下さい」と冷静に言われてしまったそうです。
(Weekly Mag2 2005/2/26)
昔、いとこから聞いた話です。福岡の北部にある「JR植木駅」がまだ「国鉄・植木駅」と呼ばれていた頃。列車がホームに入ってきたときに流れるアナウンス「うぇき〜、うぇき〜」というのを聞いたあるおじいさんは「えき(駅)はわかっとる!」と本気で怒っていたということです。
(Weekly Mag2 2005/2/28)
バリ島のレストランで朝食をとっているとき、韓国人に日本語で「こんばんは」と話しかけられ、ウェイターには「いただきます」と給仕してもらった。気持はうれしかった。
(Weekly Mag2 2005/2/28)
南の島へ行きました。日本人にほとんど会わないのに、日本語が聞こえました。「バックします」。トラックはギアをバックに入れると音声案内が出るタイプの日本の中古車でした。ちなみに車体には「中山運送店」と書いてありました。
(Weekly Mag2 2005/2/28)
趣味がダイビングで南の島によく行きます。ある日、レジに並んでいると、タンクトップに短パン姿で、日に焼けた体格のよいオバサンを発見。「あのオバちゃんは太ってるけど現地の人にしては色が白いな!」と微笑ましく見ていると、それは鏡に映った自分でした。いろんな意味で大反省しました。
(Weekly Mag2 2005/2/28)
東南アジアでは、日本語の書かれたTシャツをよく見かけます。シンガポールの地下鉄で見かけた人が着ていたTシャツには、大きな文字で「破産」と。意味がわかって着ているとはとうてい思えない。
(Weekly Mag2 2005/2/28)
エルサイトウ ジョーク集 その57
こうなったら、もうジョーク集も100回を目指してがんばります!
歯医者が嫌いな弟は、歯を健康に保つためにとキシリトールガムを買って来て噛んでいたところ、ガムが銀歯にくっつき、取れて、歯医者に行きました。
(Weekly Mag2 2005/1/3)
インターネットサイトで、「父の日プレゼント特集」をやっていた時のこと。予算4千円までのコースの商品の中に「飲むだけで美しいバストになる」というサプリメントがあった。これって父が飲むの? それとも母(または娘)が飲んで美しいバストになり、父を喜ばせるって事? それとも、父の日…乳の日? シャレなのか?
(Weekly Mag2 2005/1/3)
我が家は山間のちょい田舎。近所のおじさんが豪快なくしゃみをすると、山彦が返ってきます。自然っていいなぁ。
(Weekly Mag2 2005/1/5)
うちの甥っ子はかわいいが、たいへん変った奴だ。小学校の時ポスター作りでクラスのみんなは「交通安全」「手を洗おう」「うがいをしよう」などと書いてる中、彼の作品は、「駅弁はこちらです」だった…。
(Weekly Mag2 2005/1/5)
哲学科の弟が授業中に居眠りをしていたら、教授から急に、「恋と愛の違いについて答えなさい」と言われた。寝ぼけてた弟は、いきなり黒板まで出て行って、「鯉」と「鮎」の絵を描き、違いを説明したらしい。
(Weekly Mag2 2005/1/6)
ラーメン屋で働く僕は、お客さんによく「『またやきめん』ってなに?」、と聞かれます。指さす方向をみると、叉焼麺(チャーシューメン)の文字が…。メニューの表示を考える今日この頃です。
(Weekly Mag2 2005/1/6)
レストランでアルバイトしています。先日、昼間に友達とお洒落なレストランへ行きました。パスタを食べながら、他の客が入ってベルが鳴るたびに「いらっしゃいませー」、と反射的に5回言いました。変人を見る目でみられた…。
(Weekly Mag2 2005/1/6)
社会人2年目のSちゃんは、いまだに店長のことを先生、事務所を職員室、店を教室、社員旅行を修学旅行と言っている。早く社会人になってくれ…。ちなみに私も、過去「お母さん」と呼ばれた経験あり。
(Weekly Mag2 2005/1/6)
ウチの友達は幼い頃、近所にできたステーキハウスに初めて行った時焼き方を聞かれ「じゃ、しょうが焼きで」と答えたらしい。それを聞いたお母さんは少し慌てて、「違うでしょ! ウエルカムでしょ!」
(Weekly Mag2 2005/1/7)
中途入社した28歳の男性社員の話。遅刻した日の業務日報の反省欄に「今日は遅刻をしてしまった。二度とこのようなことが無いように目覚まし時計の数を増やす」と書かれていた。小学生の日記?
(Weekly Mag2 2005/1/10)
30人程を2泊3日の北海道旅行に招待した時のこと。観光も無事に終わり空港へ。全員を集めて、搭乗券を点検。その時、飛行機は初めてという80歳くらいの女性が、搭乗券を紛失しているのが分かった。全員でその女性の手荷物の中身などを探したが見つからなかった。彼女は「よかです。わたしは立って行きますケン」と言っていた。
(Weekly Mag2 2005/1/10)
オーストラリアに行った時のこと。トラベラーズチェックを銀行で換金しようと窓口へ。恐らく店員は、紙幣の種類は? と聞いてきたと思い、「ヒャクダラー フォー」と答えると、「ファット?」と聞き返され、大きな声で「ヒャクドゥワラァ〜 フォ〜!」それを数度繰り返していたら、後ろにいた日系人らしき人が「ヒャクが日本語!!」と教えてくれた。
(Weekly Mag2 2005/1/10)
パリで旅行中、朝食で出会った韓国人に日本語で「こんばんは」と話しかけられ、レストランのウェイターには「いただきます」と言われて給仕してもらった。
(Weekly Mag2 2005/1/10)
ビジネス関係のメールで、「私に任せていただければ、必ず性格に対応します」って書かれてもなあ。まかせらんないだろ、やっぱり。
(Weekly Mag2 2005/1/13)
ひいおばあちゃんは晩年、お年玉を少なくとも3回くれた。「もうもらった」と言うのも悪くていただいておいた。言わないほうが悪かったのかなぁ?
(Weekly Mag2 2005/1/14)
私のクシャミはデカイ。この前、台所でクシャミをしたら、そばに置いてあったステンレスのボールが『クワヮヮヮ〜ン…』と響いた。
(Weekly Mag2 2005/1/14)
銀行のATMの順番待ちをしていた時のこと。出てきたおじさんがすれ違いざまに、「おろす金、なかったわ…」とつぶやいた。そんなこと言われてもどうすることも出来ませんが・・・。
(Weekly Mag2 2005/1/14)
妻が仕事から疲れて帰ってきて一言、「職場の肉体関係って疲れるわ…」。「それって人間関係の間違いだろ〜!?」と突っ込んだが、そのまま否定もせずに眠ってしまった。その日は私も家庭の人間関係に疲れてしまった…
(Weekly Mag2 2005/1/17)
兄の子供が通っている幼稚園で参観会があったらしい。母親(義姉)が1人で行くつもりでいたのだが、長男(4歳)と長女(3歳)どちらも自分のクラスに来て欲しい!と懇願したため、仕方なく兄も仕事を休んで出席したそうだ。兄が行った長男のクラスでは、名前を呼ばれた園児が元気よく返事をし先生の質問に答える、というコーナーがあり、好きな食べ物は?と聞かれた長男が「まぐろ」と答え爆笑されたらしい。同じ頃、長女のクラスでも、同じ事を聞かれた彼女が「ほっけ」と答え笑われていた…。大恥をかいた!と赤面して話す兄夫婦だったが、そこに父の的確な審判が下った。「コレに懲りて、居酒屋でメシを食わすのはヤメなさい」。ファミレス連れてってあげなよ。
(Weekly Mag2 2005/1/17)
社員の祖母が亡くなり、香典を集めていた女子社員がメモ用紙に「御礼前」と香典袋に下書きをしていました。清書する前に、そっと「御霊前」と教えてあげました。
(Weekly Mag2 2005/1/20)
友達に、「面と向かって“変です”と言えないときは、“新しいですね”と言えば相手を傷つけなくてすむんだよ」と話したら、さっそく「お前の着てる服、新しいね」と言われた。
(Weekly Mag2 2005/1/21)
父の車を借りたら、ちょっと車体に傷をつけちゃいました。これは怒られるなぁと思いながら内緒で返し、どう謝ろうかと思案していたら。その日のうちに父が電信柱にぶつけて全損。
(Weekly Mag2 2005/1/22)
娘は年に2〜3回自動車を運転する程度の初心者。久しぶりに我が家に帰ってきて、家族で蕗採りにいくことに。「私が運転する。」という娘に、祖母が一言「気をつけてよ。あんたはハカバマークなんだから」(それを言うなら若葉マークでしょ!)
(Weekly Mag2 2005/1/22)
高速道路を走っていたら、前をすごく古い車が走っていた。横に乗ってた友達が「アノ車、ドライバーもお年寄りね。」と言うので、なぜ分かった?と聞くと「だって、枯葉マーク付けてるじゃない。」それは“紅葉マーク”です。まだ枯れちゃいません。
(Weekly Mag2 2005/1/22)
風邪で寝込んで食欲がなかった時、夫にバナナをリクエストしたら…半額シールのついた黒っぽいバナナを買ってきてくれた。結婚以来、夫に節約を教えてきた成果のあらわれらしい(お菓子はコンビニよりもスーパーで云々)。でも体調が悪い時くらいは新鮮なものを食べたかった…。
(Weekly Mag2 2005/1/24)
スキーから帰ってきた私は、あまりの体のだるさに足裏マッサージに行った。
「どこか、特にお疲れのところはありますか?」
「全体です」
「それでは、全体を中心にやらせていただきます」(笑顔)
とっても、気持ち良い一時間だった。
(Weekly Mag2 2005/1/25)
昭和48年生まれ、31歳独身女。今年は厄年です。親戚の集まりで「私、今年は本厄なんですよ」と語ったら、普段はクールな叔父が目を見開いて「えっ!………(絶句)」。「随分と私のことを心配してくれているのね」とホロリとしていたら、叔父は「私、今年婚約なんですよ」と聞き間違えていたようだ。…叔父よ、なんでそこまで驚いた? 確かに縁遠い・・・。
(Weekly Mag2 2005/1/26)
先日、夫と大喧嘩をした。1週間別居状態でそろそろ仲直りしようかなと思ったけれど、どうしたらいいかわからない。そこで毎日ケンカしてもすぐに仲直りできる5歳と3歳の娘と息子に、「どうしたらそんな風にうまく仲直りできるの?」と相談したら2人そろってこう答えた。「仲直りしないとママに怒られるから」…なるほど。
(Weekly Mag2 2005/1/28)
私のくしゃみは犬の吠え声に似ているらしい。隠れてくしゃみをすると知らない人に「犬がどっかにいるの?」と探されるほどだ。先日散歩中の犬の後ろでくしゃみをしたら、犬が振り返り振り返り何かを探し始め、飼い主に引っ張られて怒られていた。ショックだった。ごめん、犬。
(Weekly Mag2 2005/1/28)
大学に入学し一人暮らしをはじめた頃、母親から突然の怒りの電話が。「あの留守番電話の女の人は誰ね? あんた、同棲しとるんやなかろうね? そんなことお母さん許さんよ!!」 次の日から電話の自動応答を自分の声に変えました。でも母の疑惑はまだ晴れず・・・。
(Weekly Mag2 2005/1/28)
エレベーターの中における、我が社の国際本部長とロンドン支店長との会話。
「バージンはいいねえ」
「ええ、バージンは全然違いますよ。一度乗ったら病み付きですね」。
御両人! 航空とか、エアラインとか付けないと、エレベーターに乗り合わせた女の子がびっくりしてるじゃないですか!
(Weekly Mag2 2005/1/31)
28年間、「粉ふき芋」は「コフキーモ」というイタリア料理だと思っていた。パセリかかってるし…。
(Weekly Mag2 2005/1/31)

ジャ・ド・ブファン (Jas de Bouffan)
ポール・セザンヌ (Paul Cezanne 1839 〜 1906) と言えば、ご存じ、後期印象派の巨匠で、近代絵画の偉大なる先駆者です。この掲示板でも、何度か取り上げてきました。よろしければ、この掲示板の「ワード検索」機能で、「セザンヌ」をキーワードにして検索してみてください。十数件の記事が出てきます。
上の画は「ジャ・ド・ブファンの大木」(Jas de Bouffan 1885 〜 1887)というセザンヌの作品です。
実はこの画は、今年5月にクリスティーズ・ニューヨークで開催される「印象派・近代絵画オークション」に出品される1枚だそうでして、来週、3月14日、15日に東京都内のプレビュー会場で見ることができるものです。
ジャ・ド・ブファン (Jas de Bouffan) とは、銀行家だったセザンヌの父が南フランス、プロヴァンスのエクス市郊外に、1859年(セザンヌが20歳の時)に購入した広大な農場・屋敷でした。
そこにはかつて、プロヴァンス地方の総督が居住していたこともあったのだそうでして、1899年にセザンヌ家が売却してしまうまで、彼のエクスでの拠点のひとつになった場所でした。
1880年、パリから失意のうちに(作品は認められず、人間関係にも疲れて)故郷に帰ったセザンヌは、1882年以降「ジャ・ド・ブファン」の風景、たとえばマロニエの並木、用水池、農場、森などをしばしば描きました。この1枚も、こうした時期のセザンヌによって、描かれたものです。
荒々しい筆致で、がっしりとしたセザンヌらしい構成空間をつくりあげており、思わず引き込まれますね。
オークションやプレビューには、必ずエスティメート(Estimate) と言われる、予想価格が提示されますが、この画の場合は、米ドルで、1200万ドル 〜 1600万ドルという予想価格がついています。
ということは、落札予想価格で12億円〜17億円くらいということです。実際に落札すると、それに加えて、クリスティーズへの手数料10%、輸入時の消費税5%(日本の場合)、それに輸送コスト等がかかってきますので、15億円から20億円くらい支払うことになります。逆に売り主は、やはり10%の手数料をクリスティーズに支払いますから、11億円から15億円くらい手にするわけです、うまく売れればのことですが。
こうした著名なオークションハウスの Estimate は、かなり精度の高い金額ですから、まずこのあたりで決着すると見て間違いないことと思います。
誰が買うのかは、もちろんまったくわかりませんが、通常は売り主の正体も、決して一般に明かされることはありません。ところが今回の場合は、例外的に売り手のことがプレビューの案内状に書かれていたのです。これは、僕の経験では、かなり珍しいことのように思えます。
実は今回の売り主は、日本国内にある通信機器メーカーが所有する美術館なのだそうです。同社は、衛星受信機器、CATV関連機器等の通信機器を製造している会社で、衛星放送関連事業で大きな利益を上げた時代があったようなのです。
法人が所有する美術館が、所蔵品を売りに出すというのは、本体の経営が順調ならまずありえないことでしょう。しかもプレビュー案内状によると、同美術館は所蔵のセザンヌ、ゴッホ、シスレー、ピカソなど、珠玉の20点を、今回のオークションで販売する意向なのだそうで、きっと経営にご苦労の多い局面にあるのではないかと、ささやかながら経営者の一人として感じてしまいました。
今は、たいていの会社の現況は、インターネットですぐに調べられますので、乗りかかった舟みたいな気分で、ちょっと同社の決算書を調べてみましたら、やっぱり厳しそうでした。
昨年度の売上は、最盛期(1997年3月期)に比べて約25%程度減少し、経常利益に至っては、87%減でしたから、これはかなり厳しい状況だと思います。
でも、上の絵画1枚が売れれば、年間経常利益分くらいは捻出してしまうわけで、今さらながら美術品の価値のすごさに感嘆しています。同社のご健闘を心からお祈り申し上げます。
ヨーロッパの名門美術館で多くの名画を堪能すると、美術的な満足を感じることはもちろんですが、同時に、なんとなくその国の自信のようなものも感じとってしまうことがあります。俗物の僕はその自信の根拠には、そこにある膨大な美術品の所有ということもあるのではないかと思ってしまいます。何かあったら、あの画を数枚売れば、たいていの借りなど吹き飛んでしまうと思えば、けっこう自信が持てますよね。
というわけで、この記事では、セザンヌの美術的なおしゃべりではなくて、世俗的なおしゃべりに終始させていただきました。うーん、やっぱり我ながら俗物だと思います。