
The Massacre Of The Innocents
これは上の画の題名なのですが、「幼子達の虐殺」とでも訳したらよいのでしょうか、なんとも残酷なシーンですね。これは、イエス・キリスト誕生の時期に、ユダヤのヘロデ王が、将来自分に取って代わって王となる者が生まれたという預言者の言葉を聞いて、危険を感じ、その子供が生まれたと言われるベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らす殺させた、という聖書にある話をテーマにしたものです。作者は、17世紀フレミッシュの大画家、ルーベンス。
趣味から言えば、僕の好みの絵画ではありませんので、普通ならこのカフェで取り上げるものではないのですが、実は理由があるのです。
ちょうど今から1ヶ月前の、2002年7月10日に、ロンドンでこの1枚の画がちょっとした記録を作ったのです。
以下は、その翌日、7月11日の「Evening Standard」の記事の要約です。バブル経済はなやかなりし頃の日本ならともかく、現在でもこんなことがあるのだなあ、と感無量の気持ちでこの書き込みをしています。
この新聞記事は、先日、夏休みでロンドンから一時帰国した娘が、持って来たものです。彼女はこの記事を読んだ日に興奮して、はるばる電話をしてきました。僕と似たようなDNAを持っているのかな、と思ってしまいました。
それではまいりますね。
長い間失われていたルーベンスのこの名画が、昨夜、これまでに英国内で売られた絵画としては最高の価格で、氏名・国籍不詳の収集家によってオークションで競り落とされました。直接のビッダーは、ロンドンを根拠地としている美術商のサム・フォッグ氏(Sam Fogg)でした。価格は4950万ポンド(サザビーズの手数料込み)。現在の為替で換算すると90億円くらいでしょうか。
氏は、サザビーズ (Sotheby's) のセール・ルームで、携帯電話を手にして、自らが代理を務める真の購入者と連絡を取りながらビッディングに参加していました。
この画のオークションは、サザビーズのメインのセール・ルームで、500人以上の関係者が集まっている中で行われました。ビッディングの開始価格は300万ポンドでした。
このオークションの直前までは、サザビーズはこの画の価値を600万ポンド程度までと踏んでいました。もともとこの画は、200年間もの間、ルーベンス自身の作ではなくて、ルーベンスの模倣画家で、もっとマイナーな Jan van den Hoecke の作品と見なされていたものだったのです。
サザビーズのスポークスマンは、こう語っています。
「それは本当にすばらしいオークションでした。まず300万で始まり、320万、380万と続きました。そして、誰かが600万と叫んだのです。それを皮切りに、それ以降は、何百万単位で上がっていきました。でも参加者達は、決して興奮の中で無我夢中で値を上げていったわけではないのです。彼らは、どうしてもあの画が欲しかったのです。」
ここは僕のコメントですが、サザビーズにしてみれば、それはすばらしいオークションであったはずです。通常なら落札価格の10%ずつを、出品者と落札者の双方から徴収するオークションハウスがこの1件の競売で受け取った金額は、ほぼ10数億円くらいになるわけですから。
今回のこの金額は、以前このカフェに書きました、1990年にニューヨークで競り落とされた、ゴッホの「ガシェ医師の肖像画」(8250万ドル=その当時で、4900万ポンド。日本円では当時の為替レートで、約124億円)を、ポンド価格では上回った記録的なものでした。
また昨日の販売は、ちょうど22年前に、同じルーベンスの同時代の作品「サムソンとデリラ」がロンドンのオークションで、ナショナル・ギャラリーに250万ポンドで売られたことを思い起こさせます。(今回の落札価格は、その20倍近くということになります!)
この作品は、1609年から1611年頃に描かれたもので、北部ヨーロッパのバロック芸術の始まりを告げる記念碑的な作品です。
今回のオークショニアを務め、サザビーズ・ヨーロッパ社の会長でもあるヘンリー・ウィンダム氏はこのセールを、彼の約30年間にわたる芸術世界との関わりの中でも、極めて特筆すべきもので、決して忘れることのできないものです、と語っていました。
そして「この作品は古い時代の大画家の作品で、いささかの問題も疑念もなく、マーケットに現れたものの中でも、もっとも偉大なものだと思います。」とも語っていました。
以上、ここまでが「イヴニング・スタンダード」紙の記事からの引用です。ウーム、なるほど。でも最後の一言が気になりますね。やっぱり「疑念や問題」がある大作というのもあるのでしょうね、けっこう。
ところで、今回の真の購入者はいったい誰? もちろん代理人を務めたフォッグ氏は、名前も国籍も一切明らかにしていませんが、金額からしても。おおよその想像はつきます。
彼がこれまでに代理人として仕事をした主たる人物は、1)アメリカの Paul Getty Jr. と 2)英国の The Times の元オーナー、David Thompson と聞けば、美術界にちょっと興味を持っている人なら、すぐわかることと思います。
今回の僕の勘では、1)Paul Getty Jr. ではないかな、と思います。あなたはどう思いますか?

初めての試みでしたが・・・。
8月4日(日)、1日だけの開催でしたが、エルサイトウとしては初めての挑戦、「アンティーク・ジュエリーご紹介の会」を当社3Fのサロンで催しました。
1850年くらいから、1920年あたりまでに製作された(ほとんどは英国。一部はフランス)貴重なアンティーク・ジュエリーを二百数十点集めました。 この分野では国内の第一人者であります、山口 遼氏(元・ミキモト常務取締役・営業本部長)が、終日ご説明やお客様からのあらゆる質問にお答えするという、贅沢な内容でした。
100年以上前の職人が、今では考えられないような高度の技と膨大な時間をかけて作り上げた逸品の数々の多くの中には、今では技術的、あるいはコスト的に絶対作れない品も多くあります。
おかげさまで、今年創業90周年を迎えた、エルサイトウ創業の頃に製作されたジュエリーもずいぶんありました。
今回は、初めての試みでもあり、ごく簡単なご案内をお出ししただけでしたし、暑い8月のことですから、はたしてお客様がお集まりくださるのかどうか、当日まで不安でしたが、フタを開けてみてびっくり! 講師の山口 遼さんも驚かれるくらい、10時の開場直後から19時の閉店まで、お客様が本当に大勢、途切れることもまったくなく、お越しくださいました。What's Up at El Saito に掲載しました会場風景も特に混んでいるタイミングをねらったわけではありません。むしろ、静かな時であったと思います。
山口さんの印象ですが、お客様の数の多さにもびっくり仰天しておられましたが、お客様のご質問の水準の高さにも驚いておられましたよ。19世紀〜20世紀初頭のヨーロッパの歴史や、当時の世界情勢をご存じだと、この種のものは何倍も楽しめるのですが、さすがにエルサイトウのお客様はすごいですね! 産業革命や、それに伴う社会構造の変化についても、大いに興味を示され、講師の山口さんに熱心な質問をしておられる方が多かったですね。
どんな品物でも、時間が経過するとアンティークになるわけではありません。その時代の一級の技と素材を使って作られた品の内の、ほんの一部の幸運なものが、アンティーク・ジュエリーとして私達の目にふれているわけで、山口さんの説では、せいぜい製作されたジュエリーのうちの数パーセント程度だということです。
ジョージアン、ヴィクトリアン、第二帝政、なーんていう言葉も、身近な美しいジュエリーと組み合わせて見ると、実によくわかります。
ただこんなジュエリーのご紹介ができる宝石店は、全国でも20店はないだろうというのが、山口さんのお話でしたよ。
結果的に、お買上いただいたお客様が予想をずっと上回り、こちらの点から見ましても、大いなる成功でした。暑い夏の一日、おつき合いいただきました大勢の皆様、本当にありがとうございました。
34年ぶりに・・・。
先日、突然にこんな手紙をもらいました。
「K君をしのぶ会のご案内
この度、標記のことについて下記のご案内をいたすことになり、突然の通知に驚かれる方もいらっしゃると思います。その経緯については、次にご説明いたしますが、まずもって急なお便りを差し上げますことをお詫び申し上げます。
さて、私達の共通の友人でありますK君が亡くなられたのは34年前、1968年9月のことでした。
同じ大学の学生寮でかつて同室であった私は、立場・境遇は違っても、彼の突然の死に、なぜ死んだのか釈然とせぬまま、半ば呆然と日々を過ごしたものです。その当時のことは、騒然とした社会の動きとともに、昨日のように思い出されます。
同級生や関係者の中には、その後、K君のご家族にお目にかかる機会のあった者もおりますが、特にK君のために集まりを持つということはありませんでした。その間にK君のご両親は他界され、弟さんがI市の家を継いでおられます。
ところで昨年、たまたま縁あって私の仕事の関係で知り合った方が、K君の高校の同級生だということがわかりました。
今年に入って、I市近辺在住の仲間が集まって話し合いましたところ、一度かつての関係者が集まり、K君のご家族をお招きして墓前に参り、皆で懇親会をもって交流するとともに、時間の取れる人は宿をとって、一晩K君の思い出などを語り合ってもいいのではないかということで、今度のことを計画しました。
皆様にはご多用中のことでもあり、また遠方にお住まいの方に、I県までお越しいただくのはまことに心苦しいのですが、会の趣旨(と申しましても、これは自然発生的なもので、たんにK君をしのぶということですが)にご賛同いただけましたら、是非ご参加いただきたく、またご都合のつく方はご一泊いただきたくご案内申し上げます
発起人代表 K.M.」
実は、僕もK君とは同じ大学の同学年として、また同じ学生寮で時代を共有した者として、3年生の秋に彼の突然の死(自殺でした)に直面したとき、それをどう理解したらよいのかわからず、途方にくれた時期がありました。
K君は僕などより、はるかにがっしりとした体格で、スポーツ選手のような雰囲気があり、どう見ても青白い文学青年ではありませんでした。むしろ、その正反対と言ってよかったと思います。
彼の死に際して、僕は友人とともに、電車を乗り継いで彼の故郷の町で営まれた葬儀に出席しました。その葬儀は、それまで近親者の死に遭遇したことがなかったために、死の概念とはおよそ縁遠かった僕が、身近な死に遭遇した初めての体験でした。
彼が何故自ら命を絶ったのか、その時から釈然とせず、それは実は34年後の今でも変わらないのです。胸の中に、何かもやもやとしたものがある、そんな感じです。
今回、K.M.さんから突然手紙をいただいた時に、僕以外にもそのもやもやを気にし続けていた人が何人もいたのだ、と妙にほっとするような気持になりました。
そこで、僕は8月に催されるこの会合に出席することにしました。実際、これまでも何度か自分で調べて、あの墓にお参りしようかな、と思ったことがありました。それが、こんな偶然から、調べることもなく墓参ができることになったわけで、僕にとっては渡りに舟という心境なのです。
あの頃、20歳そこそこだった関係者も、今は皆、50歳半ばのりっぱな中年です。(初老かな?)おそらく皆が集まっても、K君の死の理由が判明することはないと思います。それでもいいのです。20歳ちょっとで生を終えたK君と、その後34年間も生き延びた我々。もう若くはない僕達が、生と死の意味をあらためて考える機会になればそれで十分だと思います。
彼の葬儀の時に、僕が最もつらかったのは、彼の母親の姿でした。言葉のかけようもない、という状況は、当時の僕にはまったく初めての体験でした。
今回は、そのお母さんの墓前にもお参りできるわけで、お会いすることはもうないのです。
1968年(昭和43年)当時は、大学も社会もかなり騒然としていました。K君はあのがっしりとした体格の内側に、ナイーブな感性を持っていたのだと思います。あの騒然たる状況が、彼には耐えられないほど、つらかったのかもしれないなあ、と今僕は思います。
34年前の葬儀の翌日、彼の同郷の友人宅に泊めてもらった僕は、近くの山に登りました。秋の晴れわたった天候の中、頂上から見た平野がどこまでも、どこまでも続いているのを見て、友の死が心の中に深くしみ込んできたように感じたことを思い出しました。
お盆を前にしたせいか、なんだか重苦しいおしゃべりになりました。でも、人間には誰しも様々な面があります。僕にも、人並みにこんな面もあるのです、普段はあまりお見せしませんが。
K君をしのぶ会については、会に参加後、気が向いたらご報告させていただきますね。
エルサイトウ ジョーク集 その22
まもなく、このサイトのトップページのデザインが全面的に変更になります。ここしばらくは、その作業でおおわらわ。サイトデザインの傾向というのも、だんだん変化するものなのですね。これまでのデザインを見慣れた方には、しばらくの間は、多少違和感があるかもしれませんが、機能的にも、デザイン的にも最新のものを作成中です。とりあえず、ご期待くださいね。
ところで、4月7日に「エルサイトウ ジョーク集 その21」を書き込んでから、しばらく間があいてしまいました。一部のご常連様から、催促をいただきましたし、だいぶ手持ちも貯まりましたので、トップページ・デザイン変更の前祝いとして(これ、まったく私的な理由です。すみません!)お届けします。
1年前、入社式の後のオリエンテーションで「次の講師・片山部代」とあり、その女性の講義が始まりました。なんて読むんだろう? と思いつつ本社に配属され、1週間後の歓迎会で「ブヨさんって珍しいお名前ですね」と大きな声で言ったところ、怪訝な顔で「ブヨ…?」。 部代はブヨではなくブダイ、部長代理の略でした。ちょっと太めの方なので場が気まず〜くなりました。
(Weekly Mag2 2002/4/9)
地下鉄千代田線某駅の出口の近くにある食堂の前に書いてある宣伝用のコピーがいい。「ウチに帰っても、ロクなものないよ」・・・ だから、私もよくその店で食事して帰る。
あるローカルTVで実際に見たこと。「・・・ただ今、番組中に不適切な発言がありましたことをお詫びします。ただし、どこが不適切なのかというお問い合せにはお答え出来ませんので、ご了承ください。それを説明しますと、さらに不適切な発言を重ねることになりますので・・・。」ウーム、納得はするのですが・・・。
昨日乗ったバスの運転手さんは非常に気持ちのいい方で、事ある毎に「右に曲がりますのでご注意ください」等々丁寧に知らせてくれました。あるとき、「この先少々悪路が続きますのでバスが・・・ えー・・・飛びます」。坂上二郎を意識して迷いがあったのか、妙な間が印象的でした。
(Weekly Mag2 2002/4/13)
某大学病院で子供を出産したときの話です。私の担当医が乳児を回診していたとき、子供の頭をなでながら「うすくな〜れ うすくな〜れ」とつぶやいて去っていきました。横で看護婦が「また呪いかけてる…」。その先生の頭はかなりきてました。
(Weekly Mag2 2002/4/18)
先日友人が、東京の大学に通う息子に「保険証を会社に父宛で送ってくれ」とメールを打った。数日後、会社で「苗字が○○の方、会議室に集まって下さい」との不可解な放送が。会議室に行ってみると、テーブルの上に「△△△株式会社 父 宛」と書かれた封筒があったそうだ。ちなみに地域柄、社内には同じ苗字の人間が13人もいた。
(Weekly Mag2 2002/4/18)
家に届いた美容院のダイレクトメール。「当店も開店二周年と半ば!中途半端セール開催!」 一体この美容院に何が・・・?
(Weekly Mag2 2002/4/18)
友人は、かまぼこが魚のすり身で出来ていることは知っているが、赤はメス、白はオスだと信じている。二十歳をとうに越えた今でも彼は「メスは嫌いなんだよね」とかまぼこを語っている。
(Weekly Mag2 2002/4/18)
昔、近所のお姉さんに「no smoking」の意味を聞いた。お姉さんは「相撲の王様じゃないってことよ」と優しく教えてくれた。
(Weekly Mag2 2002/4/18)
あんまりにもボーっとしていて話を聞いていなかった私に妻が、「ねぇ、ちゃんと聞いてるの?」と怒鳴った。私はハッとしながら「ごめんごめん。違う事を考えてた」と言うつもりが「違う人の事を考えてた」と言ってしまい、それからは何の話もしてくれなくなった。
(Weekly Mag2 2002/4/18)
とんかつ屋での出来事です。壁に「ご飯、きゃべつ、おかわり自由!」と、張り紙があったので、ご飯ときゃべつをおかわりしたら、会計にプラスされていた・・・。 文句を言うと、自由だけど「タダ」とは書いてない!と反撃された。 騙された?
(Weekly Mag2 2002/4/24)
とある有名書店にて。レジの女の子が <実習生> のバッジをつけていた。春だな 〜、と思いつつ仕事用の雑誌を購入し「領収書下さい。名前は上でいいです」とお願いすると、カタカナで大きく「ウエデイイ様」と書かれてしまった。なんとなく指摘せずにそのままもらって帰った。
(Weekly Mag2 2002/4/24)
職安へ失業保険の申請に行くと「失業保険は明るく正しくもらいましょう!」というポスターが。「正しく」はともかく「明るく」って? と思った私はひがみっぽいのでしょーか・・・?
(Weekly Mag2 2002/4/24)
市場に停まっていたトラックに「援助交際撲滅運動」というステッカーが。へえ、こんなのもあるのか〜と思ってよく見たら、下に「援助はナシで遊びましょう!」と書かれていた。まあ、別にいいんだろうだけどさ。
(Weekly Mag2 2002/4/25)
小3の姪が、「裕也くんちは、ゴールデンウィークに『バカの巣』っていう所に行くんだって」と言うので「どこ?それ」と聞くと、「知らないけど、遠いとこらしい」。何度聞き返しても「バカの巣」と言って譲らない。そのうちそこが「バカンス」らしいことにハッと気付いた。
(Weekly Mag2 2002/4/25)
この前理科の先生が廊下でひじを抱えて考え込んでいた。「先生なにを考えてるの?」と聞いたら「ひじをぶつけた」と言っていた。
(Weekly Mag2 2002/4/26)
突然父が、「タッチョンパがない…タッチョンパどこにいったか誰かしらんか!」と怒っている。 意味が分からない。何度も「何のこと? どれのこと?」と聞いたが、父は「タッチョンパは、タッチョンパだろ〜!」と言い張っている。それは、テレビのリモコンの事だった。
(Weekly Mag2 2002/4/26)
電車の中で受験生であろう高校生男子二人の会話が耳に届いた。
A「俺、英語の成績あがらねー。」
B「あ、俺も。ボブギャラリーがなくてさぁ(ため息)」
A「やっぱり?俺も最近痛感してんだよね」
笑いをこらえながら聞いていた私も彼らに同意せざるを得なかった。
(Weekly Mag2 2002/4/30)
私が保母をしていた時(15年前)、ある女の子がおままごとをしていました。何気にきいていたら…「もう、いったい何時だと思っているの?まったく、毎日毎日飲み歩いて」と言っていました。
(Weekly Mag2 2002/5/3)
「毎日毎日帰りが遅くってさ、俺、疲れちゃったよ」という理由で、姉の子(4歳)が幼稚園をずる休みした。ここのところ帰りの迎えが遅かったのと休日出勤(親族向けお遊戯披露会)がこたえたらしい。
(Weekly Mag2 2002/5/3)
5歳の息子がゆで卵の剥き方を何かで見たらしく教えてくれた。私の背中に抱きついて「全体にひびを入れてお水の中で剥くと…あら不思議!あなたのお肌のようにツルンっと…」とご機嫌で私の肌を撫でた。…「あっ、ザラザラ…」2人してブルーになった。
(Weekly Mag2 2002/5/3)
お客様にプレゼンテーションを行なった時のこと。「・・・により、この企画が失敗する恐れはミジンコのかけらもありません!」と言ってしまった。
(Weekly Mag2 2002/5/8)
通勤途中の高層ビル建設現場では、毎朝軽快なメロディの音楽が流れている。でも、いくらなんでも、「ロンドン橋落ちた」は問題あるんじゃないかと思う。
(Weekly Mag2 2002/5/8)
社内の飲み会でベロベロに酔った次の朝、上司のSさんが昨夜電車にかばんを忘れたので、各駅に聞くのを手伝ってくれと言われ、皆で手分けして駅に問い合わせたところ、駅員さんから「かばんありますよ。念のため中身を確認します」とのご連絡。あらかじめ聞いておいた中身(手帳・ペンなど)を説明すると、駅員さんは「確かにそれらはありますが、あと……とっくりが…」と。Sさん!飲み屋のとっくりは持ち帰らないように!
(Weekly Mag2 2002/5/8)
昨日スーパーで、幼稚園くらいの女の子を連れたお母さんが「○○ちゃん、明日のお弁当、何がいいの?決めておいてね」と女の子に言った。女の子は「傷んでないくだもの。」と答えた。かわいそ・・・。
(Weekly Mag2 2002/5/9)
取引先で携帯電話をとりだそうとカバンのポケットを探っていたら、出てきたのはカマボコの板。家にいるバカ犬の仕業だ!!
(Weekly Mag2 2002/5/9)
某競馬場から駅への帰り道、お父さんに連れられ「馬しかいなかったぁ〜」と泣きべそをかいている女の子がいた。・・・ お父さんに「動物園に連れて行くから」とか言われて来たんだろうな、多分。
(Weekly Mag2 2002/5/9)
映画(洋画)を観ているときのこと。前の列に座っているおやじが、袋をバサバサとうるさい音をたてながらお菓子を食べていた。見るに見かねた後ろの列のおばさんが「聞こえないので、もう少し静かに食べてもらえますか」と注意したところ、おやじは開き直って、「聞こえないって、あんた英語分かるの?」おやじの行動には腹が立ったが、そのナイスな切り返しで少し許してあげようという気になった。
(Weekly Mag2 2002/5/9)
「神のみぞ知る」という言葉を先生が言ったとき、友人が「神の溝ってなに? ねぇなに!?」としきりに聞いてくるのには困った。だが私もその時、他の友人に聞いて初めて「溝ではない」と知った…、とは今さら言えない。
(Weekly Mag2 2002/5/9)
わたしのとなりの席のまりちゃんは「暑気払い」のことを「夏のボーナス一括払い」だと思っていた。
(Weekly Mag2 2002/5/9)
小5の息子の宿題で「絶」を使った述語を習字で書くというのがあった。息子が国語辞典を引いて見つけたのは「絶倫」であった。意味は「ぬきんでて素晴らしい事」だった。(息子がそれを書くのを止められなかった母)
(Weekly Mag2 2002/5/10)
祖父の納骨で多磨霊園に行った。神妙にしつつ、他の墓石を見ていたら、何だか無性にラーメンが食べたくなった。「中村家」「橋本家」などを「なかむらや」「はしもとや」と変換している自分に気がついた。
(Weekly Mag2 2002/5/10)
「早生まれは身体が小さくてかわいそうだね。」という話をしていたら、小2の息子に「お母さんも早生まれだよね、それにしては大きいね。」と言われた。ほっとけ!
(Weekly Mag2 2002/5/14)
ついに食器洗い乾燥機を買うことになった。うちは3人家族なので、6人用のそれを効率よく使うために、なるべくまとめて洗った方がいいんだと言う話を妻にしたところ、「え〜、じゃあ、しばらく洗わないで置いとくの!?」と驚いていたが、手洗いの今でもしばらく洗わないで放置してあるので、何の問題もないと思った。
(Weekly Mag2 2002/5/14)
家に一通のダイレクトメールが来た。宛名は○○エカ様。うちにそんな名前の人いないよねぇ・・・と母と悩んでいたら、お兄ちゃんの名前は功だった。何で漢字分解して縦書きにすんだよ!
(Weekly Mag2 2002/5/14)
先日、4歳の孫が情けない顔して「耳の中にBB弾が入って、お医者さんでとってもらったの」と言った。わたしが「どうしてそんなことしたの」と聞いたら「わかんない」と返事…。そういえば、この孫の父親(私の息子)も4歳のころ、遊んでいるうちに鼻の中にBB弾を入れてしまいお医者さんで取ってもらったことがあった。
(Weekly Mag2 2002/5/16)
老人ホーム内での健康診断の時、おばあちゃんに「これから身長と体重を測りますよ」と言ったら、「それはお国のためになるんか?」と聞かれた。
(Weekly Mag2 2002/5/23)
「最近フランスでは漢字が書いてある洋服が流行っている」という投稿がありましたが、ドイツでは数年前から「美白」と書いたTシャツが流行ってます。1年近く前、30歳ぐらいのおじさんが「毎日が地獄です…」と書いたTシャツ着て、一人でイタリアン料理を食べてました。
(Weekly Mag2 2002/5/23)
私も地中海に浮かぶスペインの小島で見ました。ホテルのレストランでふと振り返ると、後のテーブルに座っているイギリス人のおねーさんのTシャツに、でかでかと「年末恒例」と書かれていた。何が年末恒例なんだか…。
(Weekly Mag2 2002/5/23)
横断歩道で信号が変わるのを待っていると、向こうからおじさんが走ってきて「坊やたち、おじさんの真似したらだめだよーー!!」と怒鳴りながら、小学生の横を駆け抜けていきました。バス停に、今まさにバスが入ってくるところでした。(順法精神)
(Weekly Mag2 2002/5/29)
朝の訓示で社長が言った。「今年の阪神が強いのはなぜだか分るか? オープン戦から勝敗にこだわって勝ちぐせをつけたからだ」でも社員はみんな思った。「トップが替わったからだ!」
(Weekly Mag2 2002/5/29)
「ふくよかになってね」と夫がよく言うので、「なんだそういうのが好みなのか」と思い、安心してぷくぷくになり続けて4年、夫は「ふくよか」を「ボンキュッポン」の意味だと思っていることが判明した。どうしてくれるのこの体・・・・。
(Weekly Mag2 2002/5/30)
さっき、友人からメールが来ました。緊急を要するメールだったのですが、よっぽど慌てていたのか「至急変身して!」となっていました。そういえば前に「遣唐使てください」ってメールが来た事も。
(Weekly Mag2 2002/5/30)
結婚式のスピーチで「早く2世を作って・・・」と言いたかったのに「早く2号を作って・・・」と言っているおぢさんがいた。
(Weekly Mag2 2002/5/30)
以前アメリカに旅行中、とあるモーテルのフロントマンに「俺の名前を漢字で書いてくれよ」と頼まれて書いてあげました、「寒ー」と。そう、彼の名前はサミー。「漢字にはそれぞれ意味があるんだって?」と聞かれ、「あー、こいつは『クール』って意味だよ」と答えると、サミーはとっても喜んでいた。
(Weekly Mag2 2002/5/30)
新卒者の面接をしています。この間ある学生の履歴書を見たときでした。長所:根気強い、短所:あきっぽい、と書かれていました。
(Weekly Mag2 2002/6/6)
社宅の奥さんと立ち話をしていたときのこと。そこの次男がお父さんにそっくりなので「お父さんにそっくりですね。将来の姿が目に浮かびます」という趣旨のことを言おうとして「お父さんにそっくりですね。先が見えましたね」と言ってしまった。こ…こわい。これから社宅で生きていけないかも…。
(Weekly Mag2 2002/6/7)
採用を担当しています。以前行っていた筆記試験で「私は一見( )だが実は( )である」という文章完成テストがありました。ある学生の回答を見ると、「私は一見(一重まぶた)だが、実は(奥二重)である」と書かれていました。
(Weekly Mag2 2002/6/12)
うちの父は、かかってきた電話に出る時、相手が何か言うまで何も言わない。なので、無言電話がかかってくると、どちらかが切るまで最初からお互いに何も言わないという、緊張感溢れる場面が展開される。
(Weekly Mag2 2002/6/12)
友達の子供、りこちゃん、9歳がヒザを4針縫う怪我をした。診察台に寝かされ、自分で治療を見届けられない彼女は泣きじゃくりながら「今、いったい何してるんですかぁぁぁ」を連発。あまりにうるさいので母親にハンドタオルを顔にかけられ「違う質問をしてみたら?」と言われ「おにーさん、何歳ですかー?」と言った。
(Weekly Mag2 2002/6/12)
先日、近所の東×ストアの食品売り場で店員に「調理用ワインはどこですか」と聞いたところ、「恐竜用のワニですか」と怪訝な顔で聞き返された。×急ストアの品揃えの広さに感動した。
(Weekly Mag2 2002/6/15)
テレビの天気予報を観ていたときのこと。天気図には低気圧と高気圧の位置が示されていました。解説者いわく「ここに低気圧が近づいていますが、これはヤル気のない低気圧なので天気が崩れる心配はないでしょう」。低気圧にヤル気の有無はあるのでしょうか・・・
(Weekly Mag2 2002/6/18)
ずいぶん前に仮免許を取ったときのことですけど、背の低い女の子がいて、眼鏡等のところに“座布団”ってかかれてました。本当の免許にもかかれるんですかねぇ。
(Weekly Mag2 2002/6/18)
ワールドカップの日本対ロシア戦のテレビ中継で、解説者が「いよいよ日本対ロシア戦が始まります!手に汗が出てきますね!」と言うと、アナウンサーが「ただ今、湿度93%、気温28度です」と答えた。解説者は「そういう意味じゃないだろ!」と突っ込みたかっただろうが、しばらく沈黙が続いた。
(Weekly Mag2 2002/6/25)
いつも乗ってる東武野田線を紹介した本に「世界で最もダイヤが高密度な単線路線」とありました。そんな記録より複線の方が100倍嬉しいんですが。
(Weekly Mag2 2002/6/25)
間違えて貼った切手を剥がす「ハーガス」という液体が事務所にある。でも、経理のお姉さんは「あれ、ハゲールないなあ。ハゲールどこ? ハゲール?」と連呼。先輩、頭の光った社長の前でそれは止めてください。
(Weekly Mag2 2002/6/26)
私の友達は森永を受けたとき、志望動機の作文で数行余ったため“コアラのマーチ”を絶賛した文をつけ加えたらしい。送った次の日コンビニに行ってコアラのマーチがロッテだと気付き、一週間くらい立ち直れずにいた。
(Weekly Mag2 2002/6/26)
昔、新聞社でバイトしてたころ、履歴書に全身写真を貼った女性が面接に来た。夏の渚で撮った一コマがそこに。大変厳しい上司が面白がって採用してしまったのだが、その後履歴書の書き方どころか社会的な知識さえ無い彼女に翻弄されまくり、結局上司の方が胃潰瘍でリタイヤ。人はみかけ通りだと思った。
(Weekly Mag2 2002/6/26)
あれはまだ、新婚ホヤホヤ半年目の出来事でした。私は事故で足を骨折。急に入院する事になり、主人にとりあえず下着とパジャマを頼みました。「とってきたよ」と主人に渡された袋の中には、まだ一度も使ったことのなかった黒のお色気勝負下着が一枚だけ・・・。そして主人は得意げに「汚れても大丈夫なように、黒い下着持って来たよ!」・・・その勝負下着を履き私は手術台へ。生まれて初めての手術で、私は整形外科医に勝負を挑んだのです。
(Weekly Mag2 2002/6/26)
何が変わったのか?
かなり慣れてはいるものの、やはり社を挙げての3日間にわたる展示会期間中は、僕達にとりまして、疾風怒濤の如きものです。でもおかげさまで、昨日(6月9日)無事、3日目の最終日を終え、疾風怒濤の日々が幕を閉じました。
不況に苦しむ日本において、ジュエリーの展示会などやって、来る人がいるのかしら? ましてや買う人などいないのでは? とお考えの方もおられると思います。
疑問はごもっともなのですが、実はそうではないこともありうる、というのが人間の行動の面白さでもあるのです。おかげさまで今回は、事前の心配を吹き飛ばして、予想をはるかに超える盛況ぶりでした。
詳細な集計はこれからなのですが、ご来場のお客様数も、売上金額も前回を大幅に上回っているのはたしかです。
経営責任者の直感としては、これをどう分析し、今後の販売にどう生かしていくか、ということが極めて重要に思えます。そこで、まだ疲れ切った頭と身体ではありますが、ホットな実感を少々分析してみることにいたしました。興味がおありの方のみ、お読みいただけたら幸いです。そして、コメントやアドバイスなどもしていただけると、たいへんうれしく存じます。
まずプラスに働いた要因に、外的なものと内的なものがあります。外的な要因としては、
1)当社創業90周年という貴重な無形資産があったこと。これは金銭では買うことのできない価値だと思います。
2)ワールドカップ・サッカーの試合が始まり、日本社会全体に少しにぎやかな雰囲気が醸成されつつあったこと。
3)期間中は、3日間とも天候にめぐまれたこと。最終日には少々風が吹きましたが、それ以外は雨も降らず、夕立もなく、いたってよい天候でした。
なーんていうことが、簡単に思いつく外的要因なのですが、でもこれはいわば補助的なことでして、主たる原因は、やはり内部にありました。何が変わったのか? 社員自身の心の中、お客様の気持ち、そして僕と妻という経営の責任者の心の内。これらこそが、実はもっとも重要な意味を持ち、それらの変化が、今回のヒットにつながったように思うのです。それらは、簡単に分析すると、こんなことになるのではないかと思います。
a)来年4月の本格的ペイオフ解禁は、やはりかなり大きな影響を人々の心理に与えていると思います。皆様が、ご自身の人生とご家族の将来にわたる繁栄、そして自分の身は寄らば大樹ではなくて自分で守る、といったことを、みごとに考えて、それを実践しておられることに、しばしば感心する思いをすることがあります。実際、まずお客様ご自身で楽しまれ、将来は次の世代に伝えていけるような品質のよいファイン・ジュエリーのお買上げがこの不況の中、増えてきております。
b)こんなお声をあるお客様からうかがいました。621番の Inheritance(伝えること)でも取り上げたのですが、あまりにも実感として納得できるものですから、再度ここに引用させていただきます。すでにお読みになった方には、重複をお詫びいたしますね。しかし、たいしたものですねえ、このお客様の分析は。
「バブル期にも、私は個人的には決して浮かれることもなく過ごしましたが、それでもあの頃、土地や株の評価がぐんぐん上がっていくのを見て、えらく儲かった気になっていました。でも通帳や株価欄を眺めて得ていた満足感はバブル崩壊で、みごとに泡となって消えました。数字だけを眺めていたら、結局何も残らずにひとときの夢として消えてしまったのですね。
でもあの頃、エルサイトウさんから買い求めたジュエリーは、きちんと残りましたよ。決して安い買い物ではありませんでしたが、エルサイトウさんの品らしく、品質がよいので、飽きることもありませんし、また目が肥えている娘達も、あれなら欲しいと申しております。
海外によく出かける娘達は、世界に通用するジュエリーとは、どういうものかということを、体験的に知っているのです。ですから、エルサイトウさんから買ったジュエリーの値打ちがよく判るようですし、他のものにはまったく興味を示しません。
エルサイトウさんの社長さんが、自分で楽しんだら、次の世代に伝えてくださいね、と買った時に言ってくれたのを思い出しました。そうですね、素材や技術に基づく品質がよくなかったら、結局誰も欲しがりませんし、自分だって、とっくに飽きてしまったと思います。
もう若くはない私は、自分が生きた証しを、次の世代にきちんと伝えていくためにも質のよい、すてきなジュエリーを、まだまだもとめたいと考えています。
うちには、こんな素敵なジュエリーを使っていた、すてきなおばあちゃんがいたのよ、って将来、子孫達が話してくれたら、うれしいですね。」
ファイン・ジュエリーをお買い求めになるお客様の中には、こういう気持ちをお持ちの方が少なからずおられるのはたしかです。バブル期に、しでかした多くの失敗のひとつは、頭の中で得た儲けを、耐久性のある、よい品物に変えなかったことだ、とお考えなのです。
それから、「自分が生きた証しを残したい」というのも、よく判りますね。こんな考え方をするお客様が増えてきたのことを実感として感じます。
c)お客様に展示会のご案内をお届けした約1ヶ月間に社内のメーリングリストに書き込まれた社員による経過報告とリスポンスは、200件余にのぼりました。ものすごい量の情報交換、情報共有により、お互いがどれほど刺激を受け、励まされたかわかりません。その結果、本来は孤独な作業である宅配を、にぎやかなものにしてしまったのです。
d)この影響もあり、社員の自発性がたいへん強くなったように思います。内発的・自発的な努力や創意工夫を積極的にする。これまで以上の努力や多少の無理も厭わない。言われたことをこなすのではなくて、こうしたことが大きな流れになったように思います。お客様訪問件数も、全社員とも、過去の実績や、今回設定した目標を大きく上回っていました。これは言われてしぶしぶやることとは比較にならないほど効果があると実感しています。
これから始まる集計と反省の中では、僕は全員に今回と前回の展示会の違い、自身の心の在り方の違いを徹底的に、そして自分なりに分析してもらおうと思っています。「凡」と「アウトスタンディング」の違いを綿密に分析すると、ひょっとしたら、汎用性のあるすごいノウハウを得ることができるかもしれませんね。
いずれにしても、真の味方も真の敵も、実は自身の心の中にある、と言ったら言い過ぎでしょうか? でも、これ僕の実感です。

おかげさまで、こんな感じでした。
展示会2日目、6月8日(土)の会場内のスナップ写真です。おかげさまで、開場早々から終了時刻まで、こんなふうに大勢のお客様にご来場いただきました。
外の天候は6月初旬とは思えない夏日でした。30度を越えたのではないのか、という天候でしたよ。会場内も終始、熱気に包まれておりましたが、心地よく温度管理されたサロンでは、あまりの居心地よさと展示品の魅力とで、2〜3時間滞在されるお客様も続出するという、まことにありがたい状況でした。
お客様のプライバシー保護のため、あまり会場内写真は掲載できないのですが、できうる範囲で、会場内の雰囲気をお伝えしようとしたものが、上の写真です。
明日は日曜日で、最終日です。ワールドカップの試合は、夜8時半から、日本対ロシアだそうですね。ワールドカップの試合が始まってからというもの、外食産業の売上が、かなり減少していると聞きました。皆さんがTVでの観戦のために早めに帰宅して、自宅で食事をとるようになったのでしょうね。
でも、エルサイトウの展示会は大丈夫。ご覧いただいてから、お帰りになっても、キックオフには十分間に合います。
おかげさまで、90年続いたお店の幸運 (Good Luck) を、ジュエリーに託して、なるべく多くの皆様にお届けしたいと存じます。ぜひお出かけくださいね、最終日の展示会へ。朝は9:30am開場です。
さあ、もう一日頑張りまーす。

ゴッホの死(本当に自殺だったのか?)
2002年5月20日に初版発行ですから、まだつい最近発売された本なのですが、「ゴッホ殺人事件」という上下2巻の小説が今、僕の手許にあります。著者は、高橋克彦氏という1947年生まれの作家です。「写楽殺人事件」や「北斎殺人事件」などという、歴史上の画家にからむサスペンスものの作品をいくつか書いてきた人らしいですね。もっとも、僕は前の2つを読んではいないのですが。
「ゴッホ殺人事件」は、発行日直後の新聞広告で題名を見た僕が、すぐさまインターネット上の書店に注文して購入したもので、ゴッホの死因、第二次大戦中のナチスの美術品略奪とそれに協力してしまった日系オランダ人とその子供が主題と主役になって繰り広げられる物語です。
多忙な生活が続く中、普段はおかげさまで、このところめっきり増えてきているネット上のビジネスにも追われ、なかなかカフェ・ド・エルサイトウでのおしゃべりもままならない僕が、妻の実家の父の一周忌の法要のため、福岡へ来る途中の新幹線車中で5時間という貴重な連続した時間を得て読み始めたものなのです。
とは言っても、5時間のうち2時間程度はメールの処理に追われていましたから、本を読めたのは2時間あまりでしたが、それでも僕には貴重な時間でした。
まだ上巻しか読んでおりませんので、この先ストーリーがどう展開するのか判りませんが、ゴッホの死因に関して、この作者はこんな疑問を投げかけていました。絵画の歴史好きの僕には、こたえられない面白さでした。
ゴッホは、パリ郊外のオーヴェールという小さな村で、1890年7月27日に拳銃自殺したというのが現在知られているこの天才画家の死の状況です。このオーヴェールに関しては、以前も僕はこの掲示板にオーヴェール村訪問記を書いたことがありますので、もしご興味をお持ちの方は、掲示板の <ワード検索> で、オーヴェールをキーワードにしてお探しください。いくつかの記事をご覧いただけます。
高橋氏が断続的に挙げているゴッホの死に関する疑問は次のようなものです。
1)まず極度にお金に困っていたゴッホは、いったいどうやってピストルなどという高価なものを手に入れることができたのか? そしてそれはまたどこで入手したものなのか?
2)ゴッホが拳銃を持っている姿を見た人は誰もいない。ゴッホはオーヴェールをほとんど離れていないので、死の直前に村で買ったか(でも、村にはそんなものを売っているお店はなかった)持っている人間から借りたとしか思えないが、そういう証言はひとつも出ていない。
3)ゴッホは教会の裏手の麦畑で拳銃を用いて胸(お腹とも言われる)を撃つと、そのまま傷口を押さえながら、歩いて下宿先のラヴー亭に戻ったが、使用された拳銃はその後も一切見つかっていない。麦畑に置き捨てられた可能性がもっとも高いが、それが見つかっていない。林や藪ではなくて、毎年刈り取られて耕される麦畑でそんなものが発見されないのは不思議だ。
4)血痕や足跡で拳銃が発射された場所は特定できたし、小さな村だが不審死ということで警察も調べたにも関わらず、拳銃は発見されなかった。どこか他の場所に投げ捨てられたとしても、死後100年以上経っても見つからないというのは不思議だ。
5)拳銃自殺の場合、どこを撃つかということになるとほとんど例外なく「こめかみ」か「口中」である。比較的面積の大きいお腹を撃てば失敗する可能性があるので、自殺者は頭か口に向けて引き金をひくわけで、狂言自殺以外でお腹を撃つということは考えにくい。 下宿に帰ってからのゴッホは、運命を受け入れるかのごとく、周囲に見守られながら最期まで静かにベッドで過ごした。周辺も誰も狂言自殺とは思わなかったから、それはないと見てよい。だったら、何故お腹を撃ったのか?
6)とすると、ゴッホ本人以外の誰かが彼を撃った可能性もあるわけだが、下宿に戻ってからも意識がしっかりしていたゴッホは、そんなことを一言も言っていない。万一そうであったとしたら、その人を庇っていたとしか思えない。でもそうなら、拳銃が見つからなかったことも、お腹を撃ったことも説明がつく。可能性がある人は3人。(これは僕が下巻読了後に書きますね。お楽しみに。)
7)拳銃発射現場の麦畑から下宿先までは、通常人でも歩いて5分程度はかかる。(これは僕も現場で実証済みです)坂道も含めて、かなり歩かなければならない。少なくとも瀕死の状態の人間が歩ける距離ではない。それと、お腹に銃弾を抱えて下宿に帰ったゴッホは、家人と顔をあわせたにもかかわらず、そのことをひた隠しにして自室に籠もったのも不思議だ。夜になって痛みに耐えられなくなって、家人に告白し、それから医師が呼ばれて駆けつけたのだ。ゴッホはどうしてこんな行動をとったのだろうか?
8)駆けつけた医師は、友人であり、かかりつけのガシェ医師であったのだが、医師が弟テオに連絡を取ろうとしたのに、ゴッホは頑なにそれを拒み、住所さえ教えなかったと言う。仕方なく、ガシェ医師は、同宿の画家からテオの勤務先の画廊の住所を聞き出して知らせた。テオがその知らせを受け取ったのは翌日だった。熱に浮かされて住所など口にできる状態ではなかったわけではない。ゴッホは終始冷静で、ベッドでパイプまで口にしたというから、これはどう考えても不自然だ。
9)死ぬほどの傷ではないと甘く見て弟に心配かけたくなかったと考えることもできるが、医者から身内に連絡を取りたいと言われてもなおかつ、浅い傷だと思い込む能天気な人間はいない。ゴッホとて当然覚悟はしていたと思われる。そもそも死ぬ覚悟がなければ、下宿に戻ったら真っ先に医者を呼ぶように家人に頼んでいたはずだ。でも、死ぬ覚悟があればゴッホは誰よりもテオに会いたいと願ったはずではないのか? それまでの経緯から見ても、それが自然である。会って、それまで生活の面倒を見てくれたことへの礼や詫びを言いたかったはずなのに、何故か会いたがらなかった。
10)テオにも実は未来はなかった。勤務先の画廊では解雇寸前の状態であったし、子供は病気がちで、収入の半分程度を絶望的に売れない画家である兄に10年も送り続けてきたことによる妻ヨハンナとの深刻な不仲。実際にテオはゴッホの死後、1年も経たずして亡くなっているわけで、ゴッホの唯一の収入源であったテオの状況からしても、7月に亡くならなくてもゴッホも早晩行き詰まったことは間違いない。そうした状況をどう見ればよいのか?
というところです。ウーム、いずれも言われてみればたしかにおかしい点ばかりですね。さあ、この先、話はどう展開していくのでしょうか?(もちろん僕も知りません。)どうぞ、ご期待ください。
ちなみに上の写真は、オーヴェールの教会の裏手、ゴッホが拳銃の弾を受けた麦畑の中です。はたして本当に自殺だったのか、それとも・・・? 笑顔が不謹慎ではありますが、とりあえずお許しください。
後日に続く。この記事は妻の父の1周忌法要の合間に書きました。
道路清掃異聞
決して自慢するわけでも、また恩着せがましく言うつもりでもないのですが、僕はもう十数年来、当社の周囲の道路(半径50メートル程度の範囲内だと思いますが)の掃き掃除をしております。
これは出勤している限り、特別な悪天候だったり、やむを得ない急用があったりする他は、毎朝、朝礼後に15分程度必ずやっている僕の日課なのです。
集まるゴミは、タバコの吸い殻、ファーストフードの容器、飲み物の缶、紙くず、等々、雑多なものが、毎日よくこれだけ捨てる奴がいるものだと、感心してしまうほどの量になります。
ゴミの内容も、時代の変化に伴って変わってきているように思いますが、ここ1〜2年で、とくに気がついた変化があります。
それは、コーヒー、ジュース等の飲料用の缶が捨てられていることが増えたのですが、ほとんどの場合、量の多寡は別として、その中に飲み残しが入っているのです。手で直接触るのは、はばかられるものですから、たいていは箒でちりとりに掃き込むか、ちりとりに付いている「つまみ」を使うのですが、ほとんどの場合、ずっしりと内容物があります。
当社からほど遠からぬ場所に、深夜営業の飲食店も何店かありますので、そういう関係もあるとは思いますが、深夜、酔い覚ましのためか、買い求めた飲料(お酒はお店で飲んでいますから、まず捨てられてはいないのです。捨てられている缶のほとんどすべてが、ノンアルコールのものです。)をいくらか口にして、最後まで飲みきることもなく、そのままポイするのです。道路の端に無造作に捨てられているものもあれば、そっと置いてあるものもあります。
僕が気になっているのは、最後まで飲みきることなしにポイする人の増加なのです。もったいないなどと言うと、年寄りの繰り言と言われそうですが、いったん開封した飲料を平気で残して、しかも路上に捨てる、というその感覚に違和感と危機感を覚えてしまうのです。
飲みきることができそうにない物は、買うな、開けるな、と僕は言いたいのです。ささやかであっても、資源を使っているのは確かですし、そのことに対する同時代人としての責任感のかけらもないのだろうか、という危機感を感じてしまいます。
まあ、僕もこんなことを言い出す年齢になったことを意識せざるを得ませんが、やはり警鐘を鳴らすべきだと感じております。
皆さんは、こんな体験ありませんか? ちなみに最も数が多いゴミは、やはりタバコの吸い殻です。一回りすると、だいたい30〜40本はありますねえ! こういう人達は、自分が捨てた吸い殻は、地面が(地球が)きれいに吸い取ってくれるとでも思っているのでしょうか?
でも清掃は気分がいい仕事ですね。場を清めることは、心を清めることに通ずる、と何かで聞いたことがありましたが、たしかにそうだと思います。毎日、心を清めているのですから、さぞやきれいな心になったかと自分でも思うのですが、ところがどっこい、そうもいかないところが人間の複雑なところですね。恥ずかしながら、その点はどうもさっぱりです。

「消えた名画を探して〜〜」と、マスターの「ムンクのごとき叫び」が耳から離れずついつい探してしまいました。「ピエレットの婚礼」を。
なーんて実は私もしっかりお目にかかりたかったものですから。昔、確かみたような記憶があって、初老の新郎の顔だけが印象に残っていていたのですが、まあ、それにしても、なかなか見つかりませんでした。
みつかったら、やっぱり、青いベールをかぶった真中のピエレットは、1989年、世界を震撼させた、あの落札事件から、今まで、冷凍されていた名画にふさわしく青―い沈んだ感じの表情でした。どうもこの絵自体の意味するところも、謎につつまれている不思議な感じの絵で、いったいこれはどういうシチュエイションでピカソが描いたのか、知りたいと思いましたが、資料もどうやらなさそうです。
1905年に描かれたといいますから、ピカソは1904年にモンマルトルのバトー・ラヴォアール(洗濯船)に住み着いたわけですからそのころ描かれたのですね。全体は暗い色調なので、「青の時代」のようですが、青の時代は主人公が主に盲人、乞食、娼婦が多く、「バラ色の時代」になるとサーカスの芸人や、役者達に変わっていく、そういう意味では、この絵は、「青の時代」から「バラ色の時代」へかわっていく移行期の作品のようです。
新婦のピエレットはその左の山高帽の初老のお金持らしい、でも品位にかけるような紳士と無理やり結婚するらしく、浮かない顔をしています。
その思いは画面の右で、ピエレットにお別れの投げキッスをしているアルルカンにむいているようです。どうやら、この2人は恋仲のようですね。
左の方にいるのは、芸人たちでしょうか?ピカソが遭遇した一場面を描いているのか、本物をみて、謎めいた気分をじっくり味わってみたいですね。
ところで、塩漬け名画とか氷漬け名画とかいわれる、いわゆる死蔵に対する批判がNO.582に書かれていました。
“芸術家側からしてみれば、すべての芸術作品は過去の作品の積み重ねの上に学びまたは、否定によって成り立ち創造されるものだから、その学びや蓄積を拒む死蔵はゆるされないと。”
一方、鑑賞者側からしてみれば、ある一人の画家が何らかの感情を抱いて描いた絵があって、それを、まず誰かが何の予備知識もなく、画家の名前すら知らなくみて、何らかの胸騒ぎを覚えたとします。
そういう1枚の絵が、何十年、何百年、とたって万人に伝わったとすれば、まさに、画家と個人と万人が世紀をこえて、国をこえて、線で結ばれていったわけですね。鑑賞者の眼が、心が、育んでいったという壮大なスケールを感じます。
当然、誰の眼にもさらされない死に体の絵画、公開されない個人蔵の絵、不良債権にされてしまったもの などはどれほどすばらしくても、誰にも感動されず、これほど悲劇的で不幸ことはないでしょう。
だから今回なんとしてもその絵をさがして、「エルサイトウ ギャルリ」に出展しなければ、という私の使命感もメラメラと燃えてしまいました。
何年か前に伊集院 静氏が、なにかのエッセイでこんなことをかかれていたのを思いだしました。
「王も聖職者たちも貴族もそして画家当人もすべての人が消え失せても絵画は残っている。どうして絵画は残ったのだろうか?
それは、王であれ、貴族であれ、その作品を鑑賞した者が、ある感動を覚えたからである、その感動が作品をいつくしむ精神となる。絵画に限らず、長く人々が見守り続けていくものには、そこに、私達の気持ちを揺さぶる何かがある。揺さぶる何かとは、私達を豊かにしたり、楽しくしたり、おおらかにさせてくれるものだろう!」
ピエレットも早く冷凍室から抜け出して、氷のとけた姿を早く私達にみせてほしいものです。絵画に限らず、文学、音楽、映画、料理などなど、いいものが残っていくのは、そこに、万人の共通の認識があるからですね。
芸術のすばらしさにひたっていると、孤独を感じないのはそのせいかもしれません。いいものは大切に守っていきたいものです。
ウソを書かせる
国分(こくぶ)一太郎 氏 (1911〜1985)と言っても、もう大方の人はご存じないでしょうね。
氏は戦前の自由の暗黒時代に、山形県で小学校教員として「生活綴り方運動」を実践し、当然のことながら(!)官憲にねらわれ(今なら、なんでこんなことがと思う多くのことや人が、極めて理不尽な理由で残酷な弾圧を受けたのです)つぶされました。困窮していた農村の実態を生徒達に自らの頭で考えさせ、書かせたことが「反国体」的で「国賊」だという権力者の判断だったのですね。つまり、皇国史観と国民精神総動員運動にもとづく、狂信的な皇民教育以外の、自分の頭で考える行為は、すべて「危険思想」であったわけです。
氏や「生活綴り方運動」は戦前、まさに社会から石もて追わるるごとく、つぶされましたが、かろうじて生き延びた戦後、活動を再開し、僕が氏の名前に出会った時は、氏は「ベ平連」(ベトナムに平和を! 市民連合)の発起人だか、世話人だかをしていた児童文学者でした。
ところで、「ベ平連」なーんていう名前ももう知らない方の方が多いことでしょうね。1960年代後半から1970年代前半にかけて、ユニークな運動を展開した「反戦グループ」のことです。いずれ、このグループについても、書くことがあるでしょう。
ところで、この国分氏の「生活綴り方運動」について、ごく最近、評論家の佐高 信氏が書いている記事に目を奪われました。それは綴り方で子供達に「ウソを書かせてみる」という発想です。佐高氏の一文をかいつまんでご報告しますね。
なぜ、ウソを書かせるのか。国分氏の主張はこうです。
日本人または日本人の子供達が、字で書いてあるもの、文章に書いてあるものは何でも真実だ、と思いたがる習性を訂正するためです。新聞や雑誌を読んでも、そのまま信じてしまう癖を、いくらかでもなくしたいと思うからです。文章の中身がウソか本当かを、よく考えながら、吟味して読む警戒心をつけたいのです。
同じ字を使っても、書こうと思えば、ウソも書けるし、本当も書ける。教師達は作文を書かせる時、本当のことを書け、と教えるが、それだけでいいのか?
そう教わった子供達は、すなおな気持で本当のことを書きます。そうすると、よその人の書いたものもすべて真実の表現だと思いたがる習性がついて、つい、文章で書いてあるものは、何でも真実だと思いたがらないとも限りません。それを直したいのです。
ウーム、と僕はうなりましたね。新聞に書いてあるから、TVで言っていたから、大企業の広告だから・・・、という理由で、内容の吟味を省略して、あたまから信じてしまうという習性は、あれから半世紀以上経っているのに、本当に変わったのでしょうか?
僕は社会科学系の大学の出身なのですが、そこに入学した時に最初に叩き込まれたことは、批判的に本を読む、という学習態度でした。よい意味での批判精神を失うところから導き出されてくるのは、狂信性であったり、迎合であったりするわけで、自由とは相容れないものだという教えでした。自由は大きな責任を負いますが、人間の尊厳を守るためには不可欠だという僕の信条も、この時代に培われたように思います。
文章を読み、書きすることに、いささか強い興味と意欲を持っている僕は、この国分氏という先人の鋭さに、本当に感心してしまいました。文章を読んだり、書いたりする時にもっとも注意すべき点を、見事に喝破していると思うからです。
このカフェ・ド・エルサイトウというバーチャル・カフェでおしゃべりを続ける者として、あらためて襟を正す思いです。インターネットというテクノロジーのおかげで、それまでほぼ完全に閉ざされていた、資本や権力を持たない者による、不特定多数の人々への意見発表の機会を享受する時には、やはりそれなりのモラルが必要なのだということをあらためて噛みしめる思いです。
時々、「よくあれだけ書きますねえ、たいへんでしょう?」と僕のこのカフェでのおしゃべりに関してお尋ねを受けることがあります。ええ、たしかに楽ではない時もありますが、でも僕は書くことが好きなのです。多くの方のように、書くことにストレスを感じるどころか、書くことは(その内容の水準はさておくとして)、僕のストレス解消法のひとつなのです。ですから、こんなに長く続くと思うのですが、でも書くことには、大きな責任も伴いますねえ。
これからも僕は、内容はともかく、営々としてこのおしゃべるを続けるつもりですので、よろしければぜひおつき合いいただきたいと思います。
1985年に亡くなった国分一太郎氏は、今でも、生前縁があった方達の手で、4月に偲ぶ会をしてもらっているのだそうですが、その法要は、氏が好きだった「こぶし」の花にちなんで、「こぶし忌」というのだそうです。僕には、「こぶし忌」の方が、太宰 治の「桜桃忌」よりも、身近に感じられます。
「国家総動員法」の悪夢
「備えあれば、憂いなしでしょう?」などという言葉で収めてしまえるものなのでしょうか、まもなく国会に上程される「有事立法」という法律は? そんな簡単な言葉で丸め込むことができるなどと首相が思っているとすれば、私達国民はずいぶんとなめられていると思いませんか?
「国家総動員法」とは、大日本帝国が、太平洋戦争に突入していく過程で、時の権力掌握者達が何でも勝手にでき、そして権力に反対する勢力を徹底して叩きつぶすことがより簡単にできるようにとの意図で、1938年(昭和13年)に公布した悪法です。
もうひとつの名だたる悪法、「治安維持法」同様、違反者として摘発された者の中には死刑判決を受けた者はおりませんが、実質的に裁判などという手間をかけずに、反対者を肉体的にも社会的にも抹殺することを可能にするという根拠と実績のある恫喝を以て、国民を恐怖支配してしまったところに、悪法の悪法たる所以があると僕は思っています。
現在、政府が上程を目論んでいる「有事立法」は、本質は「総動員法」です。「国家総動員法」の強面の部分を上手に隠してはおりますが、本質はなんら変わらない「総動員法」です。いいのでしょうか、こんな法律を勝手に作らせて?
たまたま本日(5月4日)の朝日新聞に以下の投稿記事を見つけました。投稿者は、独協大学教授で、憲法史の研究者、古関彰一氏です。実は、僕は氏とは、たいしたことはないのですが、ちょっとしたご縁があり、昔から存じ上げていることもあり、食い入るようにその記事を読ませていただきました。氏は「新憲法の誕生」という論文で吉野作造賞を受賞したこともある気鋭の憲法学者です。
その結果、さすがに専門の研究者だけに、僕の漠然とした恐怖を明快に分析してくださっていることに気づきましたので、皆様にもご紹介したくなりました。途中、一部省略してはおりますが、かなりの長文です。でも、あえてぜひ読んでいただきたいと思い、引用させていただきました。ご協力いただけたら幸いです。
<引用開始>
「憲法理念否定する総動員法」
ついにここまで来たか。有事3法案を読みながらの慨嘆である。有事法制を自衛隊内部で秘密裏に研究し始めたのは60年代初めであったから、それから40年近くがたつ。
上程された有事立法は、武力攻撃事態が生じた際、首相に地方自治体への「指示権」を与え、日赤・NHK・運輸会社などに協力義務を課すばかりでなく、その後の防衛出動時には、事実上自衛隊に一般家屋などを「公用令書」を交付して、一方的に収容する権限を与えている。
加えて、国民にはこれらに協力するよう一般的にではあれ、努力義務を課しているのだから、これは戦時国民総動員法である。
・・・・・・
憲法はそもそも戦争を放棄していることは言うまでもないが、戦時または国家事変の際に、元首あるいは政府に与えられる国家緊急権をどこにも定めていない。国民の財産なども、土地などを「公共のために用いる」場合は、土地収用法の手続きを必要とする。職業選択の自由も国民に保障している。今回の有事3法は、憲法の平和主義は言うに及ばず、憲法の基本理念を根本から否定する内容だ。
・・・・・・
首相は「備えあれば、憂いなし」と述べているが、戦争や紛争は突然には勃発しない。必ずそれ以前に政治的恐怖と経済的貧困が原因の政治的不安定状態がある。これらをなくす施策こそ「備え」であり、国民の憂いをなくすことだと言える。軍事力によって冷戦後の政治的不安定が解決できないことは、昨今の紛争が示す通りだ。
だからこそ恐怖と欠乏の除去に向けた「人間の安全保障」が、国連をはじめ、いくつかの国々で模索され始めているのではないのか。戦争を予防するための「恐怖と欠乏の除去」、これこそまさに日本国憲法前文にうたう平和への備えだ。
日本が侵略される具体的危険性があるのか。敵は本能寺にあるのではないのか。グローバリゼーションの進行は地球規模で、かつ国内的にも貧富の差を拡大させ、不安定をもたらす。有事3法とは、それに備えるための第一歩ではないのか。
・・・・・
軍事力は国内的に見れば、政府と国民の間に信頼関係が失われた場合に必要となる。もちろん戦前のような軍国主義やファシズムが再来するわけではない。やってくるのは、体制変革に抑止効果のはたらく、言うなれば「笑顔のファシズム」であり、「笑顔の独裁政権」である。
このように重要な法案の審議が、スキャンダルにまみれた立法府で「メディア規制2法案」とともに、しかも国民の目がサッカーのワールドカップにくぎ付けにされる時期を選んで進められることは、これらの法案の意図するところをよく表している。
時間を止めることはできない。いま私は、しばし立ち止まって、歴史の重大な転換点に立っていることを自覚しなければならないと思う。自己の平和思想の中身を根本から試される時を迎えたのだから。
<引用終了>
いかがですか? 僕は「有事3法」と「メディア規制2法」に明確に反対します。国民の生きる権利、知る権利を、そこまで奪う道理は、日本の政府にも官僚にもないと信じています。そして、自由をそこまで奪われた後にくるのは、これまで以上の腐敗と強権・恐怖政治しか、ありえないと思います。権力は多くの批判的な人々にしっかりと見張られていてこそ、かろうじて運営できるもの。反対者や公正な見張り役を排除して、なんの正義ぞ、と思います。
僕も古関さんみたいに、そろそろ腹をくくらなければならないのかな、って思っています。5月3日の憲法記念日の意味は大きいなと、1日遅れて思いました。
以下の引用は、本日(5月9日)の朝日新聞「声」欄に書き込まれた投書です。78歳の男性が書き込んでくださったものです。太平洋戦争を青年時代に体験された方の声ですが、僕は内容に強い共感を覚えました。もし、あなたがまだお読みでなかったら、ぜひご一読いただけたらと思い、ご紹介させていただきます。
<引用開始>
有事3法案の国会審議が本格化しました。「有事」とは「戦争」のことで、「戦争法」と言ってもいいものです。そうして「備えあれば憂いなし」というのが、小泉首相の言葉です。だが、と私は思うのです。
前大戦で「国体」を守り、国を守るためにと私達は戦争に駆り出され、それを疑うことも国賊とされました。その結果の敗戦でしたが、国は滅びませんでした。一体、守るべき国とは、何だったのでしょうか?
新憲法で国民の厳粛な信託で国政を任されている国会の現状はどうでしょう。鈴木宗男議員の問題に始まり、今では参議院議長までも議員を引責辞職せざるを得ない事態です。守るべき国はどこにあるのか。
「有事法案」とは外敵に対処するためとのことですが、主権者国民の信託の下に国政を預かる国会と外務、農水をはじめとする政府の実情を見せつけられると、「有事」は国内にあるのではないか。「備え」はこのような乱脈国政を正し、今後このようなことを起こさぬように備えることにあるのではないでしょうか。
<引用終了>
不況のドサクサに紛れて、政府はとんでもないことをしようとしているのではないか、と僕は思います。作家の城山三郎氏が、「メディア規制法案」を起案した政府、官僚の個人名、それに賛成した国会議員すべての個人名をきちんと記録・公表して、日本の民主主義をつぶした張本人達として名指し、記録すべきだと最近言っておられました。僕もその通りだと思います。
組織や役職の名に隠れて、人間としての良心や信条を放棄し、そのあげくの果てのカタストロフィ(悲劇的結末)に際しては、責任をとるべき個人名は一切登場させず、「一億総懺悔」的な責任の雲散霧消で終わらせる。権力掌握者達が、そんな古典的な手法がまだ通用すると思っているとしたら、僕達は本当になめられていると思います。
少なくとも、僕達には今、インターネットを典型とする豊かな情報伝達手段があります。戦前でしたら、こんな意見の発表や伝達は、文字通り命がけでした。その違いを活用すれば、いろいろな可能性がありますね。微力ですが、僕はそんなことを考えているのです、ここ何日か。あなたはどうお考えですか?

「西行法師の花の寺」と題して、この掲示板の記事番号1番で取り上げたのが、この勝持寺です。
もうだいぶ昔のことですので、お忘れになったり、まだお読みでない方も多くいらっしゃることと思います。
そこで、少々厚かましいのですが、その記念すべき記事、1番から少し引用してみますね。
<引用開始>
しばらく前にこの伝言板で、西行法師のことを取り上げたことがありました。淀川ナガコ様からも、下記の西行の歌に関する、おみごとなコメントを戴きたいへん感激いたしました。
○願わくは、花の下にて春死なん。そのきさらぎの望月の頃
平安時代の末期、鳥羽院の北面の武士で、武勇の誉れが高かった佐藤兵衛義清(さとうひょうえのりきよ)が出家して、西行法師となり、歌を愛し花を愛してその後の人生を送ったわけです。
先日、ちょっと京都に用事がありましたので、とうとうレンタカーを借りて行って来てしまいました、西行法師が出家したお寺、小塩山の麓の俗称、花の寺、勝持寺へ。淀川ナガコ様のコメントがあまりにも魅力的でしたので、ついつい京都市内からはけっこう距離があるのですが、行ってしまいました。
場所は向日市の洛西ニュータウンから山へ登って行ったところです。京都市内からですと、五条通りを西に向かい、桂離宮を左手に見ながら桂川を渡ります。道はそのまま国道9号線になりますので、道なりに京都市立芸術大学のあたりまで行き、そこの国道沓掛という信号を左折すると、新しくりっぱな洛西ニュータウンに入ります。そこをしばらく行ってから右折して山に向かうわけですが、このあたりは観光地らしい雰囲気はまったくありません。今だから車で一息ですが、西行の時代に、ここまで行くのは、ずいぶんとたいへんだったことでしょう。
まだ花の季節ではなかったせいもありますが、予想通りみごとに誰も拝観者はおらず、妻と二人で心ゆくまで花の寺の静けさを楽しんでまいりました。はるかに京都の街の一部も見え、境内のすばらしさの他にも、重文指定の薬師如来像もなかなかのものでした。
上の写真は、満開の時期の西行桜と境内の風景です。僕たちが行ったのは、まだ桜の時期にはほど遠かったので、ひっそりとして、これはまたこれで すばらしい雰囲気でした。西行が<願わくば・・・>と詠んだのは、ここの桜のことかもしれないなあ、と思いました。鐘楼のそばに、西行桜という名の桜の木が一本、ぽつんとありました。
道路の関係で大型バスはとても行けませんので、本当に期待以上のすばらしさでした。このあと、同じ地域にある、在原業平ゆかりの十輪寺(ここの住職さんは傑作な方でした)、景色が最高の善峯寺、などへも行ったのですがいやいや、いずれも期待していた以上でした。お薦めスポットとしてご案内させていただきます。是非一度お訪ねください。
<引用終了>
自分で書いた文章のせいか、今でもこのお寺や桜に関する気持は、まったく変わっておりません。お奨めいたします、勝持寺への参拝を。

消えた名画 その2 (ガシェ医師の肖像)
絵画取引の歴史上、知られているものとしては、もっとも高額な取引価格がついた1枚が上の画です。後期印象派の画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが死の直前に描いた画です。モデルのガシェ医師(Le docteur Paul Gachet) はゴッホが亡くなった、パリ郊外のオーヴェール村に住んで、ゴッホの治療にもあたっていた精神科の医師でした。
ここでは画の解説ではなくて、この画がたどってきた数奇な運命と、史上最高価格についておしゃべりしてみましょう。ちなみに2002年4月現在、この画の所有者と所在場所は不明です。なんという文化的な損失でしょうか!
1990年5月15日、サザビーズ社と並ぶ世界的なオークション会社、クリスティーズのニューヨーク・オフィスが主催したオークションで、その競りは行われました。
競りの開始は2千万ドル(約30億円)から始まりましたが、100万ドル(約1億5千万円)単位というすさまじい単位で値が上がり、4千3百万ドル(約65億円)になったところで、2人のビッダーの勝負にしぼられました。
1人は電話で入札に参加していたチューリヒの画商、マリア・ラインズハーゲン氏で、相手は、日本人コレクターの代理として会場で参加していた銀座・小林画廊の小林秀人氏でした。
会場を被う静寂と緊張の中で、さすがに入札のスピードは落ちたものの競り合いは続き、ついに7千5百万ドル(約113億円)に達したところで、オークション台に居た、タキシード姿のクリスティーズ・ニューヨーク社長のクリストファー・バージ氏が小林氏を指さして、ハンマーを打ち下ろしました。クリスティーズの手数料10%を加えて、8250万ドル(約124億円)という史上最高の落札価格で1枚の画が取引された瞬間でした。
バブル期日本経済のピークは1989年であり、1990年の3月には日経平均株価がピーク時の3万8千円台から下落して、ついに3万円を切った状態になっていました。その時期にこんな買い物をした人物は、大昭和製紙という当時日本第2の製紙会社の名誉会長であった、斉藤了英氏という人物でした。了英氏にせよ、代理人の小林氏にせよ、世界の美術市場で長く知られた、尊敬を集めるコレクターや画商ではまったくなくて、いわば誰も知らない粗野な成金として注目されたというのが当時の世界の反応でした。
よく知られているように、その後いくばくもなく、大昭和製紙は経営難に陥り、さらに了英氏が、宮城県における大規模開発事業に伴う知事がらみの贈収賄事件が発覚した際の贈賄側の当事者となったことから、この高価な買い物を持ち続けることは不可能になりました。
1995年には贈賄罪で執行猶予つきの有罪判決を受けましたが、控訴せずに有罪が確定し、1996年3月には脳梗塞で79歳の波乱に満ちた生涯を終えました。この画についてはその後、富士銀行と駿河銀行の共同担保として保管されていると日経新聞に報じられたことが一度だけありますが、今だもって行方は公開されておりません。
「ガシェ医師の肖像 (Le docteur Paul Gachet)」 という画は実は2枚あります。上の画がいわばオリジナルで、もう1枚は現在、オルセー美術館にあるのもので(ご参考までにこの次の記事番号に掲載しておきます。見比べると面白いですよ。)それは画を欲しがったガシェ医師のために、ゴッホ本人が作成した模写です。
このオルセーの1枚は、オリジナルに比べると、テーブル上の本や花瓶がない、上着のボタンがない、いかにも急いで写したようにタッチが粗い、などの点で、やはりオリジナルよりは芸術的価値が劣るようには思われますが、それでも世界のオルセーが展示している作品です。たいしたものですよ。これは1954年にガシェ医師の子孫からフランス国家に寄贈されました。実際、オルセー美術館のゴッホのコレクションは、この寄贈品が中心になっています。
ところで問題のオリジナル画ですが、それはこんな運命をたどってきました。
まずゴッホの死後数年後に、遺族によってパリの画商、アンブロワーズ・ヴォラールに売られました。その時の値段は不明ですが、この画商が1897年にコペンハーゲンの女性コレクターに売った際の値段が300フラン(58ドル)であったという記録が残っているそうです。
1897年に58ドルで、1990年に8250万ドルですか!(142万倍ですね、単純な計算では)
ところでその後この画が市場に登場したのは、1911年にフランクフルト(ドイツ)のシュテーデル美術館がこの画を購入した時のことです。同美術館はこの画を20年余りの間、館内に展示していました。
ところが1933年にナチスが政権を獲得すると、事態が大きく変わりました。ゴッホはナチスが言うところの「退廃芸術家」に指定され、ヘルマン・ゲーリング(ドイツ第3帝国空軍大臣、国家元帥)という希代の絵画コレクターが率いる、歴史上もっともどん欲な美術品泥棒組織の手によって押収されました。ナチスは当時、国内および占領地の美術館や個人から強奪した美術品を大量に売りさばいて金に換えていました。この画は、その中でアムステルダムの銀行家、フランツ・ケーニヒスに売られました。1938年のことでした。
ところがケーニヒスは、すぐにお金に困る事態に直面し、ドイツ人金融業者、ジークフリート・クラマルスキーに借金の肩代わりとしてこの画を渡したらしいのです。らしい、というのは戦争中のことで、書類や記録が残っていないのだそうです。
1941年、クラマルスキー氏は家族を伴って、ニューヨークに移住します。名前からしても純粋なゲルマン系ではないと思われる、このクラマルスキー氏は、もしかしたらユダヤ系だったのかもしれません。
クラマルスキー氏はこの画をたいそう自慢にしていたらしく、よく美術館にも貸し出していたようです。氏の死後は遺言により、ニューヨークのメトロポリタン美術館の中の印象派ギャラリーのゴッホの部屋に展示されていました。所有権は氏の家族に属したままで。
1990年のオークションで史上最高価格をつけた画は、こういう経路でアメリカにあったのですね。そして、1990年、クラマルスキー氏の未亡人が健康を害した時に、その3人の子供達が、相続を控え、美術品マーケットの状態から判断し、この期を逃すべきではないと判断して、思い切ってオークションに出したというわけです。
もっとも、最近になってから、ナチスからこの画を買ったフランツ・ケーニヒスの孫にあたる女性が、所有権を主張し始めたというから、話はますますややこしくなってきました。
そもそもケーニヒス氏がクラマルスキー氏にこの画を渡したのは、アメリカに逃れようとしていたクラマルスキー氏に画を託してその安全を確保しようとしたのであって、売却したわけではないというのです。したがって所有権は自分の家族にあると主張しているのです。
もちろんクラマルスキー家では「金銭的に購入する契約があった」と主張していますが、なにせナチスと戦争がからんでいることでもあり、それらのいずれをも証明する証拠はないというわけです。
現在の所有者が名乗り出ないのも、このケーニヒス氏の孫の訴えがある以上、姿をあらわせば、そのクレイムとも向き合わなければならなくなる、という点も影響しているのかもしれませんね。
それにしても、たいした経歴ですね。死の寸前にゴッホが描いた1枚の画。早くオリジナルの居所が分かるといいですね。
例の後日談が、日本の雑誌にも出たのには驚きでした。 確か、昨年初秋には例の6人の名前と所属企業名がとうとうメディアにも漏れ、ロンドン版だけでなく英国の全国版の新聞にも(もうほとんどジョークの世界ですが)載ってしまいました。 昨年末か今年始めだったでしょうか、解雇されたという新聞記事を私も目にしましたね。 へぇ〜、そんなことで解雇するのかなあ・・・なんて思ったものですが。
銀行側はこの件を理由にして彼らを解雇したとメディアには説明したようですが、まあただ単にそれでけでもなかったようです。
ちょうどその頃シティでは、昨年9月の同時多発テロ以降の国際政治・経済行き先不安定や、長引くアジア経済の不調、そしてアメリカはじめ国際的な経済の下降が影響してか、大手投資銀行が一度にまとめて2000人解雇したとか、今後一年の間に合計6000人解雇していくと宣言したりという、それはそれで派手なニュースもちらほらありましたし、彼らもビジネス、生き残るためには厳しいラインを引かなければならないのは確かでしょう。
話はそれますが、一定人数以上の解雇の場合、イギリスでの解雇システムは、例えばオランダはじめ他のヨーロッパ諸国(各国によって多少違いはありますが)のように、全ての社員の合意のもとで・・・というシステムではないようです。 よって解雇についても、解雇される側とする側の話し合い・合意などは一切無し、解雇にかけるスピードもそりゃ早いものです。
朝いつものように会社に行き、いつものように自分のデスクのコンピュータで社内メールをチェックするとボスからの解雇通知。 「午後12時までに私物を全て持ってオフィスから退去するように。」というドライさ。 予告無しの解雇は、シティの特に投資金融系企業では、日常茶飯事的頻度で行われます。
しかし、解雇される側も、その解雇理由によって多少違いはあるものの、解雇という状況をあまり自分にとって不利とは捉えていないようです(あるいは自分に不利でないようにしてしまう?)。 単に会社の要求と自分の提供する能力が噛み合わなかっただけで、自分の将来にとっていいチャンスと捉えるこの余裕。 予期せぬ事態が起きた時に騒ぎたてるのは品位の欠如とみなす社会風土からか、それとも優秀と自負する人ほど腹が据わって自信があるのか、あるいはただ単にポーカーフェイスを決め込んでいるだけなのか・・・。 (きっとどれもでしょうけど!)
ペトリュス事件もやることは胸がスカッとするくらい派手でしたが、こちらの方もまた、いさぎよい切りっぷりといい・・・やっぱり派手です。
相当な金額があっという間に動くビジネスでしょうから、トレイダー達は当たった時にはそれはそれは豪勢に儲ける変わり、解雇される時も問答無用の潔さ(!?)なのでしょう。
前置きが長くなりましたが、なにはともあれ、今年の2月25日付けのロンドン版新聞Evening Standardに載った、この後実談についての記事の見出しはこうでした。
<I'm off to the Pole says sacked "Petrus" trader>
「はあ???」とあんぐり口が開いてしまったのですが「ムムム、やることが大きいわ・・・」と半ば感心してしまったものです。
PoleとはNorth Pole、すなわち北極点のことです。 要するに、この件で解雇になった5人の内の1人、Dayananda Kumar 氏は北極点を目指して探検の旅に出発するそうです・・・。(今頃はどの辺りかしらん?)
今回、新聞社のインタヴューに応じたこの Kumar 氏、こう語っています。
「This whole situation is particularly funny because I'm a teetotaller.」
(この状況、特に可笑しいですね、なぜって私は絶対禁酒主義者なんですから。)
・・・ということは彼だったのですね、あの時オレンジジュースを飲んでいたのは。
しかしながら、このビル(お勘定)に対して9000ポンド(約180万円)を支払った彼は今回の件についてこうも続けています。
「To be honest I'm not that bothered. I've been on lots of expeditions since I left the bank. I went climbing on Everest. I've just come back from Kilimanjaro and I'm off to the North Pole soon. It's no real problem.
I did nothing wrong. It was private dinner and the only reason there was any issue was because it got released to the press. As far as my future is concerned there is no problem. The City is a small place and everyone knows there are only certain people who can pull in the big deals.」
(正直いってそんなに心配してません。 銀行を離れて以来多くの探検に出かけましたよ。 エヴェレストにも登りましたしね。 今もちょうどキリマンジャロから帰ってきたばかりですし、もうすぐ北極点を目指して出発します。 全く何も問題ありません。
私は何ひとつ悪いことをしてませんしね。 あれは個人的なディナーでしたし、ただひとつの問題点は報道機関にそれが流れ出てしまったことでしょう。 私の将来に関する限りは何も問題ありませんよ。 シティは狭いところです、大きな取り引きが出来るのはごく限られた人だけということを皆知っていますよ。)
そしてまた、彼はこうも付け加えます。
「The biggest problem is that nobody is prepared to eat in restaurants any more after big deals. It's too risky. The City used to prop up lots of the really expencive restaurants and I'm sure that they will struggle because of this whole affair.」
(ただ、今どんなに大きな取り引きの後も、誰もレストランで食事をしなくなってしまったのは大きな問題ですね。 なぜってそれはリスクが多すぎるからです。 かつてシティはとても高いレストランの多くを支持してきましたが、今回のことで彼ら(レストラン業界)が苦戦を強いられることになるのは確かでしょう。」
実はこの同じ投資銀行Barclays Capitalに最近まで勤めていた友人がいるのですが、ペトリュス事件とこの後日談、今度会った時の面白い話の種のひとつにでもなりそうです。
それにしてもこの出来事、面白くも真面目にも私にいろいろと考えさせてくれました。 儲けたお金をどのように使うかは勝手・・・という考え方もあるかもしれませんが、また大当たりでもしたら、今度はチャリティーに寄付するというのはいかがでしょう?

消えた名画 その1
日本がまさに国を挙げてという勢いで、欧米の美術品市場から高額な絵画等の美術品を買いまくった時期がありました。1987年から1990年までの、わずか3年余の間だけでしたが。それは今から思うと、まるでうたかたの夢の如くに思えます。
公式な統計などないのですが、1987年以前の日本の美術市場(1年間の売買額)はおよそ2千億円程度と想像されています。それが1987年から突然毎年倍増の勢いで増え、1990年のピーク時には、1兆5千億円にまで達しました。そのうちの8割ほどが、ヨーロッパからなだれを打ったように入ってきた美術品でした。
時は流れて2001年、つまり昨年の日本の美術マーケットの規模は1千億円〜1千5百億円程度と想像されますから、90年の十分の一かそれ以下であり、まあ1970年代はじめの規模に戻ったと言えそうですね。つまり市場規模だけから見たら、およそ30年ほど前に逆戻りしたというわけです。
このまさに絵画バブルというべき現象は、様々な後遺症を残しました。もちろん功罪という観点から見たら、<罪> の方が圧倒的に多いのは確かですが、でもちょっぴりですが <功> の部分もなくはないのです。
今回は、こんな騒動の中で、多くの愛好家からは見えなくなってしまっている、いくつかの名画のうちのひとつの足跡を追ってみることにしました。
上の画像をご覧ください。パブロ・ピカソの「軽業師と若い道化師」という画で、これも当時日本に入ってきましたが、その後ひっそりと海外に売られていったもののひとつです。わずか数年間日本にあったこれらの画の多くは、買値の半分などはよい方で、買値の1〜2割でまた欧米に戻っていったわけです。ずいぶん高いレンタル料でしたね。
実はここで取り上げるのは、この画ではなくて「ピエレットの婚礼」という別の1枚なのですが、残念ながらどうしてもその画像を入手できませんでしたので、代わりにほぼ同時代の彼の作品を掲載しました。ことほど左様に、今や「ピエレットの婚礼」は幻の1枚になってしまっているのです。
1989年11月30日、フランスのオークション会社、ビノシェ&ゴドーと当時の日本の有力画廊であったフジテレビ・ギャラリーが共同で、パリと東京を衛星で結んで、オークションを開催しました。
パリでは古くからのオークション会場、オテル・ドゥルオー、東京ではその夏にオープンした渋谷の東急文化村を会場とし、フジテレビ系列の美術会社が開発したサテライト・オークションのシステムを駆使し、ハイビジョンでリアルタイムで競売に参加できるという、まさにあの時代にふさわしい、賑々しいものでした。
オークションに先立つ、下見会(プレビュー)はパリ、東京の両方で行われました。東京では10月28日から数日間、特設会場で下見会は行われました。
競売開始は11月30日の東京時間では夕方の6時。パリでは雪の降る寒い朝の午前10時でした。パリの会場にはピカソの娘、パロマ・ピカソをはじめ、俳優のアラン・ドロンまで動員され、多くの関係者とともに詰めかけていました。
競りが始まって数分後に、日本からの電話による入札者とパリの画商が2〜3度競り合って、最後はパリの画商が首を振って降りた時、入札価格は3億1千500万フラン(およそ5100万ドル)当時の為替相場で73億8千万円という価格でした。
これは、現在までのところ、世界の美術品オークションでつけられた第3位の高価格ということになっています。これはその2年前の1987年に安田火災海上保険会社がロンドンのオークションで落札したゴッホの「ひまわり」の価格、58億円をはるかに上回る金額でした。
すぐに判明した買い主は、日本の不動産・リゾート開発会社、日本オートポリスの鶴巻友徳氏という人物で、氏は町の鉄工所から身を起こし、不動産業やパチンコ店の経営をしながら、リゾート開発に進出し、大分県上津江村という阿蘇山の山麓で、F1レースを開催できるサーキット場とホテル、美術館、テニスコートを持った一大リゾート施設を建設する計画を進めていました。
舞台となった上津江村は、人口1500人ほど。「ピエレットの婚礼」の落札価格は、当時の村の年間予算のおよそ5倍に当たるというものだったそうです。
そう言えば、こんな話があちらこちらにゴロゴロしていましたね、あの頃は。東京証券取引所の日経平均株価が38,915円という最高値をつけたのは、この年の年末の大納会においてでした。(ちなみに現在の日経平均株価は1万円前後ですから、ほぼ四分の一近くなのですね。)
このオークションの落札の発表も、まことにこのバブル紳士らしいやり方でした。当日の夕刻6時半から、都内のホテル・オークラでその年の5月まで総理大臣をしていた、故竹下登氏をはじめ、有力政治家、芸能人、ビジネスマンなど約3千人を招いて、盛大な事業披露パーティを開いていたのです。
競りが始まると鶴巻氏はパーティを中座して電話口で入札し、落札が決定するとパーティに取って返して、このニュースを発表するといったものでした。さぞかし得意満面だったのでしょうね、その時この方は。
突然に出現した無名の日本人ビッダーに、オークションの関係者はきっとびっくりしたことでしょう。容易に想像がつきますね。
こうして「ピエレットの婚礼」は、バブル期のジャパン・マネーの力に任せて買った高額美術品の典型になったわけですが、実際にはこれに類するものが驚くほどたくさんあったわけです。
それでは、その後この画がどうなったかを見てみましょう。
さすがのバブル紳士も金策に手間取りはしたものの、大手ノンバンクのアイチからの融資を受け、1990年2月15日に全額支払いを完了。
初公開は3月21日から4月15日まで、大分県立美術館で「西洋絵画名品展」開催。
4月末から7月まで、横浜美術館で「バルセロナ・アヴァンギャルド」展に出品。
8月から9月まで、静岡県立美術館で「ピカソ展」に出品。
10月27日に大分県にオートポリスが正式オープン。附属の美術館はまだ未完成であったため、仮の居場所としてパドックビルに展示。
オートポリス・アートミュージアムが開館したのは、1年後の1991年10月20日でしたが、この時はすでに開発費用約800億円の大半が払えず、ごたごたが続きました。そのあげく、1992年7月に債権者による破産申請。11月には親会社の日本トライトラストも倒産。両社の負債総額は1800億円を超えました。
画は、オートポリス・アートミュージアムに1991年10月20日から、3日間だけ展示された後、債権者により三井深川トランクルームへと姿を消し、以来、公式には誰も見ていません。
落札価格の一部を融資したノンバンクのアイチ自体が、すでにこの時おかしくなっており、この画を担保として押さえたのは、消費者金融のレイクであったというのが定説です。そのレイクも数年後には経営難に陥り、1998年秋に、アメリカのGE系列のGEキャピタル社に消費者金融の営業権を譲り渡しています。結局のところ、この画はこのアメリカ資本の担保として、まだ倉庫に眠っているらしいのですが、あまりに債権者がめまぐるしく替わったために、誰も確たる証拠を持ってはいないようなのです。しばらく凍結しておいて、皆の記憶が薄らいだ頃、どこかに持ち出すのでしょうか。
まったくなんということか、とため息が出ますね。でも昔からある議論なのですが、買い主はそれ相応のお金を払って購入したわけだから、どうしようと勝手ではないか、という主張がありますね。他人にあれこれ言われる筋合いはない、ということですね。
でも、そうでしょうか? 最近読んだ本に、この「私有美術品の死蔵」に対する明確な批判が書いてありました。僕もなるほどと思ったものですから、ご紹介させていただきます。
「芸術の創造性というものは豊かな公共性なしには存在しえない。科学技術と同様、文化とはあらたに登場する創造者一人一人が、彼ら以前に創造しえた人々の仕事の上に積み重ねていく蓄積によって成し遂げるものだ。」
だから、どんなに優れた芸術作品でも、ある日突然出てくることはない。すべての芸術家は過去の作品、先達の業績から必ず学び、あるいはそれを否定することによってのみ出てくるものである。それゆえに、その学びや蓄積を阻む死蔵は許されない、という批判です。
自分が死んだら、棺の中にこの画を入れてくれ、などと放言して大ひんしゅくを買ったコレクターが日本にいましたが、まったく不遜極まりないと思います。
まだまだおしゃべりしたいことがたくさんありそうですので、少しこのシリーズを続けますね。ちょっぴりご期待ください。
本が死ぬところ、暴力が生まれる
筑紫哲也氏というジャーナリストがいます。僕は近年の彼の主張のすべてではないにしても、かなりの部分に共感するところがあるのですが、以下はごく最近の彼の文章です。最近出会った文の中では、とくに共感を覚えましたので、皆様にもご紹介したくなりました。ご一読いただけたら幸いです。
<引用開始>
「本が死ぬところ、暴力が生まれる」(バリー・サンダース著 原名は「The Collapse of Literacy and the Rise of Violence in an Electronic Age」by Barry Sanders)という本はどのくらい読まれているのだろう。それはともかくとして、いま本は死にかけている。流通、ゼネコン、不動産など巨大産業のかげに隠れて、出版社の苦境はあまり注目されないが、ひどいものだ。しかもそれが「構造的」と思える点が深刻だ。どの産業でも好不況はつきものだ、という話のようには見えない。
誰もが知っている有名な出版社の名が次々と「いよいよ危ない」という業界噂話の的となり続けている。中には自業自得、いっそつぶれてくれた方がセイセイすると個人的には思う社もないではないが、そうも言っておれないのは、活字離れ、読み書き能力の低下、その帰結として「本が死ぬ」ことで、どんな世界が生まれるのか、である。
前掲書はその答えを「暴力が生まれる」としている。
そうでなくとも9.11以降、世界は「暴力的」になっている。この日およびそれ以後に起きていることは「文明の衝突」などではありえず、「文明の逆行」でしかないと私は言い続けてきたが、最大の暴力である国家による武力行使は、それ以前よりもおおっぴらに抑制なくまかり通るようになった。
アフガニスタン、パレスチナですでにそれが起き、世界の他の地域の名が次々とあけすけに取り沙汰されている。「テロリスト」という恰好の標的(=口実)を手中にしてからは「報復のための戦争はもちろんのこと戦争そのものを自衛権の行使以外やってはならない」という国際社会が長年かけて積み上げてきたルールはどこかに吹き飛んでしまった。いまや、テロリストが潜んでいる、かくまっているという疑惑さえあれば、どの国を攻撃してもよい、というルールに変わった。
それと「本が死ぬ」ことと関係があるのか。私はある、と思う。こんな乱暴な話が国際世論でも許容されるのは、人間がものを深く考えようとしなくなったからだ。それよりも、世論を決めるのは、電子メディアが運んでくる強烈な映像と音響である。
文字文化から電子文化(映像文化)に移行することによってもたらされる最大の変化は、私達人間の自己が崩壊することだ。というのがサンダースの前掲書の主張だが、そういう時、世論もまた「暴力的」となる。
世論調査で近年しきりに出現する「90%現象」(少年法改正に賛成ですか、イエス91%といった具合に)、その延長線上の小泉内閣への「お化け支持率」などはその例であろう。
いよいよ4月から始まる「ゆとり教育」に現場は混乱、困惑しているという。子供達に本を読ませよう。ただし、教科書以外。物語ならなお結構。教科書さえ読めば「自己」が形成できるとは限らぬことを現場の困惑は示しているのだから。
<引用終了>
さて、これをお読みいただいたあなたはどうお感じですか? 僕がこのカフェ・ド・エルサイトウという掲示板にこだわり、文字を書き続けているのも、少しは意味があることなのではないか、とあらためて思いました。
ともかく、なるべくたくさん文字を読み、文字を書きませんか、皆様。自らの思考を放棄したり停止したりするのは、あまりにも危険なことだと思います。まさに文明の逆行に手を貸してしまう行為ですものね。
飛行機内の水とその行方は?
成田空港から旅客機に乗って、長いフライトだと12〜13時間、ノンストップで飛び続けることがあります。その間に出される食事は3回ほど。そしてトイレに行く回数は○回〜○回。
多い時には300人以上の乗客や乗務員を乗せて飛ぶわけですから、食料もですが、かなりの量の水を飛行中にも消費するのだろうなあ。その水はどのくらいで、どう処理するのだろうと、好奇心旺盛な僕はかねがね知りたく思っていました。
ちょうど日本航空が発行している月刊の広報誌「Agora」の最新号に同社の航空整備士の方がこのテーマで寄稿しておられましたので、その要旨をご紹介させていただきます。僕としては長年の疑問がひとつがとけて、ちょっぴりすっきりした感じです。ご参考になれば幸いです。
<要旨引用開始>
飛行機の中央もしくは後部の客室床の下側には、水の貯蔵タンクが搭載されております。機種によっても違いはあるのだそうですが、おおむね国内線で400リットル、国際線では1200リットル(つまり1.2トン)の水を入れて飛行開始するのだそうです。
これらの水は機内の「飲料水」と書かれた数ヶ所の蛇口から出る飲み水となったり、飛行機の台所であるギャレー (Galley) で使用されます。また、洗面台の水、お湯、トイレにも使用されており、機内のほとんどすべての水は、このタンクから供給されているというわけです。
この水は、当然ながら飛行機が空港に駐機している間に供給されるわけですが、それは現地の飲用水道水を水供給車 (ウォーター・サービスカー)が運んできて搭載するわけです。特別な水ではないのですね。
一般家庭の水道水の場合も、水道ポンプ場で加圧されて送られているように、機内でも水タンクに圧縮空気を入れることによって、客室よりも低い位置にある水を押し出すことを可能にしています。
この圧縮空気は、エンジンが回っている時にはエンジンから供給されますし、地上でエンジンが停止している時には、機内に搭載されている空気圧縮機(エアー・コンプレッサー)によって作り出されるのだそうです。
ところで、機内で使用された水の行方は? まさか、全部空中に放出されているわけではないでしょうね!
ええ、空中放出は全部ではありません。一部(トイレの水や汚物)は、専用タンクに集められて地上処理に回されます。でもそれ以外の水は、胴体の下に取り付けられている排水塔(ドレイン・マスト)から機外に放出されます。
「飛行中に機外に捨てたら、雨になって降ってきませんか?」という心配はご無用なのだそうでして、成層圏を時速800キロメートル以上で飛んでいる飛行機から排出された水は、一瞬のうちに空中で分解し、あとかたもなくなってしまうのだそうです。
トイレ洗浄の水ですが、近頃は気圧の差を利用してフラッシュするので、1回あたりの水使用量は昔に比べたら、ずっと少なくて、約200CCなのだそうです。そうか、0.2リットルか。でも仮に長距離路線で、ほぼ満席の場合、ひとりの乗客が平均4回トイレに行ったとすると、350人×4回×0.2リットル=280リットル。それに洗面台の使用量が350人×4回×0.5リットル=700リットルという計算になりますから、これだけでも1トン近くの水を消費するわけです。
<要旨引用終了>
僕などはヨーロッパ線の場合は、搭乗中に歯磨きを最低2回はしますから、もっと多く使っているわけで、なんだか申し訳ない気がしますね。でもまあ、汚水を空中にばらまいているわけではなさそうなので、ちょっと安心しましたが、本当に大丈夫なのでしょうか?
ところで、機内のキッチンをギャレー (Galley) と言いますが、あれは「ギャレー船」(かつて地中海を中心に、奴隷や囚人を使って漕がせた帆のついた船)の Galley と同じですね。船や飛行機内のキッチンのことをそう言うようですが、こんなところにも歴史的な用語が使われていることにあらためて気がつきました。
エルサイトウ ジョーク集 その20 (春も間近ですね)
ある日、ニュースでアナウンサーが、「今日、大阪府吹田市の民家の2階から屁・・・火が出ました」と言っていました。次の原稿を読むとき、アナウンサーは顔が赤くなっていました。(Weekly Mag2 2002/1/18)
以前、スーパーで、買い物をしていたときのこと。精肉のコーナーで茶髪の若い夫婦が「今日は“もも〜ろ”にしようよ」「うん“もも〜ろ”がいいよね」と夕食の献立の相談をしていた。“もも〜ろ”とは何だろうと、のぞいてみると、そこには「モモ一口」と横書きされた、ひとくちサイズの鶏のモモ肉が並んでいた。
(Weekly Mag2 2002/1/18)
新幹線は速いので、外の景色が見えないものだと思っていた私。高校2年の修学旅行で初めて乗ったとき、普通に景色が見えるので、いつまで徐行運転してるんだろうと不安でたまらなかった。
(Weekly Mag2 2002/1/18)
大学生になるまで、ほうれん草を英語でいうとポパイだと思っていた。
(Weekly Mag2 2002/1/21)
某テレビ局のアフガニスタンからの中継で、現地特派員(男性)が、「こちらカンダハルでは、ブルマを…」と言った後、一瞬沈黙し「ブルカを脱いだ女性達の姿が…」と、何事もなかったかのように中継を続けていた。
(Weekly Mag2 2002/1/23)
自転車の前後に子供を乗せて信号待ちをしてたら、「危ないよ、そんなふうに乗せたら」と、缶チューハイを手にした赤ら顔のおじさんに言われた。あんたに言われたくないよ。
(Weekly Mag2 2002/1/23)
新入社員の女の子に書き物を頼みました。東京都の「と」を抜かして書いてねって言ったら、「うきょうと」って書きやがった・・・。
(Weekly Mag2 2002/1/23)
会社でパソコンを打っていた。「委託内容」を打ったのに「痛くないよう」と可愛く変換されて、一人で笑ってしまった。
(Weekly Mag2 2002/1/23)
先日、職場の女の子が「ウフ、銀行へ行ってきま〜す。」と言った。「なんでウフって言うの?」って聞くと、「新しい銀行ですよ。UFJ!『J』をちょっと伸ばすと『UFU銀行』になるでしょ。みんなそう呼んでますよ。」と教えられた。『ウフ銀行』の方が愛着わくわな、と感心した。
(Weekly Mag2 2002/1/23)
近所のおばさんがダイエットの為に一日どれだけ歩いたか万歩計をつけると言い出した。そこで、ものは試しと、下腹部に装着し、階段を20段のぼってもらった。すると表示は「24歩」・・・ 腹の揺れで歩数が増えてたらしく、それに気づいて爆笑。そしたら、また3歩進んだ。
(Weekly Mag2 2002/1/25)
四字熟語で「×肉×食」を「焼肉定食」と答える話はありきたり。私の友達は「鯨肉給食」も考えたと言って、みんなを笑わせていた。しかし、実は私も「×業×得」を「職業獲得」と書いたことがある。
(Weekly Mag2 2002/1/25)
この間部活で走っていたら、ふともものあたりに異物感を感じた。走り終わって体育館へ行くとそのブツはどんどん足元に落ちてきていた。みんなに気付かれないようにそっとジャージをまくってみたら、ソレは父の靴下だった。みなさん、乾燥機の衣服のからまりには気をつけてください。
(Weekly Mag2 2002/1/28)
僕の学校の先生が塾のテストの採点のバイトをしていた時、森羅万象の読みを「ナウマンゾウ」と書いた子に二点(正解点)あげたくなったらしい。
(Weekly Mag2 2002/1/28)
大学の二次試験会場で試験監督の先生が、本人かどうかの確認をしながら後ろに下がって歩いていたら、思い切り柱に「ゴーン」という音とともにぶつかった。しかし先生は慌てることなく続けていた。会場中忍び笑いがしていた。
(Weekly Mag2 2002/1/28)
運転免許証の更新にいって来ました。ここにいる人々は、だいたい同じ時期に生まれたんだな・・・ ぼんやり見渡していたら、他のみんなもボーッとしているので、星座占いもあながち当たらないとはいえないと思いました。
(Weekly Mag2 2002/1/31)
高校入試直前、朝礼での校長先生の一言。「ネバーギブアップするな〜!!」 それって、ギブアップしろってことでしょ。
(Weekly Mag2 2002/1/31)
今度、職場で電気安全講習会のビデオテープを見ることになっているが、課長の行き先予定表にはどういうわけか、「10:00〜(403会議室)裏ビデオ」と書いてある。電ビデオの間違いであることを祈る。
(Weekly Mag2 2002/1/31)
運転免許の更新で、講習ビデオ上映が終わったあと。指導官が「最近、交通安全協会は何をしているところかよくわからない、等のお叱りをいただきます」と、活動内容を紹介しはじめた。「皆さんからいただいた会費で、この会議室の賃貸料と光熱費を払ってます」に始まり、「このビデオを買った」「加湿器を買った」「空気清浄機を買った」と、買い物自慢。入会しないでおこうかとマジで悩んだ。
(Weekly Mag2 2002/2/1)
カタカナや英語に弱いオバサンは多いと思うけど、うちの母はレベルが違う。グッチが「世界で最もシックな男」として選んだ、アフガニスタンのカルザイ議長をテレビで見て、「あ、この人でしょ? ユニクロに賞もらった人」・・・
(Weekly Mag2 2002/2/1)
小学校の時、塾のテストで「母国語」の反対語を書けという問題が出ました。私は「うちでは、いつも国語を教えてくれるのがお父さんで、算数を教えてくれるのがお母さんなんだけどな」と思いながら、「父算数」と書きました。
(Weekly Mag2 2002/2/1)
死んだじいちゃんは、ある時、夕食で出された味噌汁が濃すぎたのに立腹し「こんなに塩分を摂ったら体に悪いじゃないか!」と怒りながら、それをお湯で薄めた後、全部飲み干しました。
(Weekly Mag2 2002/2/1)
小学6年の娘に「拝むって何へんだっけ?」と聞かれた。「拝むのには何が必要? それがヒントよ」と答えたら「わかった。お金が必要だから金へんネ」との返事が来た。何かへん!
(朝日新聞 2002/02/03)
車の免許を取って間もない私。息子を乗せて買い物に出かけた。「まあ、よかった。今日は道路がすいている」と喜んでいる私に、後方を振り返りながら、「お母さん、たいへん! この車の後は渋滞しているよ!」
(朝日新聞 2002/02/03)
主人とつき合い始めた頃、私の慣れない手料理を二人で食べ終わって、主人が一言。「ありがとう! 今度はおいしいものでも食べに行こう」「・・・・」「そ、そういう意味ではないよ」と焦っていた。
(朝日新聞 2002/02/03)
中学生の頃、気の弱い同級生A君は悪友のBに好きな女子の名前をクラス中に暴露された。珍しく顔を真っ赤にして怒り出し、その取り乱し方は尋常ではなかった。そして言い放った「くそぉ、怒りが有頂天に達した!」どうやらとても嬉しかったようだ。
(朝日新聞 2002/02/05)
今朝「昨日、私の家内の旦那が急に亡くなったので、本日休ませてください」という欠勤願いの電話があった。複雑な家庭だなと思った。
(朝日新聞 2002/02/05)
深夜の某牛丼店。仕事帰りと思われる若いOLが消え入りそうな声で、「持ち帰りで大盛り一つ」と注文。まじめそうな店員は店の隅々にまで響き渡る大声で復唱。これでマニュアルは1種類であることが判明した。
(朝日新聞 2002/02/05)
忙しく仕事をしていたら、後輩が「お忙しいところすみません…」と、深刻な表情でやってきた。「先輩として相談に乗らなければ!」と、先輩面して「どうしたの?」と聞くと、トイレに連れて行かれた。「いよいよ深刻かもな」と思ったら、トイレが詰まって大洪水になった現場だった。
(Weekly Mag2 2002/2/6)
ある日、小学4年生の息子が言った。「ずーっと前からの疑問なんだけど、僕はお母さんの下の腹から生まれたの? 上の腹から生まれたの? ふつうはお腹は一つしかないのに、お母さんは二段になってるけど・・・」
(Weekly Mag2 2002/2/8)
得意先のお婆さんに、書類にハンコを押してもらおうとして「ここに、押してください」と指で示すと、その指の爪の上に押された。
(Weekly Mag2 2002/2/11)
5才の娘は最近言葉づかいが悪く、食事中に「食いやがれ!」と言ったので思わず「食べやがれ!でしょ!」と言って家族中のヒンシュクをかいました。
(Weekly Mag2 2002/2/14)
卒業文集といえば、うちの娘の幼稚園の文集に、同級生の女の子が、「大人になったら、めんどりさんになって卵を産みたい」と書いていた。そしてその後にその子のお母さんが「りっぱな卵を産んでください」と返事を書いていた。すてきな親子だ。
(Weekly Mag2 2002/2/14)
昨年の忘年会。居酒屋へ「8人で○日に予約をしたいのですが」と電話したら「少々お待ち下さい」と明るい女性店員の声。数分後、「お待たせしましたっ。お席が4つに分かれるのですが、よろしいですかっ??」いいわけねーだろっ!
(Weekly Mag2 2002/2/14)
某クリニックの問診票には“注射して欲しいですか?”“薬が欲しいですか?”“点滴をして欲しいですか?”と書いてあり、患者がマルをつける方式になっている。
(Weekly Mag2 2002/2/19)
私は色白で、体脂肪率も10%前後のため、血管がどこを通っているか、皮膚の上からでも確認できる。病院に行き、ベテランの看護婦さんが「お!」みたいな反応をすると、だいたい決まって次に出てくるのは若い看護婦さん。お願いですから私の腕で注射の練習するのはやめてください・・・。
(Weekly Mag2 2002/2/20)
最近ようやく携帯でメールを打てるようになった母から帰りに買ってきてほしいと携帯にメールが届いた。「散らしズシ 外ーフ 肋あげ アイス」…アイスしか買って帰れなかった。
(Weekly Mag2 2002/2/21)
4月3日生まれの私。「4月1日に生まれなくて良かった。だって4月バカの日でしょ」というと、それを聞いていた兄は「おまえ、バカだなあ。4月バカは3日続くんだよ。バカ・半バカ・うすバカってな。知らなかったのか?」この事を20年ぐらい信じていました。
(Weekly Mag2 2002/2/21)
昨日来てたメルマガに、「今さら、無料登録された方に超豪華プレゼント!」とあった。超豪華プレゼントは期待できそうもない。
(Weekly Mag2 2002/2/22)
夜、酔った勢いで女房(45才)に「お前は女として賞味期限が過ぎている」と言ったら「そう言うあんたは使用期限が切れている」と言われた。返す言葉が無かった…。
(Weekly Mag2 2002/2/22)
中学生の我が子が英語の教科書を持って来て「これ(Why)ってホワイって発音するの? それともフワイって発音するの?」と聞いてきたので「ホとフの間の音」と答えると「ヘワイ」と発音していた。
(Weekly Mag2 2002/2/22)
病院に行った時、採血室に入った私のとなりで、お医者さんと看護婦さんが3人がかりで、暴れる4歳くらいの男の子を押さえつけて注射をしようとしていました。男の子は、抵抗しながら「お願い、お金出すからやめて!」…みんな思わず採血の手を止めて笑いをこらえていましたが、先生がひとり「いくら、出す?」と聞いていました。
(Weekly Mag2 2002/3/3)
職場の電話取次ぎで、よく「磐梯山からお電話でーす」と言うのを聞いて気になっていた。今日「磐梯山て何してる会社ですか??」って聞いたら、上司に「知らないの? おもちゃとかプラモデルとかで有名だけど…」と言われた。バンダイだったのね・・・
(Weekly Mag2 2002/3/3)
コンビニで会社用の切手を買って領収証をもらった時のこと、
「宛名は?」
「アルファベットでPOP」
「ピーオーピーは、カタカナですか?」(何を聞くんだ? このおばさん?)
領収書の宛名を見ると「アルファベットデ」と書かれてあった。
(Weekly Mag2 2002/3/3)
ファーストフード店で、きれいな店員さんに「ここでお召し上がりですか? お持ち帰りですか?」と聞かれ、緊張のあまり「ここでお持ち帰りです」と答えてしまった。
(Weekly Mag2 2002/3/3)
うちの息子が小学校2年のとき、「今日は、『すべるプリン』があるって先生が言ったよ。どんな味かな〜給食が楽しみ・・・」と学校に行った。それは、大きらいなツベルクリンの注射であった。
(Weekly Mag2 2002/3/3)
会社で昼食後、長椅子に座ろうとして向かいを見ると、長椅子の背もたれに腕をかけてそっくりかえる上司が。私もマネをしたら、後ろにひっくり返った。私の椅子には背もたれがなかった。
(Weekly Mag2 2002/3/3)
アメリカの崩壊 (いつまでもあると思うな・・・)
なんだかちょっと人騒がせなタイトルで恐縮です。ごく最近目にしたある雑誌に掲載されていた記事にあった言葉です。談話を記事にしたものなのですが、おしゃべりした人は、現代アメリカの日本研究者として最高水準にいる一人、チャルマーズ・ジョンソン氏(日本政策研究所所長)です。
氏は長年アメリカの大学の研究者として、日本を含むアジア諸国に関する多くの研究と著書を残してきましたが、ごく最近ではアメリカの危険な外交政策を批判した「アメリカ帝国への報復 (Blowback : The Costs and Consequences of American Empire)」を昨年上梓しました。これは9月11日のテロを予言した本としてアメリカでも8回も増刷を重ねるベストセラーになっています。
今回ここで引用する記事のタイトルは「アメリカの帝国主義がアメリカを崩壊に向かわせる」となっています。面白い記事でして、相変わらず「超」のつく忙しさの中にいる僕も一気に読んでしまい、これはなるべく多くの方にもお読みいただきたいと思い、勝手ながら引用させていただきました。よろしければ、どうぞご一読ください。
<引用開始>
「アメリカの帝国主義がアメリカを崩壊に向かわせる」
今、世界は非常に危険な状態にあります。アメリカ合衆国のアフガニタンでの軍事行動は、単純にさらなるテロ行為を呼ぶことになります。それは、9月11日のテロ事件の被害者だったことで、高い位置にあったアメリカのモラルを失墜させ、他国の協力体制も弱めるでしょう。
今私がもっとも恐れているのは、アメリカ軍があまりにも肥大化していることです。膨大な軍事費をかけ、高度な技術を持ち、他に軍事力で対抗できる国が世界中にないことです。アメリカと戦争するということは自殺行為です。従ってアメリカに対して唯一対抗できる手段は、一般市民を襲うテロ行為だけなのです。
アメリカがその外交政策を変えない限り(そして今のところ、その予兆はまったく見て取ることができませんが)アメリカに対するテロは増えるばかりでしょう。つまりアメリカ人なら誰でもかまわず、国内だろうと海外だろうと、どこに居てもテロのターゲットとなるのです。
こうした状況が続くならば、この先アメリカ国内で待っているのは、ゆっくりと進む軍事クーデターでしょう。アメリカの軍部は、その組織を守ために、少しずつ国を支配していきます。第二次世界大戦中に日本に起こったように、あるいは1989年までの東ドイツのように国民の半数が残りの半数をスパイして、市民の自由がなくなるような国になってしまうことでしょう。
これは本当に危険な状態です。現実にアメリカでは市民の自由が日に日に失われつつあります。ブッシュ大統領は、ついに特別軍事法廷の設置をオーソライズしました。テロリストの疑いがある市民を一般の裁判ではなく、軍事法廷で裁くことを可能にしました。
ジョージ・ワシントンの「訣別辞」やアイゼンハワー大統領が警告したように、徴兵制がなく、一般市民との接触もないうえに、あまりにも肥大化した軍事力は危険なのです。
本当に危険な状態というのは、我々がすでに国家の形を失っていて、それに対して何もできていないということなのです。このまま行けば、10年前にソビエト連邦が崩壊したと同じ道を歩み、近い将来、アメリカ合衆国が崩壊する可能性が高いということが、はっきりと言えます。
もし私が15年前に「ソビエト連邦が5年後に崩壊する」と言ったら、人々は私を狂人だと思ったことでしょう。しかし、ソ連は崩壊しました。そして、今のアメリカは以下の3点において崩壊5年前のソ連にそっくりなのです。
まず第一に、国内経済が矛盾をかかえていること。第二にあまりにも増長しすぎた帝国主義によって、あまりにも多くの国々に関与しすぎていること。そして第三にそれらについて改革が不可能な状態にあることです。
今のところブッシュ大統領は人気があるように見えます。しかし、彼は選挙で選ばれた大統領ではない。最高裁の極右勢力によって指名された大統領なのだということを誰もが知っています。少なくとも国民の50%は、彼を合法的に選ばれた大統領だとは思っていないのです。
ヨーロッパや世界のその他の国々では、ジョージ・ブッシュ大統領は愚か者であり、窮地に陥っていると見ています。彼は父親の時代の80年代から政府にいる非常に危険な極右思想の持ち主を自分の周囲に集めました。
チェイニー副大統領、パウエル国務長官、ウルフォウィッツ国防副長官、アーミテージ国務副長官などです。彼らが湾岸戦争やアフガニスタンに対してとった活動が、直接今日の事態を引き起こした原因の一つなのです。それがCIAが使った「ブローバック(報復)」というコンセプトなのです。つまり、自分達が行った帝国主義政策が、意図せぬ結果となって戻ってきているのです。
アメリカの指導者は、特にこのブローバック(報復)というコンセプトを非常に恐れています。それによって、アメリカの外交政策の誤りが、この何千人という犠牲者を出したテロ事件に少なくとも責任があることを、人々に気づかせてしまうからです。
だからブッシュ大統領は、この同時多発テロの真の原因について議論が起こることを、あらゆる権力を使って防ごうとしています。そしてまず最初に「悪人 (evil doers)」という言い方をしました。非常に古い英語の表現です。悪を行う者は動機を持っていません。ただ悪い人なのです。あるいはサミュエル・ハンチントンの言う「文明の衝突」というイデオロギーに議論をすり替えようとしました。なぜなら文明の衝突ならば、誰のせいでもないからです。
しかしブローバック(報復)という議論で語れば、アメリカおよびCIAが1979年から2001年まで、アフガニスタンでソ連を陥れるために実行していた政策が、9月11日の事件につながっているということに国民が気づいてしまうのです。今のところ大統領は非常に巧妙に「なぜ私達が嫌われているのか」について議論をそらすことに成功しています。
もちろんこの状況は、アメリカのメディアの堕落にも帰因しています。90年代にこの国のメディアに起きたことは、マードックによるテレビと新聞の統合や、AOLとタイム・ワーナーとの合併など、大きな画一化でした。非常に大きなコングロマリットが出来上がり、ニュースに価値がなくなってしまいました。その証拠に、今日多くのアメリカ国民が、英国BBCのテレビニュースを見るようになり、ファイナンシャル・タイムズや、ガーディアンといった英国の新聞を購読するようになっています。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストは単に政府の代弁者になり下がっているので、信用していないからです。
9月11日の後、我々にはすぐに3つのことができたはずなのに、そのどれもがなされていません。
第一に、我々はサウジアラビアから軍隊を撤退させなければならなかったのです。もしこのまま米軍が残っていれば、79年のイランがそうだったように、サウジアラビアは崩壊するでしょう。
第二点はイスラエルについてです。アメリカは戦後の日本にそうしたように、国策としてイスラエルという国の存続を保証すべきです。しかし、イスラエルのパレスチナへの介入には徹底的に反対し、彼らを撤退させなければならなかったのです。
第三に我々は石油消費の削減を始めなければならなかったのです。それによって、中東およびペルシャ湾への石油の依存度を減少させなければならなかったのです。もしアメリカ国内のSUVやトラックなどの利用を減らせば、我々は簡単に今の石油の消費を50%削減できるのです。
それらのことを行う代わりに、我々の政府はアフガニスタンを攻撃し、戦争を始めました。その結果、これから先、我々に対するテロ行為はさらに増え、我々の社会はさらに軍事化し、市民の自由は制限されることになるでしょう。
そして日本はというと、そのアメリカに、何も考えることもせず、無批判にそして盲目的に追随しています。英国でさえ、少なくともブレア首相の行為に批判的な意見が議会で反テロ法案の成立を阻止しているというのに。
日本がアメリカに追随するのは、アーミテージ国防副長官の恫喝によるところが大きいと私は見ています。アーミテージが日本側に「ショウ・ザ・フラッグ(日の丸を見せてほしい)」と迫ったわけです。
これは実はアメリカの圧力ではなくて、米政府の極右主義者アーミテージが、日本に憲法を無視させて、軍事力をもっと強めさせたいと願ってかけた圧力なのです。でも忘れないでほしいのは、ほとんどのアメリカ人は、アーミテージの名前など知らないということです。彼の名前は日本での方がよく知られています。我々はパウエル国務長官は知っていますが、国務副長官なんて誰も気にしていないのです。
また、ほとんどのアメリカ人は、日本が軍事的に貢献することにはまったく関心がないのです。今日、アメリカの新聞に載る日本に関する記事はと言えば、いかに日本経済が日に日に悪化しているか、日銀がどんな危険を抱えているか、そして小泉首相の構造改革がいかに進んでいないかということなのです。
世界にとっての脅威は、日本の経済がさらに悪化することによって世界経済が恐慌に陥ることであり、頼りない日本の軍艦が3隻、インド洋に繰り出していくことに対しては、まったく関心がないのです。
しかし日本では、小泉首相が非常に巧妙にこのテロ事件を利用して、彼が本当にやらなければならない財政構造改革に対するプレッシャーから国民の注意を逸らすことに成功しています。そして、ただ単に自分の友人であるアーミテージ国防副長官の気に入るように進んでいるのです。
ブッシュ大統領の父親の昔の友人達の思惑通りに、もしこの戦争にアメリカが簡単に勝つようならば、我々はますます危険な状態に陥るでしょう。
もし米軍がアフガニスタンに長く居座るようなことがあれば、あるいはもし米軍がこの先、イラクやイエメンや、ソマリアやリビアなど、他の国々にまで軍事行動を起こすようになれば、アメリカ合衆国は、世界中から孤立することになるでしょう。
友好国との連帯はますます悪化します。ナンバーワン衛星国である日本と英国を除いては。ヨーロッパ諸国はすでにアメリカ合衆国に極めて懐疑的な目を向け始めています。こうした懐疑的な考え方は、京都議定書の拒否や、ダーバンでの人種差別撤廃会議における否定的な態度や、対人地雷撤廃の拒否などの利己的な態度からも来ているのです。
このまま行けば、短かくて幸福だったアメリカ合衆国の命は、終わりを告げることになるでしょう。ソビエトの崩壊よりは、崩壊までに時間がかかるかもしれません。しかし、私には、アメリカがソ連と同様に、致命的な失敗を犯しているとしか思えないのです。
<引用終了>
いかがですか、ご感想は? 字数の制約上、論証が不十分なためか、多少乱暴に思える表現もありますが、市民的自由が、日本よりはるかに根付いているアメリカにいて、こんな鋭い感性で社会を分析できるジョンソン氏に、心から敬意を表します。
「いつまであると思うな、・・・」とくれば、そのあとは「親とカネ」と続くのが、よく知られた処世訓ですが、現在の日本を見る時には「いつまでもあると思うな、平和と自由」と思った方が正しい気がしますね。
長文の引用におつき合いいただきまして、まことにありがとうございました。
早速のご回答をありがとうございます。 ゴールドカラーが バブルの象徴だったというご指摘、なぁるほど、と思いました。でも、またそこから疑問が生まれました。
景気の急速な悪化とともに、ジュエリーのカラーがイエローからホワイトへと大きく変化して、イエローゴールドは一気に人気を失っていき、需要が イエローゴールドからホワイトゴールドへと変化した動きが実際にヨーロッパやアメリカにあったとのことですが、それは不景気が日本のようには長引かなかったこととも関係ありませんか。
そのことを別な面から考えてみました。「 日本の場合はホワイトゴールドではなくて、まず伝統的に需要が強かったプラチナへと人気が移っていった」というご説明ですが、数字の上からだけで見ると、プラチナの需要はすでに達した一定水準を保ち続けたと言った方がいい程度の動向ですから(イエローの需要低下に伴ってプラチナの需要が逆比例的に上がってはいません)、以前はイエローゴールドを買い求めたはずの客層がプラチナへ移ったとは考えにくいと思います。(これはあくまで数字の観測からだけの話で、事実、イエローはもういやだからプラチナにしようと考えてプラチナを選んだ人もいるでしょう。)とすると、景気の動向に消費が影響されやすい階層と、そうでない階層(「景気の悪化に比較的抵抗力を持っていた、より安定した人達」)とが潜在的にあって、PGI は後者を対象に「極めて活発な活動をして、プラチナ ジュエリーの需要を創出」することに成功したと考えられませんか。日本の不景気は 日本にお金がないのではなく、あるお金が動かないのですから。
が、2000年になると、経済基盤の安定した人たちも、低迷を続ける日本の景気に不安になってきてジュエリーを買わなくなり、プラチナの需要が一気に57%にも落ちてしまう。これは大変なことです。この大変化の少し前に「PGI の日本人責任者が更迭され、顔ぶれががらっと変わ」ったそうですが、そのことと需要の激減とは関係があるのではないか、という恵マスターの推測(?)も納得できますね。
ところで、ホワイトゴールドとプラチナの違いを、恵マスターは以前説明してくださったように思うのですが、その復習をしてみようと思い、ワード検索をしてみたのですが、どうも出てきません。私の記憶違いだったのでしょうか。
淀川さん、とっても大変な思いを経験されたのですね。いま拝読したばかりで、考えはちっともまとまりせんが、まず、亡くなられた叔母様のご冥福をお祈りいたします。しかも、淀川さんが経験されたばかりのことは、私たちもこれから少なからず直面する可能性があることで、そこまで配慮されてカフェに書き込んでくださった淀川さんの思いやり深いお心に感激させられました。
人工呼吸器を使って延命処置をとるかどうかは、とってもむずかしい問題で、アメリカでも表面は法律的にきちんとしているようですが、実際にその場に直面するとなかなか理屈通りにはいかないようです。もっと考えがまとまりましたら、そのことをお知らせしましょう。
まだまだご高齢の方々のお世話をされている由、僭越ですが、心から声援を送らせていただきます。(淀川さんって、本当に強くて、賢くて、立派な方なのですねぇ。)ご自身の健康もどうかお大切に。

聖ヨハネ騎士団
568番の「カラヴァッジオ」の中でも触れたのですが、聖ヨハネ騎士団 (The Knights of the Hospital of St. John at Jerusalem) のことは、かなり昔から気になっていました。
なんでも、11世紀に聖地エルサレムで設立され、その後の紆余曲折を経て、今なお存在している組織なのだそうで、なんと千年近くも存続してきたというわけで、西欧キリスト教世界の歴史のひとこまを間違いなく担っていると思われるからです。
実は僕が今、超がつく多忙さの中でちょっとした暇を見つけては読んでいる本が、「ロードス島攻防記」(塩野七生著)という本で、これがまた聖ヨハネ騎士団とオスマン・トルコとの戦いと、騎士団について書かれたものなのです。なかなか面白いですよ。
そんなわけで、今回はこの「聖ヨハネ騎士団」について、ちょっとまとめて学んでしまおうかな、と思っております。よろしければおつき合いください。
騎士団成立
聖ヨハネ騎士団の起源は、ホスピタルの名前にある通り、巡礼者を対象とした病院です。11世紀の中頃、イタリアのアマルフィ(ナポリの南東数十キロ)から巡礼に来た商人達が、当時エルサレムを支配していたファーティマ朝の許可を得て、宿泊用の修道院を建てました。この修道院が発展していく過程で女子修道院と病院とが併設され、その病院の守護聖人には洗礼者ヨハネが選ばれました。
1096年、第1回十字軍の遠征が始まります。このときにエルサレムで病院を管理していたのはジェラールという修道士でしたが、市内に残留して病人や負傷者の面倒をみていました。表向きはイスラム教徒側に協力する一方、裏側では十字軍側に協力していたといいます。
エルサレムがキリスト教徒の手に渡ると、エルサレム大司教から特権を与えられるようになり、ジェラールは巡礼のルート上に病院を建設し、その献身的な活動が評価されて有名になります。1113年、教皇パスカリス2世は、この病院組織を正式に新修道会と認める教書を発表し、教皇直属の位置に置きました。
1120年、ジェラールの死に伴い、レモン・ド・ピュイが新総長に就任します。新修道会は、この新総長のもとで急速に経済力と軍事力を高め、エルサレム王国の中では、テンプル騎士団と並ぶ軍事集団となり、十字軍や聖地防衛で主要な役割を演じるようになります。難攻不落で有名なクラック・デ・シュバリエは、聖ヨハネ騎士団に「寄進」された城です。
ロードス騎士団
十字軍の成功は、多分にイスラム側の足並みが揃わなかったことにも原因があるわけですが、アイユーブ朝のサラディンが台頭してくると、聖地におけるキリスト教徒側の勢力は後退を始めます。それに伴い、聖ヨハネ騎士団の本部は、エルサレムの陥落によってアッコへ、アッコが陥落するとキプロス島へと移されます。
1309年、聖ヨハネ騎士団は、エーゲ海南東部にあるロードス島をビザンチン帝国から奪い取り、ここに本拠を構えます。彼らは横目でライバルのテンプル騎士団の没落を見ながら、何者にも束縛されない独自の態勢を作り上げます。これ以後、ロードス騎士団と呼ばれるようになりますが、ロードス島はオスマン・トルコ帝国の海上交通の要衝にあたり、イスラム側の海運に打撃を与えることが彼らの主な任務となります。
14世紀に入るとイスラム側が優勢となり、1453年のコンスタンチノープル陥落以後は、オスマン帝国がヨーロッパに本格的侵入を始めます。オスマン側から見れば、ロードス島は喉元に突き出た刺のような存在で、この島で海賊行為を行う騎士団を追い出す必要に迫られ、島の攻略に力を入れるようになります。1522年、オスマン帝国のスレイマン大帝が率いる大軍に攻囲され、騎士団は市民を引き連れてロードス島を明渡すことになりました。
マルタ騎士団
1530年、神聖ローマ皇帝カール5世はシチリア島の防衛を強化するため、流浪の聖ヨハネ騎士団にマルタ島を与えます。これ以後、彼らはマルタ騎士団と呼ばれるようになります。
1565年、スレイマン大帝はマルタ騎士団攻撃のために親征します。攻撃側は、総数5万。守備側は、騎士団540名にスペイン兵1千、市民兵と傭兵が4千。攻防は4ヶ月にわたり、ロードス島攻防戦を凌ぐ激しさだったといいます。騎士団の勇敢な奮戦の中で、ついにヨーロッパ諸国はお互いの反目をとりあえず収めて、相互の和平を取り交わして、マルタ救援軍を派遣します。その数、およそ8千。
この援軍によって、全軍の半数を失ったトルコは、撤退を余儀なくされます。怒涛のようなトルコの西ヨーロッパ侵略は、この戦いにより終止符を打たれ、スレイマン大帝は、この翌年病没し、ヨーロッパはようやく安寧を得ることができたのです。
このときの騎士団長がバレッタ (Valletta) という人物で、この幸運な英雄バレッタは、現在でもマルタの首都に名前を残しています。
カラヴァッジオがマルタに逃れてきたのはこの少しあとのことだったのですね。その頃、マルタ騎士団となっていた聖ヨハネ騎士団は、オスマン帝国軍をうち負かして、もっとも意気盛んな時代だったのでしょう。
マルタ騎士団はナポレオンの登場によって転機を迎えます。エジプト遠征上の障害と見たナポレオンは、1798年にマルタ島を占領します。1802年に締結されたアミアンの和約で、騎士団は一時的にマルタ島を返還されますが、翌年にはナポレオン戦争が再開され、1814年のパリ条約でマルタ島はイギリスへの帰属が決定します。
1834年以後も、聖ヨハネ騎士団は、モスクワ、フェラーラ、ローマに次々と本拠を移しながら、キリスト教本来の使命である医療活動を続け、現在も活動を続けています。現在の団長は77代目であり、団員は約8千人。世界中に散らばった彼らは、赤地に変形十字の紋章をつけ、馬の代わりに救急車を駆って、今日も医療戦士として活躍しているのだそうです。
11世紀聖ヨハネ騎士団が設立された主たる目的は、巡礼者に対する医療活動でした。今でもローマのコンドッッティ通り (Via Condotti) に本部を構えているこの組織は、何百年間も担ったキリスト教世界のイスラム世界に対する防衛拠点という軍事的な役割を終えて、設立当初の使命に戻ったのですね。
これが聖ヨハネ騎士団の概略です。キリスト教とイスラム教。長い間、複雑に絡まり合ってきた異質な世界です。現在でもたいへんホットな関係ですが、それにもずいぶん長い歴史があるのですね。

カラヴァッジオ
地図で見ますと、北イタリアのミラノから東へ約40kmほど行ったところにカラヴァッジオ (Caravaggio) という名前の町があります。僕自身は残念ながら、まだその町に行ったことはないのですが・・・。おそらくは、そこの生まれのこの画家のことは、562番「一度は消えた画家」の中で予告させていただきました。この記事は、その画家、ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラヴァッジオ (Michelangelo Merisi da Caravaggio 1571 〜 1610) についてのおしゃべりです。
蛇足ですが、この名前の表示法は、あのレオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci 1452 〜 1529) つまり、ヴィンチ村のレオナルドさん、と同じですね。ということは、カラヴァッジオは、本当はカラヴァッジオ村のミケランジェロ・メリジさんなのですね。
この画家は39歳で夭折したのですが、宗教上の人物を極めて身近な庶民の姿として迫真的に描き、それまでの伝統的な絵画技法を大きく変化させた画家として、美術史に燦然と輝く人物です。そして、また歴史に残る大画家の中で、殺人者として追われたことのある唯一の人物でもあるのです。それでは、この人物についてのおしゃべりを始めますね。
上の画像はルーブル美術館蔵の彼の作品で「女占い師」です。この画はカラヴァッジオが25,6歳の頃の作品で、彼は当時ローマで活躍していました。562番の淀川さんのコメントでご指摘いただいたように、いかにもこのジプシーの女占い師は、客が指輪でもしていたら、そっと抜き取ってしまいそうな感じですね。
明暗の強調、迫心的写実性を特色とする彼の画法は、「カラヴァッジオ様式」としてスペイン、オランダにまで深い影響を与えたと言われています。
34歳の時、1606年の5月に彼はローマで知人を刺殺しました。広場で仲間達とテニスに似た球技をしているうち、喧嘩となり、乱闘の末、剣を抜いて相手を刺し殺してしまったのです。芸術上の論争や、政治的な争いからではなく、また金品をめぐる争いでもなく、まったくのはずみで犯してしまった殺人でした。しかも30歳代半ばと、決して若気の至りとは言えない年齢でした。
気性は激しかったようです。殺人事件以前の6年間だけでも、彼の起こした種々の事件が13件、ローマ市の公文書に残っているのだそうです。無許可の帯剣、けんか、警官侮辱、名誉毀損、等々。
事件の時、すでに画家としての名声を獲得していた彼は、有力な貴族や高位聖職者達の後援を受けていましたが、さすがに殺人は死刑という法律のあったローマには居られず、逃亡と流浪の旅に出ました。ナポリ → マルタ → シチリア → ナポリ とその旅は続きます。
4年後の1610年、ようやく恩赦の可能性が出てきて、ナポリからローマを目指しますが、途中マラリアに冒されて倒れ、短い生涯を終えるのです。
殺人事件後も流浪の旅の先々で、教会や有力者からの画の注文が絶えなかったというのですから、やはりたいした人であったのでしょうね。
流浪の旅先の中で、僕がちょっと興味を持ったのはマルタです。シチリア島の南の地中海に位置するこの島は、聖ヨハネ騎士団の根拠地でした。(たしか、1798年にナポレオンに降伏するまでは、イスラム勢力と対峙するキリスト教圏の最前線として堅固な要塞を築いて厳しい規律のもとで独自の国家として存在していました。現在はローマに拠点があるようですね)
カラヴァッジオがマルタに渡ったのは、1607年のことです。殺人事件の約1年後です。ここで彼は騎士団に手厚く迎えられ、幹部の肖像画や宗教画を制作し、1年後の1608年7月には騎士の地位を与えられています。
ところが、それからが彼らしいのですが、まもなく投獄され、そしてまた間もなく脱獄してシチリアへ向かったというのです。なぜか? 現在までの研究では、投獄の理由は不明なのだそうですが、ともかく1608年10月には脱獄、無断離島、そして騎士の地位を剥奪されたという記録が残っているというのです。
彼の気性からすると、マルタ島の狭い社会での単調な日常に飽きて、またつまらぬことで争いを起こしたのだろうと推測されますが、不思議なのはその脱獄です。今でも残るマルタ島の中心バレッタの対岸にあるサンタンジェロの要塞の中にある牢獄は、岬の断崖に位置し、かなり強力な手引きがないと、脱出、シチリアへの渡航は不可能なのだそうです。そのうち僕も自分の目で確かめてきますね。
それにしても、なぜこの画家、カラヴァッジオは、あちこちで、ならず者のように振る舞ったりしたのでしょうか? それがまた彼の作品とどのように関わっていたのでしょうか?
カラヴァッジオは、あの天文学の革新者、ガリレオ・ガリレイ (1564 〜 1642) とほぼ同時代人なのです。ガリレオがそうであったように、この時代のイタリアには、伝承にとらわれず、自分の目で現実を見直そうとする近代精神に近いものが芽生え始めたのではないか。そんな気がするのです。
カラヴァッジオの庶民性に基づく迫真性も、外面を美しく装った貴族社会よりも、心をさらけ出す民衆の中にこそ人間の真実があると考えた彼の意志の表現ではなかったのか。ですから、彼自身、市井の現実のまっただなかに生き、伝承と規範を強いる社会の強制に対する苛立ちが強くあり、それが粗野で乱暴な行動として現れたのではないかという気がします。
それにしても、自らがホームタウンと決めたローマへの帰還願望は強かったようですね。もし、無事にローマに戻り、法王庁から恩赦を取り付けていたら、その後、どんな画を描いて、どんな人生を送ったかな、とちょっぴり興味があります。
1610年夏、恩赦が近いという知らせを受けて、ナポリを立ち、その途中で病死するのですが、最後の2〜3年の画はとても暗い色調です。ローマへ、ローマへという焦燥感と、なかなか実現しない恩赦への願望と絶望感、そんな気持が表現されているようです。
そういう意味では、上の画「女占い師」は、そうした苦悩をまだ知らない、彼のよき時代の作品に思えます。そうしてみると、幸せな1枚なのです、これは。
hiuraさんと日吉さんのやりとりを面白く拝見させていただきました。
犬の恋愛?の話も印象的でした。元々犬は「フランダースの犬」や「忠犬ハチ公」でもそうですが、自分の生命の危機よりも愛情を優先するところがあるのですから、種の保存とは別の次元で恋愛をしても不思議はないですね。
人間の場合の女性を巡っての争いの時、女性はどうするか?というお話ですが、その女性がどういう価値観に左右されているか?で決まるのだと思います。
映画などでは現代でしたらたいていは、好きな方の男性に加勢して一緒に戦ってますよね。それが、古代の歴史物だったりすると、貧国の姫が強国の国王のもとへ国ごともらわれていくなどというストーリーもあります。その場合は一個人の好みの問題というよりも国家の衰退がかかっているわけですから女性は黙って誰が勝つか見守るしかないのでしょうね。一種の政略結婚ですね。
もっとも現代でも恋愛よりも他に価値を置いている女性はいるわけで(例えばある目的があって、そのためにお金が必要)そのためには多少の割り切りはやむを得ないと考える人もいます。その割り切りが見抜けないところが男性には脅威かもしれませんね。
kenji hiuraさん
私の舞踊についての投稿がこのような話題に発展するとは、なかなか面白いものですね。
度々覗いておりましたが、さて、何とコメントしたものかと相当迷っておりました。
「オーラ」という言葉が出てきましたが、あくまで私の場合、これかも知れないな・・と思います。
価値観がかなり多様化して、女性の生き方も様々になり、つまりは、実際問題男性に頼らなくとも生きていける中で、どういう男性に惹かれるか・・。魅力を感じるのか・・。
うーーん、面白いテーマです。
余談ですが、以前私が投稿させていただいた、「釣女」のエピソードですが、醜女ちゃんは、大名には目もくれず、ひたすらいやがる太郎冠者を追い掛け回すのですよ・・。
それに対して太郎冠者は醜女を投げ飛ばしてまで、大名が釣った美女を追いかけ回すのです。
本当にドタバタなお話なのです・・。

一度は消えた画家
上の画は「ダイヤのエースを持ったいかさま師 (Cheater with Ace of Diamond)」と名付けられたルーブル美術館蔵の有名な画です。いったい、いつ頃の時代に製作されたものと、あなたはお感じになりますか?
これは17世紀のドイツ三十年戦争 (1618 〜 1648) の頃に、その舞台の一部となったロレーヌ地方出身の、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール (Georges de La Tour 1593 〜 1652) という画家によって描かれたものです。
ところで余談になりますが、僕が高校生の頃のことです。世界史の試験に「ドイツ三十年戦争は何年間続いたか?」という問題が出されたことがありました。こんな設問を出す方も出す方ですが、それをまたひっかけ問題だと思い込んで、30年間と解答せずに28年間とか31年間なーんて答えた生徒がいて、物笑いのタネになったことがありましたっけ。優雅な時代でしたね、あの頃は。 え、僕はどう答えたかですって? もう昔のことなので忘れました。すみません、関係のないお話をしてしまいました。
ともかくプロテスタントとカトリックの対立の総決算となる三十年戦争がドイツで始まり、それがロレーヌ地方に及んでいった頃のことでした。この地方はフランス軍、ドイツ軍、北方の新教徒軍が入り乱れて町を奪い合い、ひとつの町が攻め落とされるたびに、虐殺、略奪、放火の惨禍が渦巻くという惨憺たる状況が続きました。
さらにそれに加えて、ペスト(黒死病)が繰り返し発生したこともあり、いくつかの町は消滅し、17世紀の初めには約100万人ほどもあったロレーヌの人口は、半世紀の間に半減したと伝えられております。
そんな悲惨な時代に画家として活躍したのが、ラ・トゥールなのです。ところが、この画家は17世紀半ばに亡くなると、その記録がことごとく消され、作品も散逸し、完全に忘れ去られてしまいました。突然の復活は1915年のことです。なんと260年以上も美術史の世界からは姿を消し、そして美術史上でもまれにみる、鮮やかな復活劇を演じたのです。
1915年、ドイツの美術史研究者、ヘルマン・フォッスが論文を発表し、フランスの地方美術館にあった作者のはっきりしない3枚の画を一人の画家に結びつけて、「17世紀フランスには、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家がいたのだ。オランダにレンブラント、スペインにベラスケスがいたその時代に、フランスにはラ・トゥールという巨匠がいたのだ。」と結論付けました。そしてそれを機に、この画家が急速に掘り起こされることになりました。
田舎の修道院から、パリの骨董屋から、個人宅の物置から、オランダからスイスから、ぞくぞく作者不明扱いであった彼の作品が発見されました。作者不明でなかった場合でも、18世紀フランスの画家、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール (Maurice Quentin de La Tour 1704 〜 1788) の作品と見なされていたものもありました。ジョルジュは、それほど完全に忘れられていたのです。
どうしてそんなことになってしまったのか? その謎解きが今回のおしゃべりの主目的です。自分で考えても、どうも僕はやっぱり画にまつわるこの手のお話が好きなのですねえ。取り込み中で、なかなかこのカフェにも顔を出せませんでしたが、そろそろ復帰するためにも、こんなテーマで、まず頭慣らしをさせていただきます。
彼は1593年ロレーヌ地方の小都市でパン屋の息子として生まれました。日本では豊臣秀吉が全国を統一し、さらに朝鮮半島に文禄の役として出兵した頃(1592年)の話です。ヨーロッパでは、イギリスがスペインの無敵艦隊を破り(1588年)世界に進出を始めんとしていた頃ですね。
画家としての修行をどうやったのかは、まったく記録も残っておらず、不明なのですが、画風からは、ほぼ同時代のイタリアの画家、カラヴァッジオ (Michelangelo Merisi da Caravaggio 1571 〜 1610) の影響が見てとれます。カラヴァッジオについては、また後日、あらためて書き込ませていただきますね。この人もなかなかの変人で、歴史に残る大画家のうちで、殺人犯として追われたことのある唯一の人です。後日をお楽しみに。
1639年、ラ・トゥール46歳の時に、フランス王ルイ13世のためにパリに滞在して作品を描いたという記録があります。「王の画家」と呼ばれた彼が2世紀半以上も忘れ去られたわけで、これはなかなかに面白いですよ。
まず、上の画像をご覧ください。いかさま師達が右端のカモをだます算段をしているわけですが、なんとずる賢そうな目つき、顔つきでしょうか。長く続いた戦乱と疫病のために、人々の心がすさんでいたのかもしれません。乱暴さやずるさが生存のための必要条件だった可能性はありますね。
画家として成功したラ・トゥールは、富を蓄え、貴族のような暮らしに入っていきました。事実、彼の息子は、父から画業の手ほどきを受けてはいたのですが、父の死後は画業を完全にやめて、貴族の称号を取り、実際に貴族になってしまいました。そして、父の名を画家として後生に残すことは一切しませんでした。画家は職人であり、貴族の仕事としてはふさわしくないと考えたのでしょうか。この息子が父の記録を故意に消したということも考えられますね。
それからもうひとつ、ラ・トゥールが没した頃、フランス文化は大きな転換点を迎えたのです。1661年、太陽王ルイ14世が即位すると、ベルサイユ宮殿に象徴されるような絢爛たる宮廷文化が開花し、優雅に洗練された趣味が主流になっていきました。そうすると、どちらかと言えば骨太の、がっしりした、ラ・トゥールの作品は時代に合わなくなり、見向きもされなくなったのではないか、ということも考えられます。
それから、もうひとつ考えられるのは戦争と疫病です。町々をめぐる戦争と、繰り返し襲うペストによって町は恐慌に陥り、多くの建物とともに作品の多くが燃えてしまったということもあると思います。ラ・トゥールは生涯に300点から500点を描いたであろうというのが現代の美術史の推測です。でもこれまでに判明した作品は、息子、弟子達による模作を含めても70点余り。彼自身の手になる真作となると、その3分の1程度、という意見もあるくらいです。
そして最後の推論は、彼自身の性格です。幸いヨーロッパの多くの都市には公証記録や公文書、洗礼の記録などが残されています。ここからラ・トゥールの誕生、洗礼、結婚、訴訟、死亡等の記録が読み取られてきたのですが、これらから推測できるこの画家は、なかなかに複雑な性格であったようです。
畑を荒らした男を杖で打って大けがをさせた。召使いに豚を盗ませて隠した。貸したお金を手荒く、乱暴に取り立てた、等々、かなり町の人々から恨まれていたようなのです。
こうした記録からは、作品を被う神秘的な静けさとは、かけ離れた、けっこう粗野な性格を読みとることができます。これも現代の尺度では測れない、厳しい時代の影響があったのかもしれません。
こういう時代背景を知って、上の1枚を見ると、ちょっと違って見えてきませんか? これが画を見る楽しみのひとつですね。しかし、悪いことをしようとしている人間の目つき、何百年経っても変わらないものですね。
一度は美術史から完全に消えたのに、2世紀半以上も経ってから、見事に生き返った不思議な画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについての一席でした。

おなじみにジョーク集が出たので、「笑い」に関する話題をおひとつ・・・。
この写真は、狂言舞踊「釣女(つりおんな)」という演目の最後の方の1シーンです。
「釣女」とは狂言の演目である「釣針(つりばり)」をアレンジして舞踊化したものです。歌舞伎座などでも比較的上演されるものですのでご存知の方も多いかと思います。
大名とその家来である太郎冠者が妻を求めてお参りに出かけます。えびす神社でお参りを済ませたあとに、お告げにより得た釣竿で、大名には絶世の美女が釣れ、太郎冠者には醜女(しこめ)が釣れる・・という「笑わせる」お話です。深く考えれば、それってセクハラ?・・とも言われそうなお話なのですが・・。
この写真の左から2番目、太郎冠者を演じているのが私です。
昨年の秋に三宅坂の国立劇場で演じました。
舞踊暦は30年近く、と考えてみればジュエリーに携わっているよりも長いのですが、数年前からどうしても「笑わせる」という事を研究したくなり、師匠に頼み込んで演じさせてもらった、昨年の一番の思い出でもあります。
この役は舞踊というよりは芝居で、台詞もとても多く、大名が美女を釣ったのに嫉妬してやけ酒を飲んで酔っ払う振り、大名から釣竿を奪っていざ妻を釣ろうとするときのウキウキとした振り、自分が釣りあげた醜女を見てビックリする振り、ウキウキした振りとの落差でもある逃げ回る振り、しかもそれでいて品の良い舞台に仕上げる、、、ととても大きな課題の連続だったのですが、この「笑わせる」振りを研究してみて「恥ずかしがってはいけない」「なりきる」ということをとにかく勉強させてもらいました。
日本舞踊、歌舞伎舞踊もなかなか良いものですよ・・・。
2002年をよい1年にするために(エルサイトウ ジョーク集 その19)
とある会社の出入り口は、監視カメラがあり、指紋照合器が設置され、厳重な警備体制が用意してあるにもかかわらず、通るたびに暗証番号を打ち込まなくてもすむように、ドアの隙間に板切れがはさんである。
(2001/11/19)
パソコンを始めたばかりの上司は、ファイルを保存する時に「名前を付けて保存」と表示されたのを見て「これでいいよな」と言いながら、自分の名前を打ち込んでいた。
(2001/11/19)
電車の車内放送で「次は〜田無〜田無〜」と流れると、となりに座っていた外国人が「OH!テネシー」と、小さくつぶやいていた。
(2001/11/19)
中学の頃、塾のテストで「朱印船貿易がさかんになり、日本人がひんぱんに出向くようになった東南アジアには何が出来たでしょう?」という設問があった。正解は「日本町」だったのだが、席の隣だったCちゃんは「おともだち」と答えていた。
(2001/11/19)
〔問題〕えらそうに自慢することをなんと言うか。〔答〕鼻に○○○。中一の息子は、ピアスと書いていた。(Weekly Mag2 2001/11/19)
小学生のころ、風邪をひいて医者に行ったら「酒・タバコは控えるように」と言われた。
(Weekly Mag2 2001/11/19)
先日、日帰りバスツアーに参加したところ、隣の座席の人が前の網に市販のエチケット袋を入れていた。「へ〜、今は市販のものがあるんだ」と思い、よく見るとその商品名は「エチケット袋{ゲロゲロ}」だった。あおってどうするのよ!
(Weekly Mag2 2001/11/21)
妹がまだ5歳の時、私は、「親指で鼻をほじると、凄い美人になるんだって」と妹に嘘を教え、信じた妹はずーっと親指でほじり続けていました。今、彼女の鼻の穴が大きいと思うのは、気のせいでしょうか。
(Weekly Mag2 2001/11/21)
「ご乗車券拝見しまーす。」といわれ、渋々切符を見せた中年のおじさん。「どこまで行かれるんですか!とっくに過ぎてるじゃないですか。次で降りてくださいよ」・・・と降ろされたのですが、キョロキョロしながら、ドアが閉まる瞬間、隣のドアからスっと乗りこみ座っていました。顔を上げるとさっきの車掌さんが腕を組んで「困るなあお客さん・・・」「ウワアオ!!」生の喜劇見ちゃった。
(Weekly Mag2 2001/11/21)
我が営業部門では、朝礼当番が最後に「本日もがんばりましょう」と、掛け声をかけ、全員が唱和する。ある朝、課長が当番のとき「本日もがんばってやりましょう」と言ったら「何をやるのや」と皆につっこまれた。
(Weekly Mag2 2001/11/21)
先日うちの会社の産業医に、皮膚のトラブルの件で診てもらいに行ったら、カルテを書きながら「ちゃーんとお医者さんに見てもらって下さいね♪」と言われた。おまえは何者だぁ?
(Weekly Mag2 2001/11/21)
銀行で現金をおろして、ふぅ今月も赤字ダワサ…と明細を見たら、微妙に残高が増えてる! マジですか! 東京三菱のトラブル? よぉーしバレないうちに全額つか…わなくて本当に助かったです…きょうは給料日やった。
(Weekly Mag2 2001/11/23)
先日、ボールペンを切らしたのでコンビニに買いに行きレジで会計しているときに、店員さんが「これ、開店1周年記念の粗品です」と言って小さな箱をくれた。中身はボールペンだった。
(Weekly Mag2 2001/11/23)
子供の通っている音楽教室(親同伴)で、先生が「この楽器は何でしょう?」と聞いた時、後ろの席のお母さんが、その子供に、「マスカラ、マスカラ」と小声で耳打ちしていた。マラカスだよー。
(Weekly Mag2 2001/11/23)
先日、母とATMに行ったときのこと。母は、画面の横に置いてある「電卓」に暗証番号を打ち込んでいた。(Weekly Mag2 2001/11/26)
バイトの新人の女の子が、隣りのレジで、客相手に初めてのレジに挑戦していた。が、彼女は、緊張の余り「ひとまず○○円のお返しです」という、お釣りの返し方を度忘れしてしまったらしく、「ひ……密かに2000円のお返しですっ」と言っていた。堂々と返せっ!
(Weekly Mag2 2001/11/26)
中年の会社員が奥さんを連れてパリにやって来た。奥さんが買い物をしている間、彼はバーに入りセクシーなパリ娘を拾った。値段の交渉に入るまでは彼らはうまくやっていたが、彼女が500ドルを要求したのに対して、彼は200ドルを提示した。値段が折り合わず彼女は彼にバイバイと言って去って行った。次の日の夕刻、彼は奥方を連れて、シャンゼリーゼ大通りに面したレストランに入った。彼は昨日の女性がドアの近くのテーブルに座っているのを見た。彼等がその傍を通り抜けようとした時、彼女が言った。「ねぇ、わかったでしょ。あんたのけちな200ドルで買えるのはそんなものだってことが」
先日、兄夫婦と甥っ子が我が家に遊びにきた。イタズラ好きの甥っ子が、机の上に置いてある朱肉に触ろうとしていたので、私はそれを止めようと瞬時に「それに触るとドラえもんになるよ」と言った。脅して触らせるまいとしたのに、それを聞いた甥っ子は喜んで朱肉を触り、私は兄夫婦と両親にダブルで叱られた。
(Weekly Mag2 2001/11/28)
観光港を犬と散歩してた時のこと。釣りしてる子供が「じいちゃん!この船、中国から来たんで! ちょう・あんぽ・しゃんはいっチ書いちょん」。「ほ〜、よう読めたの〜!」とじいちゃん。そしたら、あまり釣れてない隣のオジサンがムッとして一言「海上保安庁!」と怒っていた。(Weekly Mag2 2001/11/28)
前回のmag2に「宇留寅男」をウルトラマンと読ませる先生のお話がありましたが、私の会社の先輩は「波浪鬼茶」とロッカーにテプラ貼っていた。「ハローキティ」と読むのらしい。好きなのね、キティ…。
(Weekly Mag2 2001/11/28)
私がバイトしていた某大手スーパーではトイレのことをピンクといいます。ある日同僚が言いました。「でっかいピンクしてくるわ〜」。それってもしかして○○○のこと!?
(Weekly Mag2 2001/11/28)
家族そろって夕食をしていた時のこと。聞いていたCDが終わったので、妹が父に「お父さん、再生」と言った。父はしばらく沈黙の後「そうだよ。お父さんは人間の中でも最低の部類だよ・・・」と落ち込んだ。
(Weekly Mag2 2001/11/30)
先日のしし座流星群を見ながら、ロマンチックに、「こんなにすごい流星群って、次は33年後らしいよ。33年後って、世の中どんなに変わってるのかな〜」と言ったら「ちょうど、マンションのローンが終わる頃ね」と、超現実的なセリフで返されてしまった。涙で、流星が曇って見えた。
(Weekly Mag2 2001/11/30)
先日、電車で居眠りしてたところ、ボールが飛んでくる夢をみていて思わずよけたら隣の人に頭突きをしてしまった。恥ずかしかったので、頭を下げてまた寝ているふりをしました。
(Weekly Mag2 2001/11/30)
「赤道の上を飛行機で通過するときに、赤道の赤い線が見えると思っていた」という笑い話を友人にしたところ、「見える訳ないよね、だって海底にあるんだから」と言われた。少し偉そうだった。
(Weekly Mag2 2001/11/30)
息子と3歳児の予防接種の注射に行ったときのこと。他の子供達がギャーギャー泣いているのに、うちの息子はけろっとしていて、先生が注射針を腕に刺そうとすると、ひとこと「あぶないよ」といった。先生は「医者を40年やってるが、幼児に注意されたのは初めてじゃ」と言っていた。(Weekly Mag2 2001/12/03)
ある日の姉と弟の会話。
姉「ケイン・コスギってお兄さんがいるんだって」
弟「知ってる知ってる ケイン・オスギでしょ?」
おすぎと兄弟(姉妹?)なのは、ピーコです。
(Weekly Mag2 2001/12/05)
テレビのニュ−スを見ていたときのこと。出演者が「女性の皇位継承は問題がありますかね」と言ったところ、隣の部屋で母が「そんなこと今さら言わなくてもイイじゃないね〜」。「女性の濃い化粧」と聞き間違えたらしい。(Weekly Mag2 2001/12/07)
工事現場のフェンスに小さな看板があった。気になったので近づいて読んでみると「ここに近づいてはいけません!」と書いてあった。
(Weekly Mag2 2001/12/07)
「工事中何かと御迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」という謙虚な言葉と共に頭をペコリと下げた看板があった。そのすぐ後ろに「左に寄れ」という命令口調の看板を見たとき、その変わり身の早さに感心してしまいました。
(Weekly Mag2 2001/12/10)
友人が勤める役所で、失業中者向けセミナーのチラシを作成したとき、下書きの段階ではタイトルが“失望者の皆さんへ”となっていた。
(Weekly Mag2 2001/12/10)
この前、友達のおばさんに塾に車で送ってもらった時、おばさんは友達に、「帰りは90%お父さん、1%はお母さんが迎えに来るから!」と言い、帰っていきました。残り9%はだれが迎えに来るのでしょうか。
(Weekly Mag2 2001/12/10)
先日50歳位の主婦が、「ねえねえメイドアドレスってなに?」と質問してきたので、思わず「メイドアドレスっていうのは冥土に行った人とメール交換ができる特別なアドレスだよ」と教えてあげた。着メロは、お経だったりして。ほんとだったらこわいよ〜。
(Weekly Mag2 2001/12/10)
英語が得意なうちの上司。パソコンにも興味はあるものの、あえて触ろうとしない。先日、そんな彼が電話で、得意先にメールアドレスを伝えていた。@を「アットホーム」と言ったとき、ちょっと暖かいものを感じた。
(Weekly Mag2 2001/12/10)
友達の母親はハワイ旅行に行った際サンセット・クルージングを楽しんだ。その時「サンセットっちゃ、食事とクルージングとあと一つはなんね?」と聞いていたそうだ。
(Weekly Mag2 2001/12/17)
英会話教室に通う友人は、担当の外国人教師といまひとつウマが合わない。昨日も「今日はむかついたから、口聞かないで帰ってきた!」とちょっと自慢げ…。金払って英会話身につけにいってるんじゃないのか?
(Weekly Mag2 2001/12/17)
郵便局での会話。
客 「これ、速達でお願いします。明日には届きますよね」
局員「ああ、○○町ですか。それなら、速達にしなくても、下手したら明日届きますよ」
普通郵便が早く届くと、速達にされなくて困るという本音がつい「下手したら」に出てしまったのか? 郵便局の人も民営化の話で頭が混乱しているのだろうと思わず目頭が熱くなった。
(Weekly Mag2 2001/12/17)
ボーナスが出たので服を買いに行った。気に入ったものがあり、どうしても欲しくなった。我慢できない…欲望の渦の飲みこまれていく。試着してみよう! ん?試着室はどこかな? あっ店員のお姉さんに聞いてみよ。「あの〜、試食したいんですけど…」「えっ!私をですか?」2着買ってすぐに店を出た。
(Weekly Mag2 2001/12/17)
「私の夢は若いおねえちゃんと、ヴィンテージ物のワインを飲むこと。なのに現実はヴィンテージものの妻と、若いワインを飲んでいる・・・」隣に座るわたしの上司が、ある日突然ため息混じりにポツリといった。
(Weekly Mag2 2001/12/17)
先日定例会の通知を貰い開けてみると12月127日木曜日13時30分〜と書かれていました。いつ行けばよいのでしょ。
(Weekly Mag2 2001/12/17)
夜、家に帰ると、2歳の息子がベビーシッター(20歳の女の子)の上で何と彼女のシャツのボタンをはずそうとしていた。「だめ」といわれると「うえーん」と泣き、ちょっと経つとまたにこにこしながらボタンをはずしていた。結構うらやましかった。
(Weekly Mag2 2001/12/17)
毎月末、学生の妹が母に教材費などを請求するのですが、今月のその明細、「本:2500円、医療費:3500円、定規:16750円(その他交通費含む)」と書かれてあり、「なんでジョウギが1万もすんねん、ええかげん定期と書きなさい」とぼやかれてました。
(Weekly Mag2 2002/1/8)
お正月を田舎で過ごすため兄の家族が帰ってきて、夜、姪が「一緒に入る」と言うので、一緒にお風呂に入ったときのこと。姪が顔を洗って、次に私が化粧を落とすべく、クレンジングを手に取ると、言った。
姪:「お姉ちゃんは石鹸が違うの?}
私:「そうだよ、お化粧してた人は違うの。」
姪:「どうしてお化粧するの?」
私;「う〜んそうだな〜。う〜ん」
姪;「ブスだから?」
…何もいえなかった…。
(Weekly Mag2 2001/1/8)
祖母に「職場の空気(雰囲気)はどうなの?」と聞かれて思わず「乾燥してる」と答えてしまったのは日々静電気と戦うこの私。
(Weekly Mag2 2001/1/8)
塾講師のA君を悩ませた人称代名詞の授業。
A君「私(I)は一人称、あなた(you)は二人称、ではB子さん、彼(he)は何人?」すると、B子さん顔を真っ赤にして小声で答えた。「私(彼は)いません…」
(Weekly Mag2 2001/1/8)
大学生のとき、サークル内で会員の自己紹介冊子を作った。内容はありふれたアンケートもので「出身地」「血液型」「ニックネーム」などいくつかの項目がありものだった。その中の「好きな食べ物」という項目に僕は「腹が減ってりゃなんでも美味い」と書いた。その後、冊子が出来上がると、なぜかみんなの視線(特に女性)が冷たい。よく見ると僕が回答したのはその一つ下の「好きな異性のタイプ」欄だった。
(Weekly Mag2 2001/1/8)
私が以前働いていたお菓子屋さんの先輩の話。お客さんが品物を1つだけ買ったので、先輩は「袋に入れますか?」と聞くのを丁寧に言おうとして「お袋に入れますか?」と聞いていた。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
枚方市にあるデパートのトイレ(大)には「洋風」というプレートが貼ってあります。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
先日、地下鉄に乗っている時、私の前のおばあさんがコックリコックリしていた。その拍子に、頭に付けていたネットが、隣に座って居眠りをしていたサラリーマンの股間に落ちた。ある駅でのアナウンスに驚いて起きたそのサラリーマンは、股間に目をやると驚いて左右を見渡し、大急ぎでファスナーを開けて、そのネットをズボンの中に押し込んでいた…。なぜ…?
(Weekly Mag2 2001/1/14)
孫(6歳)が英語教室の教材を持って遊びにきた。「おばあちゃんだって少しは英単語がわかるのよ」と牽制したところ、「じゃあこれはなんていうの?」といって豚の絵を差した。私は自信を持って「トン」と叫んだ。それ以来、彼は私の前で英語教室の話をしない。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
男友達と買い物に出かけた、デパート駐車場での事。満車の掲示ランプを見て私が一言「いゃあ〜休日はどこも満室やね」。友達「………」。普段の行いがばれて、とても気まずい思いをしました。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
地下鉄に乗っていた時、20歳前後の女性が2人でつり広告を見て会話していました。「ヘッドハンティングって何だっけ?何か聞いたことあるよねー」「あれじゃない?こうやって踊るやつ」と言いながら頭を上下に振り始めました。見た目は普通の人だったんですけど。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
ある日、送られてきたDMを見て彼女がひとこと、「この手紙なんか変…。『ぬねー』ってワケワカランこと書いてあるよ?」。何言ってんだろう?と思い、そのDMを見てみたら、そこには漢字とカタカナで「又ネー(またねー)」と書いてありました。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
ある日、小学4年の妹が、父親にかかってきたセールスの電話を受けた。父は留守だと伝えると、電話の相手は「お嬢さまでいらっしゃいますか?」と聞いてきたらしい。すると妹はとっさに「い、いいえ、お嬢さまじゃありません。普通の子です!」と答えていた。我が家は中流階級のうちでも、どちらかというと貧乏なほうだと思った。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
先日、スーパーの前で、柴犬を連れたおじさんが、たくさん入った買い物袋を地面に置いたまま、連れが出てくるのを超ぼけーっと待っていました。やはり私は教えてあげればよかったと思います、柴犬が買い物袋を狙って片足を挙げていたのを。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
通勤電車の窓から見えたお店の看板、「書画・日本画・ヨガ」。シャレなのか、本当にヨガを教えてくれるのか、ナゾです。(Weekly Mag2 2001/1/14)
仕事で、日本語がまあまあ話せる外国人のオフィスに行った時のこと。彼らのマナーは上出来だったが、部屋に案内されて、「どうぞ、おすわり」と言われた。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
パチンコ屋のネオンの「パ」の字が切れて、違う単語に読めてしまうのはよくある話ですが、そのパチンコ屋が「ジャンボ」とか「チャンピオン」という名前だと、一瞬ビビる。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
子供の頃、水洗トイレの「大」と「小」は別々のところへ流れていくのだと思っていた私は、ある日レストランで「大」を流す時に「小」のレバーを引いてしまいました。これはバレたら大変な事になると思い、家族が楽しく食事している中、ご飯も喉に通らない状態になりました。
(Weekly Mag2 2001/1/14)
1月1日零時からユーロ切り替えが始まりました。大晦日の夜、ブリュッセルでは盛大にユーロ流通開始を祝う式典が行われ、シラク大統領の年頭の国民向け挨拶(さすがにどのテレヴィ局も、この時ばかりは同じ映像でした)でもユーロ流通が域内の経済的・文化的発展に大きく寄与すると強調していました。大晦日の夜、娘の家からの帰り道、銀行のATMの前は長蛇の列。ユーロのお札を引き出すたびに、大歓声。思わず微笑んでしまいました。実際にユーロを使ったのは2日からでしたが、今まで、スーパー店頭、銀行口座明細、各種請求書でのユーロとの併記など(ちなみに税金は、銀行自動振替でしたが、早々にユーロで支払わされました)で随分と慣らされてはいましたが、フランも2月17日迄は通用するため、いざ実際にユーロを現金で支払うとなると現場はかなり混乱しています。今は二つの通貨が混在するため、支払うにしても、お釣りを貰うにしても、いちいち確認しなければならず、現金のやり取りに時間が掛かります。今は何処の店頭でも、列待ちを覚悟しなければなりません。この時期に行われるバーゲン(ソルド)の混乱は想像に余りあります。
思い返せば、小生がブリュッセルに駐在していた時代(1970年代後半)に既に、エキューという名前で共通通貨の概念が芽生えていました。あれから20数年、1991年のマーツリヒト条約合意から10年たった今、やっとユーロが産声をあげました。そもそもの始めから間接的とは言え、共通通貨に触れていた小生にとって感慨深い物があります。3億人を越す、且つアメリカに次ぐGDPを持つ単一通貨による市場が誕生するわけです。前途は洋々とした物がありますが、本番はこれからです。一つの巨大市場が熟成するまでには、相当な時間が掛かると思われます。それがいつになるかは予測できません。それなりのシナリオは描く事が出来ます。それを今一度整理してみたいと思います。
これから淘汰が始まってくると予想されます。早くも、フォルクスワーゲンが圏内同一価格を打ち出しましたが、ユーロでの価値判断が浸透するにつれ、自然に圏内の物価の違いが鮮明になってきて、価格は安い方に収斂してくるでしょう。グロバリゼーションの動きは予想以上に加速され、弱者は市場から駆逐されざるを得ないでしょう。ユーロによって構造改革が自然と行われるわけです。ユーロのご祝儀相場だった市場も、早くもここ数日選別が始まってきました。一時的には失業率も企業破綻も増加するでしょうが、将来的には、圏内外の安定的投資の拡大、圏内の賃金は均一化、圏内の物流も増加し、繁栄を享受できる時代がやってくると思います。物流の増加で、文化交流も盛んになり、欧州人と言う概念が出来あがるかもしれませんね(しかし各国の文化・伝統は固く守って行くでしょうね)。これは非常に楽観的なシナリオですが、最悪のシナリオもあることも事実です。通貨を統一したと言う事は単に同じ通貨を使用するにとどまらず、金融政策の放棄でもあるわけです。金利・通貨の供給量も全て欧州中央銀行(ECB)が決めるのですから、柔軟且つ迅速な対応が出来なくなる怖れも有ります。ECBが舵取りを間違えれば、破綻する国もでてくるかもしれません。それが連鎖反応を起こし圏内の景気が落ち込む危険性も含んでいます。早くもイタリアが、出遅れてきたともささやかれています。パズルの完成は英国がユーロに参加するかどうかでしょうね。今でも国民の半数近くがユーロに反対している上、好調な景気を誇る英国のユーロへの参加は未知数です。色々上げ出すときりがありませんので、とにかく発足したユーロの成長を期待したいと思います。
余談ですが、これから圏内の旅行は楽になります。皆さんも圏内を旅行される時は、その恩恵を受けられますね。域内の免税が廃止された時、多くの失業者が出ましたが、零細両替屋はどうなるのでしょうかね。