「次の戦争を起こさない責任」

また8月15日がやってきました。半ばリタイアーを決め込んで、このブログへの書き込みを久しくサボっていた僕も、やはり大日本帝国が無条件降伏した記念日である8月15日に際しては、どうしても一言、書き込まざるを得ません。

以下は「三毛猫ホームズ」シリーズなど、たくさんの作品を世に出してきた、作家の赤川次郎さんが、8月14日の朝日新聞・書評欄に書かれたことの抜粋です。今年のこの時期に目にした文章の中で、僕がもっとも共感できたものですので、ご紹介させていただきます。タイトルはその小論の題名でした。ちなみに、赤川次郎さんは、1948年(昭和23年)生まれだそうですので、僕と同世代です。

<引用開始>

「もういい加減、戦争責任の話はやめてほしい」と、うんざりした顔をする人は少なくない。確かに今青春を迎えている人々にとって、遠い戦争の「責任」と言われても戸惑うばかりだろう。しかし私達は常に「次の戦争を起こさない責任」を負っているのだ。

そのためには、かつて戦争がどのようにして起こり、人々はなぜそれを止められなかったのか、学ばなければならない。

日中戦争から太平洋戦争へ、様々な大国の利害が絡み合う中、日本がどのように戦争への道をたどったのか、加藤陽子氏が中高生に講義した記録である「それでも日本人は戦争を選んだ」は、歴史家としての冷静な視点の貫かれた本である。いま、中高生がこの本を読んで理解するのは容易でないと思うが、戦争とはそれほど複雑な顔を持っているということでもある。

残念なことに、第二次世界大戦にかかわった国の中で、日本は今も侵略や虐殺の事実を認めようとしない人々が国の中枢部に多くいる「特殊な国」である。その特殊さはこの本に挙げられた、捕虜に扱いに見られる。

ドイツ軍の捕虜になった米兵の死亡率が1.2%なのに、日本軍の捕虜になった米兵では37.3%にのぼる。自国の兵士をも使い捨てた国は、敵国の兵士を人間扱いしなかった。

その象徴的な事件が「九大医学部生体解剖事件」である。捕虜の米兵を生きたまま解剖した(当然、兵士は死んだ)この事件は戦争が医師をも狂わせた出来事として知られる。

しかし、罪は戦争にあったと本当に言えるだろうか、と私は疑問に思う。あの東日本大震災での福島原発事故。放射能被害に対し、「心配ない」「大したことはない」と言い続け、被爆した子供たちへの影響まで平然と否定する医師を見ていると、戦時下でなくても、医の倫理が失われることはあると思わないわけにはいかない。

反戦も反原発も、人間への愛に根ざしたものでなければ、国家という大きな力に勝てない。ロマン・ロランの「ピエールとリュース」は第一次大戦下で、一組の恋人たちが戦火に押し潰されていく悲劇の中に、戦争の非人間性への真実の怒りがある。愛する人を死なせたくない。その思いは文学や芸術の中からこそ生まれる。

非戦の決意の土台を、若い日々に固めておくことが大切なのである。

<引用修了>

私達は間違いなく、誰もが「次の戦争を起こさない責任」を負っています。そのことに関しては、そんなことを意識したことがあるか否かにかかわらず、いざ正面切って問われたら、異論がある方はいないと思います。そしてまた、このことを意識するか否かで、ずいぶんと思考や行動が変わってきます。

ちなみに、日本の医学界の一部には有機水銀の垂れ流しが原因で起きた、あの悲惨な水俣病事件の当初、垂れ流しの主犯、チッソ株式会社と政府側に立って有機水銀原因説を否定し、原因不明を主張して対応を著しく遅らせた責任もあります。

水俣病の発生に地元住民が最初に気づいたのは、1953年(昭和28年)頃のことでした。以来、住民の必死の訴えを無視し続けた政府が、その地域の奇病を、同工場のメチル水銀による公害と認定したのは、それから15年も経った1968年(昭和43年)のことでした。

その間には、1959年(昭和34年)に熊本大学医学部が原因を工場排水のメチル水銀と断定し、多くの人々が受難の極みにある苦しみを訴え続けたにもかかわらず、それからですら9年間も放置してしまったわけです。戦時下の非人間性は、戦時下でない時でもいつでも現出する体質的なものではないのか、とすら疑ってしまいます。

僕にとっては、8月15日は決して忘れてはいけない日です。時の権力者がなんと言おうと、僕は自分自身の信条をあらためて確認する日にしています。

PAGE TOP