宋靄齢・宋慶齢・宋美齢

齋藤 恵  No.3246 記録日 2007/04/14(土) カテゴリー 歴史 URL URL

宋靄齢・宋慶齢・宋美齢


タイトルの3つの名前は人名です。日本語的に読みますと、「そう あいれい」、「そう けいれい」、「そう びれい」と読みます。宋(そう)がファミリー名で、そのうしろの2文字が名前です。いずれも中国の女性の名前です。

と、ここまで書きますと、近現代史に少しでも関心をお持ちの方にはおわかりになることと思います。20世紀中国の歴史に名を残した、「宋3姉妹」です。ちなみに最初の「靄齢(あいれい)」が長女で、以下、次女、3女と続きます。

娘が3人居て、そのうちの1人が歴史の波の中で、偶然にも後世に名を残すようになったというなら、まあざらにはないとしても理解も想像もできます。ところが3人が3人とも、激動期の中国の歴史の中で、堂々たる位置を占め、しかもその位置が並々ならないというのですから、極めて稀な存在だと言ってよいと思います。

実は先日、「宋家の3姉妹」という香港映画を見る機会がありました。この3人の人生を描いたものです。

まず3人が生きた時期を整理しておきましょう。生まれは3人とも中国(上海)ですが、亡くなった場所は違います。その場所も付記しておきます。

1) 宋 靄齢(そう あいれい)  1889年(明治22年)〜1973年(昭和48年)米国で没。84歳。

2) 宋 慶齢(そう けいれい)  1893年(明治26年)〜1981年(昭和56年)中国・上海で没。88歳。

3) 宋 美齢(そう びれい)   1897年(明治30年、ただし異説あり)〜2003年(つい4年ほど前。ということは100歳を越えていたわけです! 3姉妹の中で最長寿) 米国・ニューヨークで没。

まず特徴的なのは、3人の結婚相手です。これがすごいのです。

1)宋 藹齢  アメリカ留学後、孫文の秘書を経て、その職を次女・慶齢にバトンタッチし、彼女自身は、孔子の末裔を名乗る財閥の御曹司、孔祥煕(こう しょうき)と結婚。孔祥煕はのちに国民党南京政府の財政部長(大蔵大臣)に就任。

2)宋 慶齢  姉のあとを継いで孫文の秘書となり、その後結婚して孫文の妻になった。国共合作などに尽力し、戦後は中華人民共和国国家副主席、名誉国家主席。

3)宋 美齢  蒋介石と結婚。マダム蒋介石(Madame Chiang Kai-shek)として世界中に名を馳せた。

つまり、長女と3女は、孫文亡き後は蒋介石の側について、国民党右派を形成し、次女だけは孫文の革命精神を引き継いで、国民党左派から抗日統一戦線結成へ、さらに中華人民共和国成立に力を貸したわけですから、陣営としてはまっぷたつに割れたのです。歴史の激動の波に巻き込まれたとはいえ同じ家族としては酷なことでした。

それではもう少し詳しく、3人の人生を追ってみます。これは主にネット上の百科事典で調べてみました。まず3人の父親から始めます。

宋耀如(宋嘉樹、チャーリー宋)は、客家(ハッカ)出身。客家とは、もともとは中国の北方出身の民族なのですが、流れ流れて南部の広東省あたりまで流浪し、さらに華僑として東南アジア各地にまで進出した人々で、華僑の中でも一大勢力をなしている民族です。シンガポールの元首相、リー・クワン・ユー氏や、故、ケ小平氏などもその血筋です。そう言えば孫文も客家出身です。

宋氏はアメリカで苦学しながらバンダービルト大学の神学部を出て牧師となり、その後、帰国して会社経営を始め、聖書の印刷・出版で財を築きました。その財力を使って、3男3女を全員、アメリカに留学させました。

長女・靄齢は、アメリカ留学から帰国後、父の友人でもあった孫文の秘書を務めたのち、結婚のためその職を次女・慶齢にバトンタッチし、自身は、孔子の末裔を名乗る(孔子の75代目の子孫なのだそうです!)財閥の御曹司、孔祥煕(こう しょうき)と、横浜で結婚しました。孔祥煕はのちに国民党南京政府の財政部長(大蔵大臣)に就任したのですが、夫は彼女の助言で中国初の本格的な銀行経営を始めました。そのことがまた、彼を国民党の財政面を担う重鎮に仕立て上げていったのです。

藹齢自身は、政治的な活動からは身を引くタイプで、下の2人よりは「非政治的」であったと言えそうです。次女・慶齢が「祖国を愛し」、3女・美齢が「権力を愛した」のに比べて、長女・藹齢は「お金を愛した」とか評されることがあるようですが、それほど単純なものでもないと思います。なお、3女の美齢と蒋介石の間を取り持ったのは、藹齢だったとのことです。この人物なら、自分達を守ってくれるだけの強さを持っていると判断したのでしょう、長女として。

孫文は晩年になって、革命のためには軍隊が必要であるとして、士官学校を設立し(黄浦軍官学校)、その校長に蒋介石を任命しました。そしてその時の資金は藹齢の夫、孔祥熙が提供したのです。宋家、孔家、蒋家は、こんな関係であったのです。

次女・慶齢ですが、孫文とは父が支援者であったことから知り合い、結婚前には姉の後任として、孫文の秘書を務めていました。孫文は1911年の辛亥革命で清朝を打倒したものの、1913年、袁世凱打倒を狙った「2次革命」に失敗し、袁世凱の追手を逃れて日本に亡命しました。亡命中の孫文は、東京で革命勢力を集めて「中華革命党」を結成し、再び革命を起こすための準備をしていたのです。

その一方、米国での留学を終えた宋慶齢は、秘書としての仕事をしていく中で、彼の人格と革命精神を敬慕するようになりました。1915年3月、孫文は長年別居していた夫人と正式に離婚し、その後、宋慶齢に結婚を申し込み、彼女の快諾を得て結婚しました。1915年10月25日、孫文と宋慶齢は東京の弁護士宅で婚礼を行いました。ときに孫文49歳、宋慶齢は22歳でした。親子ほどの年齢差があったのです。

1925年(大正14年)、「革命尚未成功、同志仍須努力」の遺書を遺して孫文が病死した後も、その遺志を継いで革命活動に従事、翌1926年には中国国民党執行委員に就任しています。

慶齢は一貫して孫文の意志を継いで、国民党左派として容共的立場をとり、警察、軍隊を掌握していた蒋介石が、次第に共産党員を猛烈に取り締まっていった状況を徹底して批判しました。両者の溝は深まり、彼女はついに国民党を離脱しました。

こうした国共内戦のゴタゴタを大いに利用した日本が本格的な日中戦争を仕掛けてきましたが、蒋介石は抗日よりも国内の敵を制圧することを最優先して、国内はますます混乱しました。

前述しました、「宋家の3姉妹」という香港の映画の中に、蒋介石の言葉としてこんなセリフがありました。

慶齢が蒋介石に国共内戦を止めて、まず侵略者日本に対して力を合わせて戦うべきだと迫った時、蒋介石はこう言ったのです。

「明がなぜ滅びたのか。それは和冦との戦いに気を取られているうちに、満州族である清朝に国を乗っ取られたのだ。中国の国土は広い。日本が侵略できる地域は限られている。この国土の広さが我々に幸いする。だから、まずは日本と戦うよりは、国内の敵を倒すのが先だ。」

映画のセリフですから、事実か否かは不明ですが、国民党の軍隊を侵略者・日本にではなく、身内である左派にだけ向けていた彼の内心には、明と和冦のこともあったのかもしれないなあ、とあらためて思いました。

1937年(昭和12年)第2次国共合作が実現した後、宋家の3姉妹は抗日統一戦線のシンボルとして戦地の慰問等の活動を行いました。もっともこれは政治的パフォーマンスであったとのことですが。

中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席などを歴任。婦人運動や子女の保護、教育の分野で尽力しました。慶齢は中国革命の指導者である孫文夫人であり、国母として統一戦線の象徴的存在になったのです。

その後、あの狂気の文化大革命では、蒋介石の義姉として攻撃を受けることになりましたが、文革終結後、死去の2週間前に中国共産党中央政治局から共産党員として承認され、その翌日名誉国家主席の称号を授与されたました。1983年に生涯の大半を過ごした上海で没しました。

3女の美齢は、長いアメリカ生活から帰国した後の1927年に、中国国民党総統で中華民国の指導者であった蒋介石と結婚しました。1936年の西安事件(蒋介石に有志が国共合作を迫って彼を監禁した事件)に際しては自らが西安に乗り込んで、蒋介石に抗日を訴えるなど、生涯を通じて蒋介石の政治的な決定に影響を与え続けたと言われています。映画の中では、完全に袂を分かった姉、慶齢とのつながりは絶ちながらも、慶齢の身の安全を脅かすことは絶対に許さない、誰にも指1本触れさせないと公言していました。

1942年11月から1943年5月まではアメリカに滞在して、アメリカ全土を回り、自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けました。また、アメリカ連邦議会において抗日戦への協力を求める演説を行い全米から賞賛を浴びるなど、中華民国のファーストレディとして、夫である蒋介石のスポークスマン兼ロビイスト的役割を果たしました。

特にフランクリン・D・ルーズベルト大統領とは仲が良く、アメリカの対日政策に大きな影響を与えたと言われています。

1949年、蒋介石が国共内戦に敗れた際、台湾へ共に脱出しました。その後、1975年に夫、蒋介石が死去するとアメリカに移住し、ニューヨークのマンハッタンに住まいを構えました。その後は中華民国との縁もうすれ、2003年に100歳余で没しました。

3人とも激動の時代の中で、それぞれ80年以上の人生を生き抜きました。1949年、国共内戦終結後、北京の天安門に毛沢東と並んで立っている慶齢を、美齢はニューヨーク郊外にあった長女・藹齢の家で見たと言います。(当時はTVなどはなかったでしょうから、おそらくは新聞で。)どんな気持だったのでしょうか? 

それにしても、中国国内の争いに乗じて、苛烈な侵略行為を行い、相手の弱みにつけ込んで、略奪、殺戮、暴行を際限なく行った大日本帝国の行動は恥ずべきものだとあらためて思います。そしてまた、こうした真摯な反省を「自虐史観」などと非難する動きが日本にはあるのですが、その精神は当時の暴虐を行った人々の精神とまったく同質だと思います。

歴史は謙虚に学ぶべきものです。「自虐史観」などと発言する人々の意識は到底理解できません。歴史を真摯に、そして謙虚に学ぶ時、歴史の本当の面白さが判ってきます。

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