L'Hotel (ロテル) とオスカー・ワイルド

齋藤 恵  No.3158 記録日 2006/10/12(木) カテゴリー 海外紀行 URL URL
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L'Hotel (ロテル)とオスカー・ワイルド


パリ6区に、「ホテル」という名前のホテルがあります。ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、正確に言いますと、「L'Hotel」 という、フランス語の定冠詞がついた名前ですから、英語で言うと「The Hotel」という表記になります。ホテルの中のホテルとでもいうことになるのでしょうか。

場所は、パリ中心部、セーヌ左岸の6区にあります。サン・ジェルマン・デ・プレ教会の正面前の道をセーヌ川方向に向かう細い道(Rue Bonaparte ボナパルト通り)を少し行くと、ボザール (国立高等美術学校)が左に見えてきますが、その正門前に Rue de Beaux Arts(ボザール通り)という、これまたもっと細い道が出てきます。

その道に入ってまもなく右手にあるこぢんまりとしたホテルです。決して「ホテルの中のホテル」などという雰囲気ではありません。周囲には、古本、画材、骨董品、インテリア家具などのお店が多く、エレガントなファッション街という雰囲気でもありません。僕はこのホテルに泊まったことはありませんが、かなり昔のことですが、その中のレストランに2回、食事に行ったことがありました。1回目は友人に誘われて、2回目は自前で。

食に関しては人並み以上に強い関心を持っている僕ですから、何か印象的なことがあれば、昔のことでもたいてい記憶にあるのですが、このレストランに関しては、食事の内容についてはまったく記憶にありません。きっと、とりたてて特筆すべきものがあったわけではないのだと思います。ただ古めかしい雰囲気と、にぎやかな壁紙が記憶にあります。食前酒のキール・ロワイヤルだけをなぜか覚えています。

なぜこんなホテルのことを書き始めたかと言いますと、ここはかつては、オテル・ダルザス(Hôtel d'Alsace)という名前のホテルであり、ここで、19世紀の最後の年、つまり1900年に、イギリスの作家というか、個性的な社交家であったオスカー・ワイルドが亡くなったという歴史があるからなのです。ホテル側もそれを売り物にしており、パンフレットにはそのことが明記されており、オスカーが最後の時を過ごした16号室は「オスカー・ワイルドの部屋」として、当時の品々が保存されています。

ちなみにこの部屋のルームレートは、ローシーズンで540ユーロ、ハイシーズンだと640ユーロもします。(2006年10月現在) 1ユーロ=150円で換算しますと、1泊81000円〜96000円ですから、かなり途方もない金額ですね。

ところで、このオスカー・ワイルドという人物については、たいていの方が名前くらいは聞いたことがあるという有名な作家なのですが、さてその作品はと言うと、とたんにあやしくなります。少なくとも僕の場合は・・・。

自分で考えてみても、かなりの本好きで、しかも雑食姓が強いものですから、いろいろな本を読んでいると思うのですが、この作家の作品は、名前だけは知っていても、実際に読んだことはありません。あなたはいかがですか? たとえば、

カンターヴィルの亡霊 (the Canterville Ghost 1887)

アーサー・サヴィル卿の犯罪 (Lord Arthur Savile's Crime 1887)

謎のないスフィンクス (The Sphinx Without a Secret 1887)

幸福な王子 (The Happy Prince and Other Stories 1888)

ドリアン・グレイの肖像 (The Picture of Dorian Gray 1890)

こんな小説、読んだことありますか?


さらに、

サロメ (Salome 1892)

ウィンダミア夫人の扇 (Lady Wintermere's Fan 1893)

理想の結婚 (An Ideal Husband 1895)

まじめが肝心 (The Importance of Being Ernest 1895)

こんな戯曲を読んだことはおありでしょうか?

よほどのマニアの方でないと、まず「ノー」 ですよね。ところが1世紀以上前に亡くなったこの人物は、少なくとも名前だけは、現在でもかなりの通用性を持っているように思われます。なぜなのでしょうか?

僕の知る限り、彼は人格的に高潔であったとは言いがたいですし、46歳の人生のある時期は、社交界や文壇でもてはやされたこともありましたが、晩年は有罪判決を受けて収監され、釈放後は破産や病気の中で、パリに逃れ、そのまま仮名で3年半を過ごし、亡くなってしまったという、どう見ても成功した人生を全うした人物とは言えないのに、です。

でも僕にしてからが、決してこの人物に好感を持っているわけではないのに、なぜかこのブログに書き込む記事のタイトルにしてしまうくらいですから、やはり何かを持っているのでしょうね、この人は。

そこで、このオスカー・ワイルドの人生の軌跡をちょっとたどってみました。ちなみに、彼は、ダブリン生まれのアイルランド人(アイリッシュ)でした。アイリッシュと聞いて、なにかちょっと納得するところはあります。

1854年(日本では幕末。ペリーの黒船来航の翌年でした。明治維新まであと13年)アイルランドのダブリンで、プロテスタントの家庭に生まれました。父ウィリアム・ワイルドは外科医で著述家、母親ジェイン・フランセスカ・エルジーは詩人。母親はしばしばサロンを開き、作家達を自宅に招いていたといいます。

ついでですが、アイリッシュでプロテスタントというと、アングロ・アイリッシュと言いまして、イングランドから渡って来た系統の人のはずです。元々のアイリッシュは、カトリックがほとんどですから。このあたりの構図は、北アイルランド紛争で垣間見えましたよね。

そもそも父方の祖先はオランダ人で、オラニエ公ヴィレム(英国王ウィリアム3世)に従って17世紀にイングランドへ移住し、1690年のドローエダの戦いで勲功を立ててアイルランドのコンノートに土地を賜り、名前を de Vilde から Wilde に改姓しました。ワイルド (Wilde) の原型は、オランダ名の de Vilde だったのです。そしてその後、アイルランド女性と結婚し、アイルランドに帰化した人物なのだそうです。

1871年(17歳)から74年までダブリン大学のトリニティ・カレッジで学び、とりわけ古典ギリシア語に才能を発揮しました。奨学金を得て1874年から78年までは、オックスフォードのモードリン・カレッジで学びました。専攻は古典文学で、奨学金付きの特待生。体育嫌いで、軟弱派、気障で自虐的、あてこすりや皮肉の表現に長け、良きにつけ、悪しきにつけ、キャンパスで大いに目立った存在でした。

この時期のことを後年彼は、「オクスフォードでは、私は地上の楽園のすべての樹木に生い茂る果実を食べようとした」と回顧しているくらいですから、よほど楽しい学生生活を送ったのでしょう。

1878年(明治11年)、23歳でオクスフォードを卒業すると、いったんダブリンに戻りましたが、まもなくロンドンに出ました。文芸評論から始めて、やがて流行作家になることが、その頃の彼の夢でした。

1881年には最初の詩集を出版しましたが、それはたいして評判にならなかったのですが、この風変わりな皮肉屋 兼 言葉の達人は、次第にロンドンの社交界に足場を築いていきました。スピーチ好きの国民性もあり、彼のように面白い言葉をほとばしらせる人間は、一種最高のエンタテイナーだったのです。

無尽蔵な箴言をはき出すこの言葉の達人は、ロンドン中のサロンをあちらこちらと引き回され、次第に人気を博していきました。

上の写真のうち左端と中央は、1882年にアメリカ講演旅行でニューヨークに行った時のものです。NYに船で着いた時税関で、「何か申告するものはありますか?」と聞かれ、「私の才能以外は何もありません」と答えたといいますから、何とも鼻持ちならない人物ですね。

でも、「イギリスで一番ウィットに富んだおしゃべりの達人」「大衆趣味への反逆者」「あらゆる因習と退屈さを否定するユーモアの革命児」という評判をアメリカでも得た彼は、行く先々の会場を満員にしました。彼が話す気障で鼻にかけたようなオクスフォード・イングリッシュは、アメリカの観客に半ば称賛、半ば冷やかし笑いを引き起こし、それもまた人気の一因だったのでしょう。

それにしても、上の2枚の写真を見ただけでも、仮に同時代に生きていたとしても、オスカー・ワイルド氏とは、あまりお近づきにはなりたくなかったと僕などは思ってしまいますが、あなたはいかがですか?

以後、何年かは彼にとっては華やかな時代でした。講演、雑誌への投稿、小説、戯曲、それにお得意の社交界でのおしゃべりと、時代の人気者としての地位を確立していったのです。「オスカーが来ますよ」というのは、社交界でのステータスになった招待メッセージだったと言いますから、なんともはや。

でもそれは1895年のある時期までのことでした。

右端の写真をご覧ください。これは1893年に撮影されたものですが、右側の青年はオスカーが1891年頃からつき合い始めた「美青年」でして、スコットランド貴族のクィーンズベリー侯爵の息子、アルフレッド・ダグラスです。

普通の結婚もしていた(子供も2人の男の子にめぐまれていました)オスカーですが、この美青年との交際が次第にエスカレートし、青年の父親との間に、激しい憎悪が起こり、ついにクィーンズベリー侯爵(つまり、美青年の父親)との間に、訴訟が発生しました。

そもそもは、オスカーが侯爵を誹謗中傷で告訴したことから始まりました。息子とオスカーの行状に怒った侯爵が、オスカーに「ソドムの人」というカードをクラブで送ったのです。つまり、異常な性行動をとる人物と表だって非難したわけです。

これに対して、オスカーが侮辱罪で侯爵を告訴したわけですが、その法廷において、逆にオスカー・ワイルドが男色にふけっていたことが証明され、彼の方が刑事告訴されてしまったのです。

当時、男色は刑事罰の対象であったのです。(今だって個人的には、気持が悪いと思いますが、それを国家が罰するのはよくないというのが僕の考えですが・・・)

とりわけこの時代は、ヴィクトリアン後期と言いまして、長かったヴィクトリア女王の治世の最後の頃で、現代への萌芽が様々な形で出ていたと同時に、旧体制の「タテマエ」意識も異常なくらい高くなっていた時代でした。

オスカーは、原告としても、被告としても、お得意の弁論や、文学論を駆使して法廷で闘いましたが、なにしろ事実は事実です。証拠の数々を挙げられて、ついに有罪の判決を受けました。

相手の美青年は、外国に逃亡して罪を逃れましたが、オスカーはイギリスに残りました。1895年5月25日、オスカー・ワイルドは強制労働を含む懲役2年の判決を受けました。裁判官は判決後、「こんな不愉快な裁判はしたことがない。法律がもっと重い刑を定めていないのは残念である」とまで言ったと記録されていますから、よほど法廷でのおしゃべりに詭弁を弄したのでしょう。

ともかくこれでオスカーの良き時代は終わりました。財産は競売にかけられ、劇作は演目からはずされ、本は回収され、父権は取り上げられ、要するに現世的なものすべてを失ったのです。

収監中に健康を損ねた彼は、釈放後は名前を変えて、パリに行き、そこで最後の3年半を過ごすのですが、かつての華やかさは2度と戻って来ませんでした。

でも彼のことを、なぜ人々はいまだに忘れ去らないのでしょうか?

たしかに彼が残した膨大な箴言や多くの作品は面白いのだと思います。箴言と言えば、皮肉屋の彼らしい、こんなのを1例としてご紹介させていただきます。

『「友の幸運は我が不愉快である」という人口に膾炙した言葉が話題になると、ワイルドはたとえ話をしてみせた。あるとき、悪魔の手下どもが聖人を怒らせようとした。しかしいくら頑張っても聖人は泰然自若としている。通りかかった悪魔は手下の失敗を見て、ひとつ教訓を与えようとした。「どうも未熟だなあ。わしがちょっと手本を見せてやる」悪魔はこの隠者に近づくとささやいた。「お兄さんがアレクサンドリアの司教になりましたよ」たちまち賢者の顔は嫉妬と怒りでゆがんだ。「こういうふうにやるんだよ」と悪魔は手下どもに教えたというのである。』

オスカー・ワイルドの生き方、それは耽美主義と言ってよい生き方だったのだと思います。耽美主義とは、美をなによりも優先させる生き方のことで、観念的美の世界と悪魔的な官能美への惑溺を意味すると辞書にありますが、まさにその生き方に徹した人生でした。

人々は、自分には決してできないし、また絶対したくもない生き方を堂々とやってのけたこの人物に、呆れ果てると同時に、その思い切りの良さというか、蛮勇にひそかなあこがれを持ったのかもしれません。

避けようとすれば避けられた破滅でした。侯爵にしても、息子を「ソドムの世界」に引きずり込んだオスカーを憎悪したにしても、何よりも家名を守りたい貴族として、コトを公にするつもりなどなかったはずです。それをオスカーの側から告訴して来たので、やむなく受けて立ち、その過程でオスカーの破滅が始まったわけです。

さらにまた、国外逃亡という手段を友人達から勧められた際も、それを断っているのです。獄中からオスカーが美青年に宛てて書いた手紙の中にこんな一文があるのだそうです。

「僕はこれまで楽しいことのかぎりを尽くしてきた。芳醇な葡萄酒に真珠を投げ込むような贅沢もした。快楽の甘い蜜も吸いたい放題吸った。だがこんな人生をそのまま続ければ間違いが起こったにちがいない。どこかで歯止めがかかったろう。しかし、それでも僕は進み続けなければならなかったのだ。楽園の裏側は僕にとっては秘密だらけだったから・・・。いつも高い所にばかり居るのはうんざりだった。だから僕は新しい刺激を求めて、わざわざ地獄の底に落ちていったんだ。」

後年、彼の行動を評して「彼は両手を空に向かって差し伸べ、稲妻を引きずり寄せたのだ」と言った人物が居たと聞きましたが、まさに言い得て妙だと思います。

オスカー・フィンガル・オフレアティ・ウィルズ・ワイルド(Oscar Fingal O'Flaherty Wills Wilde) は、パリ6区、ボザール通りの小さなホテルの1室で、19世紀が20世紀に切り替わる寸前、1900年11月30日(あと1ヶ月で20世紀でした)46歳の生涯を閉じました。耳の病気がもとで起きた脳髄膜炎が直接の死因だったとのことですが、本人の美学からしても幕の下ろし時だったのだと思います。

それにしてもすさまじい人生があるものです。最後に蛇足ながら、一言。アメリカ映画界で毎年大騒ぎをしている「アカデミー賞」受賞者がもらう男性の立像は「オスカー」と呼ばれていますが、あれはもちろんオスカー・ワイルドとは全く関係ありません。本当に蛇足でした。すみません。

Re:1   日吉   2006年10月14日(土)22:21
いつも恵マスターの書き込みには教えられることがいっぱいで、あまり文化的ではない私の生活もゆとりのある豊かさに潤っていくような感じがしています。それにはひそかに感謝しております。

でも、今回のオスカー・ワイルドに関する恵マスターの見解には、「異議あり」と言わざるを得ません。といっても、私はオスカー・ワイルドの作品に精通しているのでも彼の生き方に賛同しているのでもありません。彼の書いたものは1つも読んだこともなく、ワイルドの作品にも生き方にも無関心でした。そういう私ですが、ワイルドの評価は彼が生きたヴィクトリア朝後期の中に位置づけて考えなければいけないと思いますし、そこから考えるとどうしても恵マスターのワイルド評には賛成できないのです。

まず、よほどのマニアでないとワイルドの作品は読まないだろうというのは、正しくありません。少なくとも英語圏の世界では。ヴィクトリア朝時代の小説や戯曲を読む人は、ワイルドの作品は絶対に避けて通ることはないでしょう。

英語では小説(novel)といえば、大人向けの長編フィクションを指します(短編小説はnovellaと言って区別しています)が、ワイルドが書いた小説は『ドリアン・グレイの肖像』だけで、有名なのは戯曲の方で、現在でもロンドンで上演されているものが少なくありません。
特に、『まじめが肝心』(The Importance of Being Earnest)はいまでも大人気で、4年ほど前には映画にもなりました。15年ぐらい前にはテレビドラマ化されています。その両方を私は見ましたが、とにかく大変にヴィクトリア朝社会に対する風刺が利いていておもしろい。題名にあるEarnestは、「まじめ」と訳されていますが、コツコツやるまじめではなくて、誠心誠意籠めて全身で突進するような「まじめさ」をいいます。それを男性名のErnestにひっかけて(発音は同じですから)、ひねったプロットにEarnestとErnestを設置して茶化している風刺劇なのです。(きっとDVDで出ているでしょうから、是非ご覧になってみてください。)

この風刺劇からは、オスカー・ワイルドはヴィクトリア朝のイギリス社会にどっぷり浸かっているようでいて、実はそこには収まりきらものを持っていて、それとの葛藤を風刺で噴出させているのが伺えます。それは戯曲だけでなく、彼の講演や、奇抜な風貌で社交界を賑わすことでも表現したのではないでしょうか。自分の中に秘めた真の自分を現すことを許さないヴィクトリア朝期のしがらみを、ワイルドは自分が身に付けながらあざ笑っているように思われます。何の疑いもなくヴィクトリア朝社会の中から視点をはずさなかったのはギルバート&サリバンで、彼らと比べるとオスカー・ワイルドの方がずっといとおしいーー私はそう感じてしまうのです。私の贔屓目かもしれませんが、10年ほど前「ワイルド」(Wilde)という彼の人生を描写した映画が生まれたのも、私と同じように感じる人は少なくないことの表れではないかと思います。

ヴィクトリア朝といえば、大英帝国がぐんぐんと力を増していって冨の蓄積が進み、芸術至上主義や審美主義がもてはやされた時期です。ところがそれは人間性の解放にはつながりませんでした。ヴィクトリア朝道徳観といえば、セクシュアリティ抑制と同義語のように思われているほど,自然の人間性を縛り付ける社会規範が強かったのです。そういう社会の中で、同性愛あるいはバイセクシュアルの傾向を秘めていた人たちは、どんなに窒息するような思いで生きていたことでしょう。オスカー・ワイルドはそれを断ち切りたかったに違いありません。だから、同性愛の罪で裁判にかけられることになったとき、彼は国外逃亡を勧める友人の勧告を退けて、裁判で自分の人間性解放を訴えたかったのではないかと私は想像するのです。それがオスカー・ワイルドが最初の近代人間(the First Modern Man)と呼ばれる所以ではないでしょうか。

恵マスターはワイルドを「人格的には高潔であったとは言いがたい」とおっしゃいますが、私はそうは思いません。2人の息子たちにはいい父親であり、強い責任感を持っていたし、妻に対しても常に優しかったといいます。

恵マスターが強く否定的なワイルド観を持たれる根底には、同性愛、特に「男色」と言われるゲイの人たちに対して、「異常」あるいは「不自然」という偏見があるのではないかという気がします。それは日本社会のゲイに対する見方の反映ではないでしょうか。たとえば、「男色」は「今だって個人的には、気持が悪いと思います」とおっしゃるのは、私が魚のお刺身は大好きだけれど、馬刺やタルタルステーキはどうも気持が悪いと思うのと、似ていません? つまり、同性愛をどう感じるかは、知らず知らずのうちに呑み込んでいる社会の価値観に左右されているのだと思います。

私がゲイに対して(またレズビアンにも)それほど抵抗を感じないでいられるのは、きっとゲイに対してオープンなカリフォルニアに住んでいるからでしょう。ゲイやレズビアンの友人もいます。彼らはごく普通の生活を営み、ストレートの人たち(つまり異性愛者)と同じように、愛を求め、家族を欲していますよ。

ゲイやレズビアンの結婚を法的に認めるかどうか、アメリカでは現在政治闘争になっていて、保守派や右翼は、同性愛は自然や聖書の教えに反するとかと言って必死になって、同性愛を倫理的に罪として位置づけようとしています。でも、動物学者によると、自然の状況、つまり動物の世界では、同性愛行為が1割ぐらいあるそうです。つまり、そう不自然なことではないのですね。

とはいえ、長い間禁断とされてきた同性愛を、ストレートの人間が自分と同じように認めるのはむずかしいようです。なぜかはわかりませんが、特に男性にとっては。たとえば、私の夫はゲイの友人もいるのに、映画でゲイの場面があると、ものすごく居心地が悪いと言います。

去年から今年にかけて、「ブロークバック・マウンテン」(Brokeback Mountain)という映画が大変な人気になりました。台湾出身のアン・リー監督がアカデミー監督賞を受賞した作品です。ゲイのカウボーイの悲哀の愛の物語で、夫はどうしても観たくないと言うので、私は一人で観てきました。主演のヒース・レジャーのすばらしい演技で、愛は異性も同性も同じだと感じさせます。すでにDVDが出ているどうか知りませんが、恵マスターに是非観ていただきたい映画です。

恵マスターの書き込みで、これまで漠然としか考えて来なかったオスカー・ワイルドについて、自分の見方をはっきりさせる機会をいただきました。いつもとは違う意味で、お礼申し上げます。

蛇足ですが、私もL'Hotelに行ったことがあるような気がします。どうも記憶が定かではありませんが。つまりそのくらいオスカー・ワイルドには無関心だったのです。
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Re:2   齋藤 恵   Eメール URL 2006年10月15日(日)12:34
久しぶりに重厚な議論のチャンスを作っていただき、とてもありがたく、うれしく思います、日吉さん。本当にありがとうございました。

日吉さんのコメントを何回か熟読しまして、なるほどと思う点と、やはり気質(体質?)的にどうしても同感できない部分があることに気がつきました。

まず、お詫びですが、日吉さんのご意見のように、

「まず、よほどのマニアでないとワイルドの作品は読まないだろうというのは、正しくありません。少なくとも英語圏の世界では。ヴィクトリア朝時代の小説や戯曲を読む人は、ワイルドの作品は絶対に避けて通ることはないでしょう。」

はい、これはまったくその通りだと思います。この点に関しては、つい僕自身と周辺のことだけを考え、英語圏の方々のことまで思いを馳せてはおりませんでした。そうでしょうね。そうでもなかったら、亡くなって1世紀以上経っているのに、これだけよく知られていることはなかったはずです。失礼いたしました。なにしろ、本好きを自認する僕自身が、これまでまったく読んでいなかったものですから、ついつい勝手な決めつけをしてしまった次第です。

それから、ヴィクトリア朝の社会背景につきましても、まったく同感です。最初の記事にも書きましたように、

「とりわけこの時代は、ヴィクトリアン後期と言いまして、長かったヴィクトリア女王の治世の最後の頃で、現代への萌芽が様々な形で出ていたと同時に、旧体制の『タテマエ』意識も異常なくらい高くなっていた時代でした。」

ということは、それまでの道徳観や価値観が、人間の解放に向かった新しい時代の動きの中で脅かされていることを感じた支配的な階層が、道徳観や価値観の締め付けを強化したと言えるわけで、これは世紀末のハプスブルグ王朝においても共通することでした。ご指摘の通り、「人間性を縛り付ける社会規範」の引き締めは、精神的な束縛感を醸成したことは間違いありません。

僕は仕事で扱う品物から感じることもあって、ヴィクトリア朝時代を、次の3つに区分しています。


1)ヴィクトリアン初期(1837 〜 1861) 女王即位から夫の死まで

2)ヴィクトリアン中期(1861 〜 1887) 服喪から即位50年式典まで

3)ヴィクトリアン後期(1887 〜 1901) 脱喪から死去まで


いずれにしても、この64年間を通じて、英国は大きく発展し、世界中から富を集め、1人勝ちの様を呈していました。

ただ、厳密に言いますと、本当の「1人勝ち」は、1)〜 2)の期間でして、3)に入ると、新興のアメリカが地力をつけてきておりましたので、第1次大戦で立場が逆転する、その下地が作られていた時代だと言えると思います。

それだけに英国の支配層は社会規範の強化に必死だったのでしょう。自分達にとって、おいしい時代がなるべく長く続くように。それはその時期、同様な兆候のあった落日のハプスブルグ朝でも同じことだったと思います。

それだけに、そのような中で、支配のための道徳・規範を皮肉り、風刺し、笑い飛ばす作品を書いたオスカー・ワイルドの存在は意味があったと思います。社会主義思想の発展、アナキズム思想の深化、様々な新しい芸術活動の開花など、その様相はよくわかります。ウィーンにおけるクリムトのアートや、フロイトの心理学なども、そうした一連の流れの中で見ると、よく理解できます。

ですから、この時代の英国社会の繁栄と、それを作り出してきた重要な要素であった偽善やタテマエを、自らの生き方を以て批判したオスカー・ワイルドの行動には、社会的に重要な意味があったと思います。この点に関しては、テイストの好みは別として、僕もこの人物を評価するにやぶさかではありません。

ただ同性愛に関しては、個人的なテイストでまことに恐縮ですが、どうしても不快感をぬぐい去ることができません。僕の経験ですが、ゲイに対する嫌悪感はやはり男性の側により強いように思います。

かと言って、そうした嗜好に国家や社会が介入することには、記事の中で書きましたように僕も反対です。ましてやそれを政治的に利用するなど、もっての他です。これは本当に個人的な、テイストの問題ですね。日吉さんにお薦めいただいても、僕もゲイの問題が中心になっている映画は、やはり見たくないと思います。

実は最初の記事を書く前に、オスカー・ワイルドが法廷で原告として行った弁論と、被告として行ったもののほんの一部を読んだのですが、率直な感想として、あまり気持のよいものではありませんでした。言葉の達人であることは実によくわかるのですが、そこまで詭弁を弄するのは、言葉と自身の才能を悪用してしまうことにならないだろうかとすら思えました。そのあたりが、僕の偏見かもしれませんが、彼の人格うんぬんという認識に至った理由です。

家族との関係から言えば、オスカーは30歳で(1884年)、アイルランドの有名弁護士の娘であった、コンスタンス・メアリー・ロイドと結婚し、2人の息子を持ちました。

彼女は、終始オスカーの才能を評価し、支え続けたのですが、1898年、オスカーが出獄後、パリに居た時に亡くなっています。夫が「美青年」とのことで浪費を繰り返した後、収監、破産となり、姓を Holland と変えて、2人の息子を連れて、まずスイス、それからイタリアへ渡った後のことでした。

2人の息子シリルとヴィヴィアンは、1895年の事件以後、父親と再会することは2度とありませんでした。妻のコンスタンスはどうだったのか、僕が調べた限りでは不明でしたが、会っていなかったかと思います。

兄のシリルはイタリアで軍隊に入り、第1次大戦中、1915年にドイツ軍の狙撃兵に撃たれてフランスで死亡しました。

弟のヴィヴィアンは作家になり、父オスカーに関する本をたくさん執筆しました。彼は、1946年に60歳で息子(つまり、オスカーの孫)マーリンをもうけ、1967年に80歳で死亡しています。

マーリンもジャーナリストで、1979年に息子(オスカーの曾孫)ルシアンが誕生しています。

ルシアンは、オスカーと同じく、オックスフォード大学モードリン・カレッジで古典を学びましたが、卒業後はソフトウェア開発者として活躍しているとのことが資料に掲載されていました。現在27歳のはずです。

マーリンとルシアン親子は、「ホランド」の姓を「ワイルド」に戻すことも現在検討しているとのことで、家族のその後はざっとこんな様子です。

人間の評価は、視点によってまったく異なりますが、家族に負担や苦労をさせたという点で、やはり僕はオスカー・ワイルド氏の人生と人格を高く評価する気にはなれませんでした。

でも今回の書き込みがきっかけで、今まで縁遠かったこの作家がずっと身近に感じられるようになりましたので、少し作品を読んでみようかという気になりました。日吉さんのコメントがなかったら、きっと「読まず嫌い」で終わってしまったかもしれませんね。読後にまた折がありましたら、続きのお話を書かせていただきます。

いつもながら、どうもありがとうございました。
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Re:3   日吉   2006年10月21日(土)22:12
私の異議申し立てを正面から受け止めてくださって、ありがとうございます。私もこのところきちんとした議論をすることがほとんどなく、日常生活に流されるようになってしまいましたので、恵マスターとじっくり議論に取り組めて、本当にうれしく思っています。それなのに、再コメントが遅れ、申し訳ありません。

そうですか、恵マスターもゲイを主題とした映画は敬遠ですか。「ブロークバック・マウンテン」にはそんな激しいシーンはないんですけどねぇ… ご覧になればゲイに対する見方が変わる―かどうかはわかりませんが、この映画に限って言えば、きっとゲイの人たちの中の人間性に悲哀を感じられると思いますよ。とはいえ、ゲイの親友がいて、ゲイには理解のある夫でもこの映画を敬遠したのですから、ストレートの男性のゲイに対する抵抗は根強いのですね。なぜそうなのでしょうか… 

恵マスターが「家族に負担や苦労をさせたという点で、やはり僕はオスカー・ワイルド氏の人生と人格を高く評価する気にはなれませんでした」と、過去形でおっしゃったのは、いまは少し違うということでしょうか。恵マスターの書かれるものから、ご家族に対する責任感と愛情の深いに満ちた方だということが十分に伺われますから、恵マスターらしい考え方だと思いました。でも、オスカー・ワイルドは自分勝手なことで家族に負担や苦労をさせたのではないだろうと、私は思うのです。ゲイの人たちの多くは同性愛は選択でもライフスタイルでもなく、個人に内在する自然ものであり、自分たるものの重要な一部だと言います。それを否定するような社会に立ち向かうには、大変な勇気と覚悟が必要だったことでしょう。それは、いまもあまり変わっていないと思います。

子どもを持つ個人が、社会に立ち向かって進むとき、その波紋は子どもに一番大きく響くことでしょう。そこで、「A World Apart」と映画を思い出しました。南アフリカのアパルトヘートに闘った白人夫婦、ジョー・スローボ(Joe Slovo)とルース・ファースト(Ruth First)という実在の人物をモデルにして、12歳の娘の目から社会の圧力とそれに立ち向かう両親の闘いと彼女自身の苦しみを描いた映画です。闘いに全精力をつぎ込む両親は、投獄されたり、地下活動でいなくなったりで、そんな親を持った娘は、黒人の使用人に育てられているようなもの。白人の友だちからは、いじめられたり、のけ者にされたりして寂しく辛い毎日を送っています。そんな我が子をいとおしく思いながらも、親たちは闘いをやめません。アパルトヘートのない社会にすることが我が子の幸せにもなると信じているのです。

あるとき、娘が母親に泣いて訴えます。「どうして普通のお母さんのようにいてくれないの?」と。母親は、娘のためにも、社会全体のためにも、一生懸命なのだと説明しようとするのですが、娘にはそんなことは受け入れられない。自分のことだけを考えてくれるお母さんが欲しいのです。そのシーンには、胸が締めつけられる思いがしたのを覚えています。(15年以上も前の映画で、細かいことは覚えていませんが。)子どもも辛いけど、親も辛かっただろうと、想像がつくからでした。実際のルース・ファーストは、1982年に、アパルトヘートを温存させようとする白人グループが送ったレターボンム(letter bomb)に殺害されてしまいました。

実際のジョー・スローボとルース・ファーストには3人の娘がいます。3人とも親の正義感と情熱を受け継ぎ、南アフリカ社会で活動していますが、彼らが、アパルトヘート打倒の闘士になったごく普通の黒人をモデルにした映画「Catch a Fire」をごく最近完成させました。1人が脚本を書き、もう1人が制作したそうで、制作者がインタビューされているのをテレビで見ました。闘争に専念する親を持った子ども時代は辛かったと繰り返し言っていました。

オスカー・ワイルドのケースはそれとは雲泥の差だと思われる方もおられるかもしれませんが、私は本質的には同じだと考えます。個人個人が本当に自由であり平等である世界をめざして進んでいく点で。

関心のなかったオスカー・ワイルドですが、「ドリアン・グレイーの肖像画」をようんで見ようかな、という気になりました。
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Re:4   齋藤 恵   Eメール URL 2006年10月22日(日)11:02
日吉さんの真摯な議論をうかがいながら、つくづくインターネットが可能にしてくれた、こうした場に感謝しております。インターネットがなかったら、できなかったかもしれませんね。

ところで、日吉さんのコメントを熟読してまず、2つのことを痛感しました。

ひとつは、日吉さんが常に、どんな場合も、個人の自由をもっとも大切に考え、そのためにも少数派(マイノリティ)の存在を徹底して大事に考えていることにあらためて敬服しました。この点は、僕もまったく同感ですし、そんな生き方を貫いておられる日吉さんに心からの共感と敬意を送ります。

それから、もう1点は自戒を込めて感じたことですが、ゲイに対する感覚についてです。日吉さんの議論は、個人の自由とマイノリティの尊重心に基づいた、極めて社会的、論理的な議論ですが、僕の主張はそうではなくて、動物的、感覚的なものです。ゲイに対しては、ゲイでない男性(ストレートというのですね?)には、たしかに強い抵抗があります。

日吉さんに、

ストレートの男性のゲイに対する抵抗は根強いのですね。なぜそうなのでしょうか… 

と問われて、自分でもあれこれ考えたのですが、生命としての一種の本能かもしれないなあ、と思っています。つまり、僕自身も生命体のひとつとして、自身のDNAを次世代に残したいという本能(多分、これもDNAに組み込まれているはずの)を持っているのだと思います。そしてそれが種が継続し、絶滅しないための必須条件のひとつのように思えます。

ですから、次世代の生命を作り出す可能性が皆無の同性愛には、生命体として警戒し、近づかないという本能が働くのではないでしょうか? 自身の種の絶滅を避けるために。

でも、100個の生命体が100個すべてそうでなくても、たとえば10%か、そこいらはそうした本能から自由であっても、その種は絶滅しない、という自然界のルールがあるとしたら、いかがでしょうか?

男性と女性ではこの感覚に差があるというのも、なんとなく納得できます。

これはキリスト教右派が言うような、神の摂理に背く、うんぬんとはまったく異質な話です。ここに「神」や「政治」を持ち込むから、話がおかしくなってしまうのです。

という次第で、僕の主張は極めて感覚的、動物的で恐縮ですが、ここが日吉さんと僕の違いなのかな、と思っております。

でも、日吉さんのおかげで、「食わず嫌い」、「読まず嫌い」だったオスカー・ワイルドの作品を読んでみようという気になりました。これは自分だけの力では不可能なことでした。知的刺激をいただくというのはこうしたことなのですね。

いずれ折を見て、読後感を報告させていただきます。どうもありがとうございました。
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Re:5   日吉   2006年10月23日(月)19:32
本当に、ちょっと考えてみると、不思議な気分になりますね。インターネットのおかげで、遠い距離を一挙に超えて議論ができるのですから。

なぜストレートの男性はゲイに対して強い抵抗を感じるのかという疑問ですが、種の保存本能ではないかという恵マスターの推測は納得できます。それはもう理屈ではありませんものね。

蛇足になりますが、種の保存に対する男性の役割は、いわば種まきですね。種が育たないようなところに蒔いてしまうゲイは、本能的に受け入れがたいということなのでしょう。(でも、自分の種まきを守ろうとして、同種の競争相手=他の男性=を排除しようとする本能もありますね。)

一方、女性の方は、蒔かれた種が芽が出るように大事にしなければなりません。そして、芽が出てからは養育という役目があります。高等動物は養育しなければ、せっかく芽が出たものも育たず、種は保存できませんから、養育も本能的と考えられますね。養育を担うのには男女の差別はなく、養子を迎えて子どもを育てたいと望むのゲイのカップルが珍しくないのは、やはり種の保存本能とつながっているのではないかと思えてきました。

孤児になってしまった幼いオランウータンを、人間でいえば中年の独身男性にあたるオスのオランウータンが面倒を見るようになったというのをテレビで見たことがあります。(もっとも、オランウータンは群れを成しませんから、オスはみな独身ではありますね。)おじさんオランウータンにすっかりなついた孤児オランウータンは、おじさんの胸にしがみついておっぱいを吸うような身振りをします。それをおじさんは払いのけもせず、子どもがしたいようにさせていました。このおじさんオランウータンの寛容な態度に、私は感動したものでした。すみません、これは全くの蛇足でした。
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