落馬洲 (Lok Ma Chau)

齋藤 恵  No.3156 記録日 2006/10/04(水) カテゴリー 海外紀行 URL URL
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落馬洲 (Lok Ma Chau)


この記事のタイトルの「落馬洲」は、「らくばしゅう」と読むものではありません。広東語で「Lok Ma Chau(ロク・マー・チャウ)」と発音する香港にある地名です。香港の西北端、中国と接している、かつては中国と英国領香港との国境の村でした。

昨日、2006年10月3日の朝日新聞・アジアの街角欄に、「落馬洲」に関するこんな記事が載っていました。

<引用開始>

フェンスの向こうに広がる田園風景。その先に見える高層ビルの群れは、中国・深圳市の玄関口だ。香港の北西端に位置する落馬洲の展望台では、ガイドが「改革開放が始まる前、フェンスの向こうは田んぼと畑だけでした」と日本人旅行客に説明していた。

英国統治下の1951年、香港政庁は中国との境界2800ヘクタールを立ち入り禁止にし、高さ約2.5メートルのフェンスを設置。「大躍進」などの影響で中国に飢餓が広まった1962年には、活路を求める人々が中国側からフェンスを乗り越えようと押し寄せた。

1978年、改革開放政策が始まり、最初の経済特区となった深圳は、めざましい発展を続けた。

1997年には香港が中国に返還された。香港の人は簡単に深圳に入れるようになり、わざわざ展望台に足を運ぶ人も減った。落馬洲村長の張智偉さん(67)は、「取り残された気分さ。今でも錯覚しそうになるよ。こっちが中国で、向こうに見えているのが香港じゃないかとね」。

<引用終了>


最近香港へお出かけになる方で、この「落馬洲」に行かれる方は、極めて例外的だと思いますが、昔はここは、中国との国境線上で、一般の人が中国を見ることができた例外的な場所でしたので、たいていの観光客は見に行ったものです。

落馬洲展望台から、おそるおそる中国側を望遠鏡で眺めて、後進的で貧しそうな中国の田園地帯を見て、自分達の境遇にあらためて満足する、といった場所でした。

まことにお恥ずかしい思いを振り切って、あえて掲示させていただいたのですが、左端の写真は、今から32年前、1974年に落馬洲展望台で撮影した僕と当時の家族です。妻と僕に手をとられてるのは、今や2児の母となっている長女です。当時、僕達は香港に住んでおりました。長女はこの前年に香港で生まれました。

実はご覧いただきたいのは、若かりし頃の僕達ではなくて、その背景です。(すみません!) 背景に見える山々と田園地帯は中国なのです。もちろん当時は、ビルなどその片鱗もありません。その一方、中央と右端の写真は、ほぼ同じ場所から撮影された最近の景観ですが、左端と同じ地域とは思えないくらい違いがあるのがおわかりでしょうか?

そう言えば、僕は今でも香港に行くことがあるのですが、限られた時間を慌ただしく市街地で過ごすだけで、落馬洲には久しく行ったことはありませんでした。ですから、最近の写真を見せられた時、わずか30年ほどで、こんなにも変化してしまったのか、と思わず、驚きの声をあげてしまいました。

左端の写真を撮った時、僕達は中古の自家用車(たしか、アメリカのフォード社の車で、エスコートと言う車でした。あの暑い香港で、クーラーもついていない車でしたが、当時の香港は渋滞とはまったく無縁な地でしたので、それでもなんとか乗っていたのです。もちろん若かったからできたことですが・・・)で、休日に新界(ニューテリトリー)をぐるっと回り、その途中で観光地である落馬洲展望台で中国を見たのでした。

ちなみにこの写真は、その年、1974年のクリスマスカードと、その直後の年賀状に使用したものです。(だから残っていたのですが・・・。)僕達の古ーい友人の方は、昔々ご覧になったことがあるかと存じます。

当時は、1974年の秋でしたから、文化大革命はほぼ終息していたものの、「4人組」はまだ逮捕されておらず、中国には文革の影響が色濃く残っていた時代でした。紅衛兵くずれが香港に密入国しては、凶悪な犯罪を引き起こしていたのもこの頃でした。

現在、落馬洲展望台から見える中国の風景と、32年前に撮影した1枚の写真。時はこうやってうつろっていくのか、と一種呆然たる思いで、朝日新聞の記事を読みました。当時の中国のこの地域の田園では、必ず水牛の姿を見たものですが、もう水牛もいないのでしょうね。落馬洲の今昔のご紹介でした。

左端の写真の頃、妻も僕も20歳代の半ば過ぎでした。万感の思いで、しみじみと自分で見入ってしまいました。私的な感傷で申し訳ありません。

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