白い送り火

齋藤 恵  No.3133 記録日 2006/08/17(木) カテゴリー 国内紀行 URL URL
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↑ 写真はクリックしてご覧ください。


白い送り火


昨晩(8月16日)は、「京都五山の送り火」(大文字焼き)の日でした。毎年8月16日に京都市内で行われるこの仏教行事は、今や夏の京都観光業界にとっても、非常に重要な行事になっております。

ともかく8月は京都市内の主たるホテルはこの日以外なら、曜日を問わず、部屋の予約は簡単にできるのですが(暑いですからねえ、夏の京都は!)、この晩だけはダメです。1年前に予約してもやっとというのが実態です。

僕達も京都にはご縁が深く、いわば常宿があるのですが、それでもこの晩の予約だけは困難を極めます。

今年は暑い中を京都に出かけたわけではないのですが、おかげさまで、京都から昨晩の送り火の写真が届きましたので、ご紹介させていただきます。

この「五山の送り火」につきましては、このブログ・カフェの中でもこれまでに何度も取り上げてまいりました。どこか僕の気持の琴線にふれるものがあるのかもしれませんが、関連記事は5件もありました。以下の通りです。お読みいただければ、この風習の内容、歴史、意味、運営の仕組などがおわかりいただけると思います。よろしければ、是非クリックしてご覧ください。

京都五山の送り火(大文字焼き)見物体験記

東山大文字の火床はこうなっておりました!

五山の山焼き異聞

京都名刹めぐり その12 正伝寺

賀茂一族

上の写真の左側2枚は、昨晩の情景なのですが、左から、

1)東山如意ヶ嶽の「大」

2)松ヶ崎東山の「法」

です。でも右端の写真は、見るからに異質ですが、これは、

3)1943年(昭和18年)8月16日、朝の「白い大文字」です。たいへんめずらしい記録写真です。

実はこの「五山の送り火」は、太平洋戦争中、1943年(昭和18)年から3年間だけ、京都の夏の夜空から消えたのです。(この点からも戦争は罪深いことでした)

戦況が悪化してきた1943年、召集されて男手が足りなくなり、空襲に備えた「灯火管制」も厳しくなり、そして何よりも貴重な資源である薪を、そんな目的には使えなくなったため、送り火は廃止されました。室町時代中期(14世紀末から15世紀初め)くらいに始まったとされている長い歴史を持った仏教行事を、とうとう続けることができなくなったわけです。

以来、1945年(昭和20年)の敗戦までの3年間は、この送り火は行われず、再開されたのは、1946年(昭和21年)8月16日でした。

送り火に代わって、1943年、44年の2年間、8月16日の朝、如意ヶ嶽に現れたのが「白い送り火」でした。1945年は、敗戦放送の翌日でしたから、さすがにそれもできなかったのです。

つまり昭和18年、19年の2年間だけは、地元の国民学校の児童と一般市民の合計約800人が、白いシャツを着て早朝の火床(ひどこ)まで登り、午前7時から、人文字で「大」を描き、ラジオ体操を奉納したのだそうです。当時の新聞の見出しは、「英霊を送る・・・」だったそうで、すべてが戦争へと収斂されていたのです。

「白い送り火」は、もう2度と再現させてはならないと思います。2年間だけ見られた貴重な記録を見つけたものですから、そうした祈りを込めてご紹介させていただきました。僕も東山如意ヶ嶽の火床には登ったことがあるのですが、けっこう険しい山道で、僕の足で40分かかりました。あの時代、空きっ腹の800人には、きつい山登りだったと思います。送り火はやはり、夜やるべきものですね。

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