安宅コレクション

齋藤 恵  No.3095 記録日 2006/05/24(水) カテゴリー 陶磁器 URL URL
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↑ 写真は是非クリックしてご覧ください。


安宅コレクション


安宅産業という総合商社が、かつてありました。僕が学生の頃、日本には総合商社の大手が10社あり、10大商社と呼ばれていました。三井物産、三菱商事、伊藤忠、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、兼松江商、安宅産業、ニチメンの10社です。僕は総合商社や銀行には性格的にまったく不向きであることを承知しておりましたので、こうした会社には関心がなかったのですが、同窓生の多くはこの方面に進出していきました。もっとも、そうした企業戦士達の大半が今や「たたかい済んで、日が暮れて」の年齢にさしかかっていますが。

1976年(昭和51年)、戦後最大の倒産劇として、安宅産業の倒産事件が発生しました。僕自身もその時の衝撃をよく覚えています。

1904年(明治37年)に大阪で創立され安宅産業は、主に鉄を専門にした商社として、日本資本主義の拡大とともに、ダイナミックに成長して、戦後は日本の10大商社の仲間入りを果たしました。そのスタートは、官営八幡製鐵所の指定商として始まったものでした。

安宅産業は、最盛期には従業員数3600人余、年商2兆6千億円を数える巨大な総合商社でした。年商規模では、安宅産業は当時、10大商社中、9位であったのです。

それに「石橋を叩いても渡らない」という堅実経営でも有名な会社でした。鉄という固いモノを主に扱って来たからでしょうか。それが1000億円以上の不良債権をかかえて突然倒産し、結局翌年、伊藤忠商事に吸収合併されて社会から消えてしまったのです。倒産時の社員の運命はと言えば、3600人のうち伊藤忠に行けたのは1000人余だけという、この意味からもまことに厳しいものでした。

こうした際に、社員がどのような運命をたどるかは、市場経済に生きる者として、まさに他人事ではないのですが、おおよそ次の通りであったと聞きます。

安宅産業社員の去就

1976年1月末現在の在籍社員数は、約3610人でした。そのうち、

希望退職応募者           1810人
その他自然退職者          450人
新設の安宅関係独立会社へ    250人
伊藤萬へ               100人
伊藤忠商事へ            1000人余

ということになったのだそうです。あれからもう30年が経ちました。すでに故人になられた方も多いと思いますが、その後、どんな人生を歩まれたのでしょうか?

でもこうした巨大商社がなぜ破滅するにいたったのか、ちょっと整理してみましたので、いささか長くなりますが、ご興味がある方はご覧ください。

話は倒産から9年前の1967年に遡ります。安宅アメリカは、アメリカで「政商」とか「寝業師」と噂されていた、レバノン系アメリカ人の実業家ジョン・M・シャヒーン氏が、カナダ東海岸のニューファウンドランドに石油精製工場を建設し、石油市場の争奪戦に乗り出すというプロジェクトに参画しようと動いていました。

それまで石油ビジネスには縁のなかった安宅が、このプロジェクトに1枚噛むことによって、自社の石油部門を開設し、その業績を伸ばすことで10大商社中9番目という立場を一気に変えようとしていたわけです。高度経済成長期のあの時代の日本では、そういう野心や雰囲気がごく普通だったのです。

シャヒーンはリチャード・ニクソンなど、共和党の有力政治家と親交があり、何かと噂の多い人物でしたが、この際野心的な国際ビジネスの前には、そんなことは問題ではありませんでした。

当時の安宅アメリカ社長の高木氏は、ハワイ出身の日系2世でした。戦後、英語力を駆使してGHQとの折衝の末、安宅が財閥解体の指定を免れることに成功し、社内での頭角を表しました。

「2世」とか「英語屋」とか呼ばれるコンプレックスを払拭するためか、とかく大きな仕事をねらう傾向にあったようですが、当時の野心的な商社マン達は、多かれ少なかれそういうタイプでした。

紆余曲折の末、安宅産業は1973年6月に、安宅アメリカが

1)ニューファウンドランド・リファイニング・カンパニー(NRC)の総代理店になること

2)L/C(貿易信用状)を開設して原油代金の面倒を見るとともに、NRCに対して6000万ドルの与信限度を設けること

を決定しました。この石油取引の概要は、英国のブリティッシュ・ペトロリアム(BP)から安宅アメリカが原油をNRCの輸入代理店として購入し、NRCには輸入資金を融資しながら原油を供給して、精製後の販売代金を回収するという仕組みでした。北米東海岸は、巨大な石油消費マーケットです。中東産の原油を、輸送コストも少なく、その他のコストも安いアメリカに近いカナダで精製すれば、大儲けができると踏んだわけです。

NRCの開所は、1973年10月のことでした。開所祝賀会は、今や伝説的になっているのですが、ニューヨークから豪華客船クイーン・エリザベスU世号を借り切って現地に繰り出すという豪勢なもので、関係者の誰もがNRCの前途洋々たる将来を確信していました。

ところが開所式の4日前に勃発した第4次中東戦争、それによる原油価格の高騰、販路の縮小(これにはかなりメジャー資本の妨害もあったと思われます)、精製プラントの不備による生産効率の悪化と、マイナス要因が重なっていきました。NRCの資金繰り悪化が始まったのです。

NRCの破綻には、実は前奏曲がありました。マシアス・ポート事件と言うのだそうですが、それは石油メジャーの暗躍によるものでした。

メジャーではない一匹狼で知られていた、アメリカのオクシデンタル石油が、1968年にメイン州のマシアス・ポートに精油所を作り、30万トン・タンカーを使ってリビア産の原油をニューイングランドの市場に供給しようとした計画がありました。この時は、地域に精油所を持たない現地と周辺6州の知事や州議会がこの計画を支持したのですが、既存の市場秩序が新参者によって崩れることを恐れたメジャー石油会社各社は、ワシントンのロビイストに手をまわして、メイン州に作られる精油所が外国貿易多目的地区の特典を享受できないように工作したのです。その結果、この計画は潰えてしまいました。

このような前例があったにもかかわらず、事業拡大をあせった安宅は社運を賭けて、石油ビジネスの一角にくいこもうと全力をあげました。

豪勢な開所式から何ヶ月も経たない1974年1月、高木氏の後任として安宅アメリカ社長に就任した田中康夫氏は、「補助契約書」というタイトルがついた書類を発見しました。どうやら高木氏が独断でNRCと密かに取り交わしていたらしいのです。その内容は実はたいへんなものでした。

a)安宅アメリカはNRCに4000万ドルを貸し付ける(当時のレートで120億円くらい?)

b)その担保は取らない

c)返済期限は1985年6月30日とする

d)不可抗力の場合には安宅への代金の支払いを免除されると解釈できる表現があった

これはどういうことか。老練なシャヒーンに、いいように手玉に取られているのではないかと感じた田中新社長は、直ちに本社に報告し、危険性を訴えましたが、走り出したプロジェクトはもはや止められませんでした。

1974年4月、安宅産業常務会はNRCへの与信限度を一挙に2億4000万ドルに引き上げました。原油価格が石油ショックにより4倍に高騰したという理由からでした。でもこれがさらに致命的なミスとなったのです。

NRCの状況はその後もますます悪化していきました。そのうち、安宅から受けた融資を、そのまま安宅アメリカへの支払いに充てていたことまで判明しました。奈落への転落です。

1975年9月までに安宅産業はNRCに約3億ドル(当時のレートで約1000億円)を投入していました。

安宅はNRCに対する債権保全のため、第3抵当権の取得に望みをかけていたのですが、国際交渉で第1抵当権者の英国輸出信用保証局、第2抵当権者のニューファンドランド州政府にゼロ回答を示されて最後の望みも消えました。1976年3月、NRCはニューファウンドランド州最高裁によって破産宣告されて、この悪夢は幕を閉じました。

石油ビジネスにはまったく不慣れだった安宅産業は、バラ色に見えた夢のような新事業に魅せられ、シャヒーンという政商の描く壮大で強引なホラ話にひきずりまわされたあげく、最後には本体の破産宣告で70年余の歴史を閉じることになりました。


長々と安宅産業崩壊の道筋をご紹介しましたが、ここからが上の写真をはじめとする、大阪市立東洋陶磁美術館の安宅コレクションが始まるのです。安宅産業死して、美術館を残すことになったのです。

上の写真は、左端が、国宝「飛青磁 花生」(とびせいじはないけ)です。実物をじっくりと見ましたが、これはまことに感動的に美しいものでした。こういうのを見ると、国宝や重文を指定するなんとか委員さん達も、たいしたものだと思ってしまいます。この花瓶の説明は以下の通りです。

龍泉窯 元時代(13〜14世紀)

器表に鉄斑を散らし、その上から青磁釉をかけて焼成したもので、元時代の龍泉窯で盛んに行われた。日本では「飛青磁」(とびせいじ)と呼ばれ、特に茶人に好まれた。本器はその中でも釉色・鉄斑の現れ方ともに優れた作例のひとつである。この瓶は俗に玉壺春(ぎょっこしゅん)と呼ばれる器形である。ほっそりした頸と豊かに膨らんだ胴部が好対照をなして、見事な均整美を見せている。高台は畳付から5ミリほど釉を削っており、露胎部は濃い赤褐色となっている。


次が中央の写真ですが、これは重要文化財でして、「木葉天目茶碗」(このはてんもくちゃわん)と呼ばれています。

吉州窯 南宋時代(12〜13世紀)

吉州窯の天目茶碗は胎土が白く、土が緻密であるため、薄作りで、碗形も直線的にひろがっている。高台が小さいのも特徴のひとつである。吉州窯では黄褐釉と黒釉の二重がけで、べっこうに似た釉調のものを作っているが、この木葉天目も、その手法を応用したものであろう。しかし、実際の木の葉を使用して、その葉脈まで残して焼き上げる技法については、まだ定説を見ない。加賀前田家に伝来したものである。

というわけで、以上の2つは、中国産です。朝鮮半島のものではありません。


そして右端が、いよいよ朝鮮半島のものです。「白磁壺」(はくじつぼ)で、17世紀の作品です。

白磁の大壺には、朝鮮時代中期の作風をよく伝えるものが多い。すなわち、胴継ぎをして成形しているが、整った形に仕上がらず、ほとんどがゆがみ、ひずみ、へたりを見せている。焼成中の変形というより、轆轤で仕上げる段階で、完全な斉整を狙っていないのである。むしろ外形上の斉整を敢えて避けている感すらある。この壺には、とくにその特徴が現われ、質樸剛毅な造型の魅力を見せている。釉が厚くかかり、落着いた沈んだ乳白色の釉膚が美しい。志賀直哉氏より、東大寺元管長・上司海雲氏に贈られ、さらに1996年、それを継いだ新藤晋海(しんどうしんかい)氏より寄贈された。朝鮮時代白磁大壺の中でも傑出した作例として知られている。


とまあ、こんな陶磁器が約2000点あり、そのうち約半分が安宅コレクションと呼ばれるものです。

安宅コレクションとは、安宅産業の創業ファミリー2代目の安宅英一社長(1901〜1994)が長年かけて収集したものです。英一氏は社業の傍ら東洋陶磁のコレクション形成に心血を注ぎ、日本中の収集家のコレクションが、次第にここに合流していくまでになっていました。氏は会社の創業者のご子息でしたが、ご多分に漏れず、会社のためにはあまり熱心には働かれなかった方らしいですね。それでも、「人を見る目には自信がある」と言っておられたとかで、会社の人事権を掌握され、また趣味の音楽や陶磁器収集には、会社のお金も存分に使われた方らしいのです。

結局、安宅産業の倒産後、このコレクションをメインバンクであった住友銀行が担保として押さえました。なんでも151億円という担保価値だったのだそうです。

その後の紆余曲折を経て、結局、住友グループはこのコレクションとそれを収蔵・展示するために建設した建物を大阪市に寄贈して、現在の大阪市立東洋陶磁美術館が誕生したのです。

この美術館をボランティアのガイドさん付きで、じっくりと見て回った印象は、コンパクトながら、展示品と実によく調和していると思えたのですが、それもそのはず、展示すべきコレクションがまずあって、それに合わせて美術館を建設したのです。

このあたりは、1959年(昭和34年)年に上野に建設された国立西洋美術館と松方コレクションの関係に類似したところがありますね。

松方コレクションに関しましては、以下の記事を是非ご覧ください。

返却されなかった名画<アルルの寝室>
http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?no=202


なにかと風評のあった井桁マークの住友グループですが、この美術館に関しては、素直にエライと僕も申し上げます。散逸を防ぎ、公開したことはある種の贖罪だったとしても、よいことだと思います。ハコだけ立派で、中味に疑問のある公立美術館もある中で、この市立美術館は出色だと思います。常に地方公共団体の財政逼迫度の上位にいると言われる大阪市ですが、間違ってもこれを売り払わないよう、心から祈っております。

あまりにも長くなり過ぎますので、とりあえずこのへんで一度終わりにしますが、安宅コレクションに関しては、また後日、もう1回くらいは書きたいと思っております。長話におつき合いくださって本当にありがとうございました。

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