平泉紀行 その 3 − 中尊寺の金色堂と鞘(さや)堂 −
平泉・中尊寺の「金色堂(こんじきどう)」と言えば、日本人ならまず知らない人はいないくらい有名な建築物です。たしか、国宝という制度ができた直後に、真っ先に国宝に指定された建築物のひとつです。松尾芭蕉が「奥の細道」の中で「光堂」と称したように、金色に光り輝く金色堂は、その昔、平安末期の奥州藤原氏100年の栄華を象徴する建物として、今や世界遺産の指定を目指そうという地元の動きの中心的存在でもあります。
上の写真の上部がその「金色堂」ですが、実は金色堂は、京都の金閣寺舎利殿と違って、周囲の木立の中に、燦然と金色に輝いているわけではありません。写真の下部がそうなのですが、拝観券を渡す門から石段をわずかばかり登ると、覆堂(おおいどう)という建物に金色堂そのものがすっぽり覆われていて、外からは見えません。つまり、屋内にある建物(屋内屋)なのです。ですから、金閣寺のように、緑と水の中に燦然ときらめいて周囲とのコントラストが楽しめるように建っているわけではないのです。
もっとも、1124年の完成ですから、今年で創建後881年になりますので、平泉の気候の中で、屋外に放置しておいたら、とっくにいたんで消滅していただろうと思われます。屋根の瓦に見える部分も、実は焼き物の瓦ではなくて、木製です。
そこで、覆堂(古くは、鞘堂 <さやどう> と呼ばれていたそうですので、ここでも鞘堂と言うことにいたします)が比較的早期に作られたとのことです。記録に残る最初の鞘堂は、鎌倉時代の1288年の建造です。奥州藤原氏を、4代泰衡の時代に滅ぼした源頼朝は、平泉にある仏教寺院には一切手をつけず、むしろその保護を部下に命じたと言われています。金色堂は、その最たるものであったわけです。
奥州藤原氏の滅亡が1189年のことですから、鞘堂の建設は、それから数えて約100年後。金色堂の完成から数えて、164年後のことになります。
それでは金色堂は、164年間も野ざらしであったのかというと、どうもそうでもなさそうです。鞘堂というほど完全な覆いではありませんが、もっと簡単な保護施設は、奥州藤原氏の時代からあったようです。
現在の鞘堂が完成したのは、1965年(昭和40年)のことで、その時に金色堂そのものについても大幅な解体修理を行い、鞘堂内部においても金色堂をガラスで覆い、空調を設備して、建物の保存を図りました。現在の金色堂と鞘堂は、その時の成果です。
金色堂と鞘堂をじっくり眺めながら、僕はいくつかの疑問を持ちましたが、それらは多くの人々が感ずる疑問だったようで、比較的容易に解答が見つかりましたので、ちょっとご紹介させていただきます。それはこんなことでした。
1)金色堂は阿弥陀堂という建築形式のお堂なのですが、そのサイズがあまりにも小さいのです。屋根の1辺の長さが、約5.5m。お堂本体のサイズなどは、その半分程度です。正面扉の高さは、1.5m にも満たないくらいです。つまり、人間が中に入って、なにがしかの仏教行事を行うことができるサイズではありません。小さすぎるのです。それではこの「人が入れない」阿弥陀堂は、いったい何だったのか、という疑問です。
それは簡単にわかりました。このお堂は建立した藤原清衡の棺の一部だったのです。清衡の棺は、現在はこの寺の宝物館にありましたが、表裏ともびっしりと金箔が貼られた黄金の棺でした。そしてその金色の棺は、かつては金色堂の中心部、中央須弥壇(しゅみだん)の中に安置されていました。
ですから、実は金色堂そのものが、清衡のための「二重の金棺」と呼ぶべきもので、棺の一部だったのです。とすれば、人の立ち入りを拒絶するようなそのサイズも、至極当然の大きさだったというわけです。
また、棺の一部と考えれば、比較的早期から他の建物で金色堂を覆ってしまったということも理解しやすくなりますね。独立した建物ではなくて、棺なのですから、何かで覆うのも不思議ではありません。
2)次の記事に写真を掲載しますが、金色堂内部にはすばらしい工芸技術を駆使した装飾が施されています。螺鈿(らでん)、アフリカ象の象牙、数々の珠玉、そして紫檀材などです。いずれも材料が日本で採れるものではありません。こうした貴重な材料を、当時どうやって入手したのかという疑問です。平安末期、京都は末法の世の到来で大いに荒れていましたし、奥州藤原氏は、朝廷から独立した独立王国の様を呈していましたので、都と濃密な品物の交流があったとも思えません。
これも比較的容易にわかりました。当時、砂金を中心にかなりの金の産出力を持っていた藤原氏は、金を財政基盤として、中国・江南の諸都市と直接に交易を行っていたのです。それでなければ、あれだけの質と量の貴重極まりない宝玉香木を入手できなかったはずです。金色堂の建設に際して、藤原氏がもっとも費用と努力を注いだのは、漆塗りに金箔を貼った建物本体ではなくて、内部にあるこうした海外からの材料をふんだんに使った装飾だったと思われます。
そしてその工芸の品質水準が、まったくすばらしいのです。頼朝が平泉でこうした工芸の現物を見て驚愕したと言われていますが、僕も実際、驚愕しました。螺鈿細工としては、これまで見た中でも、間違いなく最高水準のものでした。
3)統治者とは言え、藤原清衡の遺体を、火葬することもなく、金色の棺に納め、それをまた金色の阿弥陀堂に納めて安置しようとした藤原家の意図は何だったでしょうか? 仏教では遺体は不浄視されます。土葬にして土中深く埋めるか、火葬にして骨を安置するのが普通なのに、なぜそのままにして安置したのでしょうか? 結局、清衡、基衡、秀衡の3代の統治者達の遺体は、1950年(昭和25年)の学術調査の際に、ミイラ化した状態で発見されました。このような埋葬様式は、この地域でもまったくの例外でした。ちなみに、頼朝に滅ぼされた泰衡だけは、棺がなくて、首を入れる箱だけがありました。
これは、どうも清衡を筆頭とする藤原氏の宗教観から来ているようです。棺を金で覆い尽くしたのも、権力や財力を誇示するだけが目的だったのではなくて、仏教の力で奥州の地の穢れや怨みを浄化し、浄土の実現を期したのだと考えられます。存命中から、金字写経を数多く行っていた清衡は、その功徳により死後、金色世界に行けるとした法華経信仰も持っていたのかもしれません。
金や金色(光明)は、穢れを浄める浄化機能がもっとも強いものとして、古来からあがめられてきました。前九年の役、後三年の役など、度重なる戦いの血に汚されて来た奥州を、その中でかろうじて生き残ってきた自らが、自らの遺体を光明に包んで浄化し、そのことで奥州全域が浄土に近づくことができると本気で思っていたのだと思います。
藤原氏を滅ぼした源頼朝をはじめ、後の世の伊達藩に至るまで、金色堂を畏怖し、鄭重に扱ったのは、こうした由来を知っていたからだと思います。墓をあばくことは、誰でもしたくないことですよね。
4)中尊寺は、藤原氏滅亡後、唯一最大のスポンサーを失って、いったいどうやって生き延びて来たのでしょうか? ちなみに、中尊寺は天台宗の東北大本山でして、宗派としては、比叡山・延暦寺と同じ系列です。
藤原氏滅亡後、長い間、中尊寺は20人程度の僧侶と、寺が持つ田畑約60haを耕す小作農家によって細々と守られて来ました。十分なメインテナンスは無理でしたが、長い間、かろうじてその規模で生きて来たわけです。
しかし、第2次大戦後、中尊寺を取り巻く状況は一変しました。農地改革により、寺を守る村落共同体は崩壊。寺は極貧となり、僧侶は次々に山を下り、アルバイトでの生活を余儀なくされました。
その当時、金色堂はボロボロの状態でした。漆や螺鈿の装飾は、はげ落ち、金箔もほとんどが落ちて、薄れていました。この困難な時期に、中尊寺は立ち上がったのです。代々、寺を守る家の僧侶だった佐々木実高氏は、「このままでは、奥州の宝は駄目になる」として、思いきった手を打ちました。
それまでは、秘宝中の秘宝として一切手をつけていなかった、金色堂に眠る藤原3代の遺体の公開調査を、文部省に願い出て決行したのです。そしてミイラとなっていた3つの遺体を公開し、全国から大きな注目を集めました。1950年(昭和25年)のことでした。
実際、その学術調査により、様々な事実が判明したのですが、寺院経営的には、中尊寺が社会の大きな関心を惹き付けたということの方がより重要でした。そうした環境の中で、文部省もようやく動き出し、1962年から1968年にかけての、金色堂と鞘堂の本格的な解体修理が実現したのです。
文部省は学者や寺の僧侶、それに全国から選ばれた職人たち約50人のプロジェクトチームを作りました。しかし、800年以上前に使われた材料と技術の解明に、たいへんな苦労をしたと言われています。
まず漆の色が、まったく違いました。まるで光を吸い込むような真っ黒な色で、しかも、塗り方も途方もなく分厚かったのです。金箔も青みがかり、渋くて重い色でした。
「技法の謎がわからなければ修理を諦めるしかない」と多くのメンバーがあきらめかけた時、思いきって、損傷が激しい部材をあえて切り刻み、その分析によって謎を解明することを言い出したメンバーがいました。通常なら文化財を破壊することなど許可されませんが、なんとしても復元したいというメンバーの熱意に押されて実現したのだそうです。その提案に、官僚的硬直性を押し切るだけの迫力があったのでしょうね。
ともかくこうして金色堂と鞘堂はなんとか修理を終え、現在のような形になりました。なお、その時解体された鞘堂は、現在、中尊寺境内の金色堂の近くに別の建物として保存されています。「旧覆堂」という呼ばれています。もちろん中は、がらんどうで何もありませんが、趣だけは十分にありました。
中尊寺の金色堂のことは、最初に申し上げましたように誰でも知っています。でも、現場を訪ねて、実際に見ることとは、やはり大きな違いがあります。ちょっとしたご縁で今回初めて訪れたのですが、出かけてよかったと思いました。単なる観光名所と言うにはもったいないくらいのすごさがあります。まだ現地をご覧になっておられない方にはお奨めします。一見の価値があります。