平泉紀行 その 3  − 中尊寺の金色堂と鞘(さや)堂 −

齋藤 恵  No.2972 記録日 2005/10/08(土) カテゴリー 国内紀行 URL URL
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平泉紀行 その 3  − 中尊寺の金色堂と鞘(さや)堂 −


平泉・中尊寺の「金色堂(こんじきどう)」と言えば、日本人ならまず知らない人はいないくらい有名な建築物です。たしか、国宝という制度ができた直後に、真っ先に国宝に指定された建築物のひとつです。松尾芭蕉が「奥の細道」の中で「光堂」と称したように、金色に光り輝く金色堂は、その昔、平安末期の奥州藤原氏100年の栄華を象徴する建物として、今や世界遺産の指定を目指そうという地元の動きの中心的存在でもあります。

上の写真の上部がその「金色堂」ですが、実は金色堂は、京都の金閣寺舎利殿と違って、周囲の木立の中に、燦然と金色に輝いているわけではありません。写真の下部がそうなのですが、拝観券を渡す門から石段をわずかばかり登ると、覆堂(おおいどう)という建物に金色堂そのものがすっぽり覆われていて、外からは見えません。つまり、屋内にある建物(屋内屋)なのです。ですから、金閣寺のように、緑と水の中に燦然ときらめいて周囲とのコントラストが楽しめるように建っているわけではないのです。

もっとも、1124年の完成ですから、今年で創建後881年になりますので、平泉の気候の中で、屋外に放置しておいたら、とっくにいたんで消滅していただろうと思われます。屋根の瓦に見える部分も、実は焼き物の瓦ではなくて、木製です。

そこで、覆堂(古くは、鞘堂 <さやどう> と呼ばれていたそうですので、ここでも鞘堂と言うことにいたします)が比較的早期に作られたとのことです。記録に残る最初の鞘堂は、鎌倉時代の1288年の建造です。奥州藤原氏を、4代泰衡の時代に滅ぼした源頼朝は、平泉にある仏教寺院には一切手をつけず、むしろその保護を部下に命じたと言われています。金色堂は、その最たるものであったわけです。

奥州藤原氏の滅亡が1189年のことですから、鞘堂の建設は、それから数えて約100年後。金色堂の完成から数えて、164年後のことになります。

それでは金色堂は、164年間も野ざらしであったのかというと、どうもそうでもなさそうです。鞘堂というほど完全な覆いではありませんが、もっと簡単な保護施設は、奥州藤原氏の時代からあったようです。

現在の鞘堂が完成したのは、1965年(昭和40年)のことで、その時に金色堂そのものについても大幅な解体修理を行い、鞘堂内部においても金色堂をガラスで覆い、空調を設備して、建物の保存を図りました。現在の金色堂と鞘堂は、その時の成果です。

金色堂と鞘堂をじっくり眺めながら、僕はいくつかの疑問を持ちましたが、それらは多くの人々が感ずる疑問だったようで、比較的容易に解答が見つかりましたので、ちょっとご紹介させていただきます。それはこんなことでした。


1)金色堂は阿弥陀堂という建築形式のお堂なのですが、そのサイズがあまりにも小さいのです。屋根の1辺の長さが、約5.5m。お堂本体のサイズなどは、その半分程度です。正面扉の高さは、1.5m にも満たないくらいです。つまり、人間が中に入って、なにがしかの仏教行事を行うことができるサイズではありません。小さすぎるのです。それではこの「人が入れない」阿弥陀堂は、いったい何だったのか、という疑問です。

それは簡単にわかりました。このお堂は建立した藤原清衡の棺の一部だったのです。清衡の棺は、現在はこの寺の宝物館にありましたが、表裏ともびっしりと金箔が貼られた黄金の棺でした。そしてその金色の棺は、かつては金色堂の中心部、中央須弥壇(しゅみだん)の中に安置されていました。

ですから、実は金色堂そのものが、清衡のための「二重の金棺」と呼ぶべきもので、棺の一部だったのです。とすれば、人の立ち入りを拒絶するようなそのサイズも、至極当然の大きさだったというわけです。

また、棺の一部と考えれば、比較的早期から他の建物で金色堂を覆ってしまったということも理解しやすくなりますね。独立した建物ではなくて、棺なのですから、何かで覆うのも不思議ではありません。


2)次の記事に写真を掲載しますが、金色堂内部にはすばらしい工芸技術を駆使した装飾が施されています。螺鈿(らでん)、アフリカ象の象牙、数々の珠玉、そして紫檀材などです。いずれも材料が日本で採れるものではありません。こうした貴重な材料を、当時どうやって入手したのかという疑問です。平安末期、京都は末法の世の到来で大いに荒れていましたし、奥州藤原氏は、朝廷から独立した独立王国の様を呈していましたので、都と濃密な品物の交流があったとも思えません。

これも比較的容易にわかりました。当時、砂金を中心にかなりの金の産出力を持っていた藤原氏は、金を財政基盤として、中国・江南の諸都市と直接に交易を行っていたのです。それでなければ、あれだけの質と量の貴重極まりない宝玉香木を入手できなかったはずです。金色堂の建設に際して、藤原氏がもっとも費用と努力を注いだのは、漆塗りに金箔を貼った建物本体ではなくて、内部にあるこうした海外からの材料をふんだんに使った装飾だったと思われます。

そしてその工芸の品質水準が、まったくすばらしいのです。頼朝が平泉でこうした工芸の現物を見て驚愕したと言われていますが、僕も実際、驚愕しました。螺鈿細工としては、これまで見た中でも、間違いなく最高水準のものでした。


3)統治者とは言え、藤原清衡の遺体を、火葬することもなく、金色の棺に納め、それをまた金色の阿弥陀堂に納めて安置しようとした藤原家の意図は何だったでしょうか? 仏教では遺体は不浄視されます。土葬にして土中深く埋めるか、火葬にして骨を安置するのが普通なのに、なぜそのままにして安置したのでしょうか? 結局、清衡、基衡、秀衡の3代の統治者達の遺体は、1950年(昭和25年)の学術調査の際に、ミイラ化した状態で発見されました。このような埋葬様式は、この地域でもまったくの例外でした。ちなみに、頼朝に滅ぼされた泰衡だけは、棺がなくて、首を入れる箱だけがありました。

これは、どうも清衡を筆頭とする藤原氏の宗教観から来ているようです。棺を金で覆い尽くしたのも、権力や財力を誇示するだけが目的だったのではなくて、仏教の力で奥州の地の穢れや怨みを浄化し、浄土の実現を期したのだと考えられます。存命中から、金字写経を数多く行っていた清衡は、その功徳により死後、金色世界に行けるとした法華経信仰も持っていたのかもしれません。

金や金色(光明)は、穢れを浄める浄化機能がもっとも強いものとして、古来からあがめられてきました。前九年の役、後三年の役など、度重なる戦いの血に汚されて来た奥州を、その中でかろうじて生き残ってきた自らが、自らの遺体を光明に包んで浄化し、そのことで奥州全域が浄土に近づくことができると本気で思っていたのだと思います。

藤原氏を滅ぼした源頼朝をはじめ、後の世の伊達藩に至るまで、金色堂を畏怖し、鄭重に扱ったのは、こうした由来を知っていたからだと思います。墓をあばくことは、誰でもしたくないことですよね。


4)中尊寺は、藤原氏滅亡後、唯一最大のスポンサーを失って、いったいどうやって生き延びて来たのでしょうか? ちなみに、中尊寺は天台宗の東北大本山でして、宗派としては、比叡山・延暦寺と同じ系列です。

藤原氏滅亡後、長い間、中尊寺は20人程度の僧侶と、寺が持つ田畑約60haを耕す小作農家によって細々と守られて来ました。十分なメインテナンスは無理でしたが、長い間、かろうじてその規模で生きて来たわけです。

しかし、第2次大戦後、中尊寺を取り巻く状況は一変しました。農地改革により、寺を守る村落共同体は崩壊。寺は極貧となり、僧侶は次々に山を下り、アルバイトでの生活を余儀なくされました。

その当時、金色堂はボロボロの状態でした。漆や螺鈿の装飾は、はげ落ち、金箔もほとんどが落ちて、薄れていました。この困難な時期に、中尊寺は立ち上がったのです。代々、寺を守る家の僧侶だった佐々木実高氏は、「このままでは、奥州の宝は駄目になる」として、思いきった手を打ちました。

それまでは、秘宝中の秘宝として一切手をつけていなかった、金色堂に眠る藤原3代の遺体の公開調査を、文部省に願い出て決行したのです。そしてミイラとなっていた3つの遺体を公開し、全国から大きな注目を集めました。1950年(昭和25年)のことでした。

実際、その学術調査により、様々な事実が判明したのですが、寺院経営的には、中尊寺が社会の大きな関心を惹き付けたということの方がより重要でした。そうした環境の中で、文部省もようやく動き出し、1962年から1968年にかけての、金色堂と鞘堂の本格的な解体修理が実現したのです。

文部省は学者や寺の僧侶、それに全国から選ばれた職人たち約50人のプロジェクトチームを作りました。しかし、800年以上前に使われた材料と技術の解明に、たいへんな苦労をしたと言われています。

まず漆の色が、まったく違いました。まるで光を吸い込むような真っ黒な色で、しかも、塗り方も途方もなく分厚かったのです。金箔も青みがかり、渋くて重い色でした。

「技法の謎がわからなければ修理を諦めるしかない」と多くのメンバーがあきらめかけた時、思いきって、損傷が激しい部材をあえて切り刻み、その分析によって謎を解明することを言い出したメンバーがいました。通常なら文化財を破壊することなど許可されませんが、なんとしても復元したいというメンバーの熱意に押されて実現したのだそうです。その提案に、官僚的硬直性を押し切るだけの迫力があったのでしょうね。

ともかくこうして金色堂と鞘堂はなんとか修理を終え、現在のような形になりました。なお、その時解体された鞘堂は、現在、中尊寺境内の金色堂の近くに別の建物として保存されています。「旧覆堂」という呼ばれています。もちろん中は、がらんどうで何もありませんが、趣だけは十分にありました。

中尊寺の金色堂のことは、最初に申し上げましたように誰でも知っています。でも、現場を訪ねて、実際に見ることとは、やはり大きな違いがあります。ちょっとしたご縁で今回初めて訪れたのですが、出かけてよかったと思いました。単なる観光名所と言うにはもったいないくらいのすごさがあります。まだ現地をご覧になっておられない方にはお奨めします。一見の価値があります。

Re:1   日吉   2005年10月12日(水)00:00
いつも恵マスターのお寺に関する書き込みからいろいろなことを教えられ、感心しながら楽しんでおりますが、今回の平泉・中尊寺のレポートは、殊に圧巻です。平泉には一度も行ったことがありませんので、恵マスターのレポートを拝見して、是非行ってみようという気になりました。

平泉の藤原氏が中国・江南の諸都市と直接に交易を行っていたというのは、私には大変な驚きです。藤原氏側の港はどこだったのでしょう? そしてどういう経路で中国に辿り着いたのですか? このことに関する書物がありましたら、是非教えてください。
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Re:2   齋藤 恵   2005年10月13日(木)00:00
日吉さん、ご多用の中、ご来店まことにありがとうございました。

この次の記事で、北京ダックの話題を書き込んでおりますように、お客様をご招待して香港に出かけておりました。日吉さんの書き込みは、帰路、香港の空港ラウンジで拝見しました。そんな事情で、ご返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。ごめんなさい。

平安時代の中国大陸との交易について、関心をお持ちになったようですね。資料はいずれ詳しくご提供するつもりですが、とりあえず、手元でわかる範囲でご報告させていただきます。

日吉さんは、「十三湊(とさみなと)」という地名をお聞きになったことがありますか? 現在では、「じゅうさんみなと」と呼ばれているようですが、青森県の津軽半島(東側の斧のような形の半島が下北半島で、西側の小さな方が津軽半島です。なぜか、昔から僕はこの2つを混同しやすくて困っています、お恥ずかしい話ですが・・・)

その西側の小さい方、津軽半島の北端近く、日本海に面した所に、十三湖という場所があります。行政区分としては、五所川原市になるのでしょうか?

そのあたりは、かつて「十三湊」と呼ばれ、日本の北の大交易拠点でした。中国大陸や朝鮮半島との交易は、やはり太平洋側よりも日本海側の方が有利だったはずです。北の十三湊は、南の太宰府(博多)と並ぶくらいの有力な貿易港であったのです。

奥州平泉政権の国土計画の根幹として、領土の南、福島県白河の関から、領土の北、津軽の十三湊までを、平泉を経由して一本の道で結ぶという大計画があったのではないかと伝えられています。この道は奥大道と呼ばれています。

その目的は、単に奥州政権の領土を首都平泉に結ぶという機能だけではなく、陸路は白河の関を通して京都に通じ、海路は十三湊から北海道、京都、博多湊、そして中国へとつなげる大きく開かれた夢の道でした。芭蕉が「夏草や つわものどもが 夢の跡」と読んだ「つわものども」とは、源義経主従と、奥州藤原氏の一部の者達による、新しい国づくりを目指した人々のことではなかったでしょうか?

荒唐無稽に思える、義経 = チンギス・ハン説なども、十三湊の歴史を見てみると、そんな話が生まれても不思議ではないように思えます。

海路の基点となった十三湊は、海上輸送や物資交流・貿易の拠点となりました。平泉政権の主たる海上交易ルートは、北上川を下って太平洋へぬけるルートだと考えられがちなようですが、奥大道につながる十三湊と日本海こそが平泉の交易舞台だったと考えるのが自然なようです。

イタリア・ヴェニスの出身で、17年間元に仕えたあのマルコ・ポーロ(1254〜1324)は、著書「東方見聞録」の中で、中国東方の島国、つまり日本について、次のように記しています。

「大陸から1500マイルの大洋にある大きな島の住民は、色白で礼儀正しい優雅な偶像教徒である。国民はみな莫大な量の黄金を所有し、国王はすべて純金で覆われた、非常に大きな宮殿を持っている。屋根・床・広間・窓すべて純金である。国の名はジパング。」

マルコ・ポーロの存命中、京都・北山の金閣寺を建立した足利義満は、まだ生まれてもいませんでしたから、ここで言及されている日本の黄金に彩られた建築物といえば、中尊寺金色堂以外には考えられません。

1962(昭和37)年に行われた金色堂の解体修理の時、使用された金箔は約3万枚(15kg)で、漆は約200kg。沖縄産の夜玖貝約3万個が使用されています。これをもとに推測しますと、創建時に使用された金は約150kg、銀70kg、漆2000kg(2トン!)、夜玖貝10万個以上が用いられたことになりそうなのです。

さらに漆には白檀(びゃくだん)、沈香(じんこう)という香木が多く混入され、須弥壇にはアフリカ象の象牙、数万個のガラス玉や宝石類が用いられていて、奥州藤原氏が持っていた交易の底力を感じさせられます。

初代、藤原清衡は中尊寺建立の為に、全国各地から名工・高僧を集めると共に、宋国から10万5千両 (約1.3トン = 2005年10月13日の相場で、約24億円相当)という膨大な砂金を投じて、宋版一切経という経典を入手しています。この経典は原則として国外への持ち出しが禁止されていたものだそうで、宋王朝の貴族や僧に対して、買収を含む相当の根回しを行える外交関係も確立していたのだと想像できます。そして多分、この砂金が「黄金のジパング(日本国)」の噂の元になったのではと推測されます。

貿易の実務を行うのは中尊寺の僧達であったと思われます。情報収集、操船、航海術の習得・伝授、翻訳・通訳、商取引、倉庫管理など、重要な貿易のノウハウが蓄積されていったことでしょう。

それではその貿易を支えた財政基盤のことですが、もちろんその筆頭に挙げられるのが、金 = ゴールドです。でもこの時代は金の鉱脈を探し、鉱山から金鉱を掘り出し、それを精錬する技術などはありませんでした。ですから、金と言えば、川から採取する砂金のことでした。

当時、砂金がもっとも採れたのは、陸奥国でした。奥州でもとくに気仙郡(いまの岩手県)、東磐井郡(同上)、本吉郡(いまの宮城県)といったように北上川の流れる地方で産出しました。ですから、奥州藤原氏の発展の基礎は、北上川の砂金をおさえていたからだと言えると思います。

それまで(すくなくとも平安中期まで)日本では金は主として造仏造寺や錦を織るのに使われた特別な金属としての価値が中心で、それとの交換で他の奢侈品を得るという価値を持ったものではありませんでしたが、「金=ゴールドを持ってくれば、何とでも交換する」という宋船が、金の価値を教えてくれたのです。

ともかく、日吉さん、とりあえずのご報告です。交易のカギは、津軽にあったようです。
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Re:3   日吉   2005年10月14日(金)00:00
まぁ、そうだったのですか! これまで私が抱いていた東北地方の概念がガラッと覆されました。もう、大変な驚きです。(と、私の無知をさらけ出して、お恥ずかしい次第です。)

恵マスター、とっても重要なことを教えてくださって、本当にありがとうございます。もっともっと知りたいです。どうかご指導ください。期待しております。
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Re:4   暁の鴎   2005年10月16日(日)00:00
恵マスターお久しぶりです。今はお客様方と共に香港の街を散策しておられる頃でしょうか?ご支持されるお客様方との繋がりを、素晴らしいと感じるばかりです。
いつも掲示板の素晴らしい内容にも感動し、楽しませて頂いております。ありがとうございます。

今回の平泉・中尊寺の記述は、日吉様のおっしゃる通り、まさに圧巻です。私が中尊寺を訪ねたのは、もう30年ほど前の高校の修学旅行時でした。慌ただしくあちらこちらを回った為、ゆっくりと楽しむどころではなったにも関らず金色堂の荘厳さに圧倒された事は今も印象に強く残っております。

ところで、恵マスターの記述にもあった、奥州の金産出と金色堂に使われた夜玖貝(ヤコウガイ、で間違いないですよね)について、先日偶然調べていましたので、場汚し覚悟で書き込ませて頂きます。

日本で最初の産金の記録は、天平12年2月(749年)「続日本紀」にあります。
当時の陸奥の国司百済王敬服(くだらのこにきしきょうふく)が、現在の宮城県遠田群涌谷町黄金神社一帯から砂金を採集したとあります。時の聖武天皇は、東大寺大仏鋳造に力を入れておられたものの、間もなく出来上がる尊仏に金メッキを掛ける時期が迫っていました。しかし、国内からの産出は殆ど採集されておらず、入手に窮していた折の朗報であったとされます。同12年4月陸奥より約13kg(貢金900両)が京に到着し、以降大仏建立には計140kg(1万両)が使用され、最終的に使用された金の総量は437kgといわれます。

砂金産出は、これ以降軌道に乗った模様で12世紀の奥州藤原三代の栄華をも支えたことは、恵マスターの記述通りです。藤原三代の約100年間、年平均100kgの砂金がコンスタントに採集され、結果約10t(?!)に及んだ産出は世界産金史上特筆に値します。特に当時世界中どの地域からも殆ど産金しておらず、事に欧州一帯には金山も金鉱脈もありませんので、黄金の国「ジパング」は当然世界にその名を轟かすことになったのだと思われます。

ちなみに純金1kgは、両手の親指と人差し指でコの字形を作って、合わせて出来る長方形ほどの大きさです。意外に小さな物です。
更にちなみに、大仏様のメッキは、金アマルガム(水銀が金と化合して出来るもの)を利用したものです。水銀に砂金を入れると灰色の金アマルガムになります。これをメッキする物に塗布し、その後焼き上げて水銀を飛ばして金を貼り付ける手法です。
ですから大仏様は、元土台に金アマルガムを全身に浴びせて、その後てっぺんまで薪で覆い、火を付けて焼き上げて完成させたのです。若草山の麓に天まで届くような炎の中から、黄金に煌く大仏様が現われた時の当時の人々の感動は、きっとモノスゴイものだったでしょうねえ。

さて、恵マスターの記述にもあった夜玖貝について書かせて頂きます。
「ヤコウ貝」はリュウテンサザエ科の海水生の巻き貝です。英名はGreat Green Turban(直訳するとデッカイ緑のサザエ)。そう呼ぶだけあって、深い緑色と茶色の斑点がある世界最大のサザエです。殻長は20cmにもなり、殻口は円く広く開いていて分厚い丸いふたがあります。この蓋がタバコの箱ほどの大きさ、と言えばどれ程の大きさかお分かりでしょうか?

インド‐太平洋の熱帯域、日本では奄美以南のサンゴ礁の周辺に生息。貝ボタンや工芸用によく用いられます。奄美諸島・沖縄などでは、市場の鮮魚店で食用として一般的に販売され、地元の料理店では刺身やバター焼きなどのメニューでよく出されるはずです。

様々な加工品の材料に使われるこの「ヤコウ貝」の貝殻は、現在は海から勝手に乱獲したものでは無く、市場に卸され鮮魚店さんが中身を食用として販売した後の貝殻が使用されています。

ちなみに、関西の鳥羽にあるミキモト真珠島内のミキモト真珠博物館では、各種の貝殻を切磋・研磨して創る貝細工の超大作「東貝道五十三次」が12月12日(月)まで展示中です。
同博物館は、国内唯一の真珠に関する最高の博物館であり、めったに見られない貴重なアンティークジュエリーの常設館でもあります。ご多忙な恵マスターには、ちょっと訪問が難しいロケーションですが、ご都合がつくなら是非拝観をお勧め致します。詳細は、以下の同博物館HPでご確認頂けます。
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp

では、長々の場汚し失礼しました。時節の変わり目ですので、恵マスターにもご自愛専一に願います。
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Re:5   齋藤 恵   2005年10月16日(日)00:00
暁の鴎さんの、まさにジュエリー業界人らしい、すばらしいコメントを読ませていただき、感心するばかりです。どうも、ありがとうございました。

それにしても、奥州藤原氏が繁栄していた1世紀近くの間に、採取した金が10トンにも及ぶかもしれないとは、大きな驚きです。

それなら、金色堂の建立や国外不出の経典を宋から買い取ったりすることが可能であったはずですね。

夜玖貝のこと、それから金アマルガムを利用した渡金法など、あらためてなるほどと思いました。きっと、他の読者の方も、喜んでくださると思います。

本当にありがとうございました。香港ツアーは、たいへん楽しい旅でした。お客様が心から喜んでくださる姿が、何よりのご褒美ですね。
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