松花堂

齋藤 恵  No.2824 記録日 2005/02/10(木) カテゴリー 食の楽しみ URL URL
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松花堂


本人が亡くなって300年近くも経ってから、その名前が思いもかけない使われ方をされ始め、その後どんどん広く世に知られて、たいていの日本人が知っているような状態になったケースは、それほどたくさんあるとは思えません。

なにやらもったいぶった書き出しで恐縮ですが、この記事のタイトル、「松花堂(しょうかどう)」と聞いて、あなたは何を思い出しますか? そう、あの「松花堂弁当」ですよね、たいていは。

松花堂弁当とは、いくつかの仕切りがある弁当箱に、懐石料理(っぽい?)中味が詰められた、ちょっと高級な和風弁当のことを言いますね。いわゆる「ほかほか弁当」のように発泡スチロールの容器に詰められたお弁当は、松花堂弁当とは言いません。

ところで、この「松花堂」という名前は、どこから来て、どういう意味があるのかご存じでしょうか? かく言うこの僕も、これまで何百回食べたかも知れないこの「松花堂弁当」の名前の起源は知りませんでした。どこかの粋な仕出し屋さんの名前かなあ、くらいに思っておりました。

上の写真をご覧ください。実はこれが「松花堂弁当」の名前の起源になった箱(塗りの四つ切箱)なのです。松花堂 昭乗という江戸時代初期の文人が愛用した箱で、その雅号、松花堂は、実は茶室の名前からとったものだったのです。

松花堂 昭乗(1582 〜 1639)は、江戸時代初期に活躍した、京都の南、大阪と京都の間くらいにある、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社僧でした。社僧とは、神仏混淆の中で誕生してきた、八幡宮という神社の宮司でありながら、仏教(真言蜜教)を学び、僧でもあった人物のことです。

江戸時代初期の寛永年間(1624 〜 1644)は、徳川幕藩体制が整いつつあった時代です。文化的には実りの多い時期で、「桂離宮」「二条城」や「日光廟」などの有名な建物が建立されています。また建物だけではなく、公家・武士・僧侶・町衆などあらゆる階層に優れた芸術文化が生まれて来た時代でもありました。関西において、この文化の形成に大きな役割を果たした一人が、文人社僧・松花堂昭乗でした。

石清水八幡宮は、幕末までは神仏混淆でして、境内には最盛期には60近い坊があり、多くの社僧が住んでいました。昭乗は17歳(慶長3年・1598年)の時、石清水八幡宮の社僧となり、滝本坊の大阿闍梨(だいあじゃり)実乗を師として修行に励み、後に自身も大阿闍梨となりました。

書・画・茶の湯・和歌などの諸芸に長じ、特に書は、滝本流・松花堂流という書風を確立し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられました。

また、昭乗が師、実乗の後を継いで住持となった滝本坊には、小堀遠州、石川丈山、木下長嘯子(ちょうしょうし)、江月和尚、沢庵和尚など多くの文人墨客が訪れ、優れた文化サロンを形成しました。

晩年の寛永14年(1637)、昭乗は、滝本坊を弟子に譲り、自身は僧侶が老後の生活を営む住居の性格を持つ、里坊、泉坊の一隅に松花堂という小方丈を建て、そこに移り住み松花堂昭乗と名乗るようになりました。

その小方丈の草庵茶室「松花堂」は、現在は京都府八幡市の市立松花堂庭園内にあります。過日、訪れる機会を得たのですが、きれいに整備された公園の中にある、本当に小さな建物でした。

この公園内に「松花堂美術館」があり、昭乗ゆかりの品々が展示されたおりましたが、その中に、塗りの箱を四つに仕切った上の「四つ切箱」がありました。それは、本来は農民がタネ入れに使っていた仕切り箱を、昭乗が転用して、煙草や薬の小物入れや、絵の具箱として使っていたものだとのことでした。

と、ここまでは「松花堂」は、お弁当とは無関係なのですが、それを弁当と結びつけたのが、あの料亭・吉兆の創始者、料理人であり、料理プロデューサーでもあった、湯木貞一氏なのです。

1933年(昭和8年)、湯木貞一氏は松花堂昭乗の旧跡での茶会に出向いた折、ある部屋の片隅に置いてあった四角い器を見つけました。高さ3.5cm、田の字型の仕切りがあり、茶色で3ヶ所に墨絵が描いてあって、四方に金具が付いていました。種子や薬入れ、また小物入れ、たばこ盆に使われていた、と聞きました。

氏は、これを料理の器としたらどうかと考え、その1つを譲り受けて持ち帰り、工夫を重ねました。辺の寸法を縮め、高さを高く やや深めにして元になかった蓋を付けたのです。

そして四つのそれぞれの仕切りに異なる料理をバランス良く盛り込み、茶会の点心などに用いてみたのです。

そうしたところ、それがたいへんな好評を得て、全国に拡がって行きました。ということで、こうした仕切付の懐石弁当は、「松花堂弁当」と呼ばれるようになっていったというわけです。

現在の松花堂弁当は、多くは四つ切箱ではなくて、六つ切だったり七つ切だったり、もっと仕切りの数が多いように思いますが、原型は四つの仕切りだったのですね。

実は、この公園には現在、京都吉兆さんが、「吉兆・松花堂店」を出しておられます。

京都吉兆さんにつきましては、この掲示板カフェの中にも、記事番号592番、「吉兆 嵐山本店」というタイトルで書いております。

http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?no=592

その中に書いたことなのですが、現在は吉兆さんは、全国で3つの会社にに分かれているのだそうですね。そしてそれには、こんな事情があるのだそうです。

創業者・湯木貞一氏の3人のお子さん達が、それぞれ大阪、東京、京都を分割して相続し、それぞれ別の会社を作りました。

京都は次女の方が継がれ、株式会社・京都吉兆となり、嵐山本店を中心に京都市内にこの松花堂店を含めて4店の出店を経営しておられます。もっとも、実際上は年齢的にその方のお子さんが実務的には中心になっておられるようですが。ちなみに、大阪、東京はそれぞれ長男、長女の方が継承されたのだそうです。

このあたり、職人気質を大切にし、<食>を芸術にまで高めようとした湯木氏らしいと思います。

で、せっかく八幡市まで出向いたわけですから、吉兆さんでランチをということにいたしました。さすがにおいしいお弁当でしたが、きちんと原型を守って、塗りの四つ切箱を使っておられました。そして、最後にご飯を運んでくださる時には、すでに食べ終わっている、前菜の入っていた仕切りのひとつを、ご飯と差し替えてくれていました。この形式が、吉兆風「松花堂弁当」なのかも知れませんね。

以上、松花堂物語でした。それにしても、松花堂昭乗氏は、自分の雅号が、死後294年経ってから、突然弁当の名前として使われ始め、その後どんどん世に知られるようになるとは想像もしていなかったでしょうね。でも、何はともあれ、決して悪いイメージで知られているわけではないわけですから、この文人も喜んでおられることでしょう。

以後、松花堂弁当を召し上がる時には、この人物、松花堂昭乗氏と、湯木貞一氏のお二人に思いを馳せていただけたら幸いです。

例によって、知らなくともまったく困らない雑知識のご披露でした。失礼いたしました。


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