長谷川 等伯

齋藤 恵  No.2793 記録日 2004/12/22(水) カテゴリー 絵画 URL URL
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長谷川 等伯


JR京都駅には、3つの出入り口があります。北に面した烏丸口、反対側の新幹線ホームに近い南に面した八条口、それに南北自由通路に通じる西口の3つです。

僕達は、ほとんどの場合、新幹線で京都に着くと、すぐにレンタカーを借りることになりますので、もっぱら八条口を利用することが多いのですが、北側の烏丸中央口は、市街地東西を走る道路で言いますと、塩小路通りにもっとも近い位置になります。

この出入り口を、昔は「七条口」と言っていたような気がするのですが(ふたしかな記憶ですが)、七条通りは、塩小路通りのさらに1本北側ですので、たしかにその名前は正確な言い方ではないと思います。

ところで、その七条通りを烏丸通りから東に向かって進みますと、鴨川を渡って、まもなく左手に京都国立博物館が見えてきます。そのうしろには、「国家安康」の梵鐘で有名な豊国神社があります。また博物館の七条通りをはさんだ反対側は、有名な「三十三間堂」です。そしてそこを通り過ぎたところで、道路は東山七条というT字交差点で、東大路通りにぶつかります。

そのぶつかった所にある巨大な寺院が、「智積院(ちしゃくいん)」です。正式には「真言宗 智山派 総本山 智積院」と言います。

ここはかなり大きなお寺でして、たしかに僕なども、この前を通り過ぎたことは何十回もあったのですが、意外に中に入ることのないお寺さんでした。道路から見ても大きなお堂が見え、境内も広大だし、でもその割に拝観している人はほとんど見かけないなあ、と思っておりました。寺院の数が本当に多い京都には、こんなふうに知ってはいるけれども、中には入ったことのない寺社がまだまだたくさんありそうです。

ちなみに、この智積院の末寺には、川崎大師平間寺、成田山新勝寺、高雄山薬王院等の著名な(つまりお布施の額が巨大な)寺院をはじめ、約3千寺院もあるそうでして、それはこのお寺の財政基盤が強固なことを意味しています。(だから、拝観者の数などあまり気にしていないのかもしれません。)

過日、このお寺をじっくりと拝観する機会があり、壮大なお堂や、利休好みと言われる名庭園を拝観したのですが、その際、もっとも印象に残ったのが、お堂や庭園ではなくて、宝物館にあった1枚の障壁画だったのです。それは長谷川等伯とその息子、久蔵作の「桜図」でした。

実物は国宝で、宝物館にあり、撮影禁止でしたので、上の写真はお堂に設置されている模写の方なのですが(ごめんなさい)、それは見る者を不思議な世界に引き込む強い魅力を持った絵でした。拝観人数が極めて少なかったものですから、案内してくださった僧侶がサービスで、宝物館の天井照明を消してくれました。その時、そこに浮かび上がった「夜桜」のすごさ! それはまことに圧巻でした。

室町時代から始まって、安土桃山、江戸時代と、時の権力者 = 天下人の御用絵師を長く務めた一族がいます。それは狩野派です。狩野正信、永徳、探幽等々、誰でも聞いたことのある絵師を大勢輩出しています。

その天下随一の絵師集団、狩野派の牙城に闘いを挑んだ絵師が長谷川等伯(1539〜1610)だったのです。

長谷川等伯は、能登の生まれです。室町後期、1539年に石川県七尾市に生まれています。彼の人生は、今も多くの謎に包まれていますが、わかっているのは、武家の家に生まれたのですが、幼いころに染物屋に養子に出されたこと。そして絵心のある染物屋の養父に絵を習ったことなどです。

七尾市の龍門寺には、若き日の作品が残されています。大作「十六羅漢図」は、能登の田舎の一介の絵師とは思えないほどの見事な作品だと言われています。20代の頃、等伯は仏画を専門に描いていたのです。

等伯が、妻子を伴い京都に出たのは、30歳の頃だと言います。人生50年と言われた時代です。30歳で家族を伴って故郷を離れ、はるか遠い京都まで移住することは、おそらくたいへんな決断だったと思います。まさに命がけだったに違いありません。でも、きっとそうしないではおられない、絵師としての情熱があったのではないかと僕は作品を見ながら感じていました。

京にやって来た等伯が、まず身を寄せたのは、上京区にある日蓮宗本法寺です。現在は、堀川通りに面した、今出川通りと北大路通りの中間あたりにあります。茶道の裏千家の本拠地「今日庵」、表千家の「不審庵」は、ちょうど本法寺の裏手にあります。

本法寺には、等伯が描いた釈迦の「大涅槃図」が収められています。高さ10mに及ぶ、巨大な仏画です。

当時の画壇は狩野派全盛の時代でした。足利将軍家の御用絵師として仕えた狩野派は、この時代、永徳を頂点に黄金期を迎えていました。織田信長の安土城が築城されると永徳は、一門を率いて安土城の豪華絢爛たる障壁画を制作しました。

信長が、本能寺の変で倒れた後は、豊臣秀吉の命を受け、大阪城、二条城、伏見城の障壁画のすべてを引き受け、画壇における狩野派の絶対的な地位を不動のものにしたのです。永徳は、見る者を圧倒するような、豪華絢爛たる障壁画、金箔をふんだんに使った、大画面ハイビジョンとでも言うべき画風を完成させました。

こうした画壇と天下人との関係の中では、狩野派以外の絵師達が高度な仕事を請け負うことはほとんど不可能だったのだろうと思います。おそらくは天下人の側近達と、名のある狩野派がしっかり結びつき(つまり、持ちつ持たれつの関係を作り)それ以外のルートなどが入り込む余地はなかったことでしょう。狩野派が手がけない水準の仕事をかろうじて拾うくらいが、せいぜいだったことと思います。

こうした大きな芸術作品を制作するには、才能、技術、訓練、資金力等、多様な要素が必要だと思いますが、やはり機会を多く与えられた者が上達する、というのは確かだと思います。ちょうど俳優や歌手が、本番の出番が多ければ多いほど、上手に、そして綺麗になっていくように。

ですから、狩野派のように多くの本番の機会を与えられている人々は、ますます上手になり、そうでない絵師達は、機会を与えられないままに腕も上達しない、という構造が出来たとしても仕方のないことだったように思います。

こうした中で、長谷川等伯の名前が歴史の片隅に浮かび上がるのは、51歳(1590年)の事です。

本法寺からほど遠からぬ場所、紫野の北大路通りに面して、大徳寺という名刹があります。臨済宗大徳寺派の総本山です。茶人、千利休とも関わりが深く、利休が秀吉の怒りを買い、自刃したお寺でもあります。この大徳寺に、等伯をめぐるある逸話が残されています。

ある日、寺を訪ねた等伯は、住職に襖絵を描かせて欲しいと頼みました。大徳寺は、禅寺です。住職は「修行の寺に襖絵は無用」として、その頼みを断りました。ところが等伯は、住職の留守を見はからって、襖32枚に一気呵成に水墨画を描いたのです。それが「山水図襖絵」です。

ではなぜ等伯は、無断で、無理矢理にでも大徳寺で絵を描くことにこだわったのでしょうか?

実はその目的は、当時の支配者層に強い影響力を持っていた、天下の文化人で、アートディレクターだった、千利休の目にふれることをねらってのことだと言われています。

そしてそのねらいは見事に的中し、千利休の推薦を得て、等伯は奇跡的な機会を手に入れそうになります。仙洞御所障壁画の仕事が決まりそうになったのです。でもこの時は、狩野派の圧力により阻止されたということが、公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』というものに記録されているのだそうです。あったでしょうね、そういうことも。

この時の等伯の憤りは、大変なものであったと思われますが、ここは涙を飲むしかありませんでした。でも人生の禍福はわからないもので、その後すぐに大きな変化が起きました。狩野派の長である永徳が48歳で急逝したのです。

そして永徳を失った狩野派の混乱という千載一遇のタイミングの中で、その翌年、今度こそ等伯に大仕事の機会が訪れました。3歳で亡くなった秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺・祥雲寺の障壁画作成という大仕事が等伯の元に舞い込んだのです。

でも、当時の天下人・秀吉の嫡子の菩提寺で、「京都第一の寺」と言われた祥雲寺(現・智積院)障壁画の大仕事を等伯が率いる長谷川派に持っていかれた狩野派の怒りと焦りは、すごいものであったと思われます。

等伯は、狩野派を強く意識しながらも、金碧障壁画でありながら、狩野派にはない抒情的な自然表現を試みました。その1枚が上の「桜図」です。等伯は、この仕事を通して名実共に狩野派に対抗するまでになったのです。

実は等伯には、「久蔵」という、等伯がもっとも期待し、もしかしたら自身以上の絵師になると考えていた片腕の長男が居たのです。この桜図の主な制作は、久蔵が担ったと言われています。

実際に宝物館でこの絵を見てみると、実寸よりはるかに大きく、のびやかに見えました。白い花びらには、絵具に牡蠣の殻が混ぜてあるとのことで、照明を落とした薄暗い中での「夜桜」は、ぞっとするほど美しいものでした。(そう言えば、花街の芸子さん達の顔の白塗りは、薄暗いろうそくの下で見られることを前提になされたお化粧法なのでしょうね。 実は、智積院拝観後、その晩、祇園で芸子さん達のお座敷を「拝観」する機会があったのですが、このことを、「そうか!」 と実感してしまいました。余計なことですが。)

でも、人生は誰の人生も単純ではありませんね。その後、等伯の片腕であった長男・久蔵が、障壁画の完成を見ずして、急逝してしまいました。真偽は別として、久蔵の死に関しては、狩野派による毒殺説までささやかれたくらいですから、両派の対抗心はすさまじいものであったと推測されます。

それから、もうひとつの悲劇は、等伯に機会を与えてくれた、利休が完成の前年に、秀吉の怒りをかって自刃してしまったことです。これも等伯には、こたえたと思います。

等伯はその後も、悲しみを背負いながらも72歳まで、絵師として活動を続けました。最後は、徳川家康のもとめに応じて、京都から江戸に向かいました。当時の交通事情と72歳という年齢を考えれば、これは無理だったと思います。でも、まだ豊臣家滅亡前とは言え、誰が次の天下人かは、すでに明らかでしたので、おそらく長谷川派の将来を考えて、命を賭しての決断をしたのでしょう。

結局、江戸にはたどり着くのですが、途中で病を得て、江戸到着後2日目に亡くなってしまいました。当時の狩野派は、永徳の後の光信、貞信の時代でしたが、まさかこの徳川家の等伯江戸招聘までが、狩野派の策略だったとは思いたくありませんね。

天正19年(1591年)の夏、等伯52歳の時、瑞雲寺の竣工と同時に、現・智積院障壁画の制作は始まりました。巨大な寺の伽藍を埋め尽くす絵です。大小93枚の絵が、計画されたと言われています。(現存は6枚のみですが)

等伯は、息子の久蔵、そして弟子たちと共に全力でこの巨大プロジェクトに取りかかりました。狩野派の天下に一矢をむくいたわけですから。障壁画の完成には2年の歳月がかかったのだそうです。寺の記録には、「金碧輝映、京都第一壮観也」と記されています。

絵の背景には、こんな人間の喜び、争い、悲しみ等々の営みがあるのです。そうして見ると、この国宝障壁画も、またひと味違って見えます。

京都・東大路通り、東山七条の智積院。拝観者を呼び込むことに熱心とはとても思えないお寺さんですが、今度京都に行かれたら、ぜひご覧になりませんか? 長谷川等伯、利休、秀吉、狩野派等々の人々の人生のあれこれを偲びながら。

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