言論の自由の大切さ

言論の自由の大切さ


今から10数年前に、朝日新聞の全国のいくつかの支局を狙った襲撃・殺人事件が相次いだことがありました。そして、まことに残念ながら、犯人を一人も挙げられないまま、それらのすべての事件の公訴時効が、本日(2003年3月11日午前0時)に成立したのだそうです。

こうした事件や風潮、事実に対しましては、人それぞれに感慨があることと思いますが、僕にもそれなりの思いがあります。

以下は、本日(3月11日)の朝日新聞朝刊に掲載されていたある作家のコメントです。すでにお読みになった方には重複してしまうことになり申し訳ありませんが、もしまだお読みになっておられなかった方は、ぜひご一読ください。

なぜ引用したのかと申しますと、この視点が当カフェのマスターとしての僕の考え方にもっとも近いと感じたからなのです。このカフェにお越しくださる皆様にも、それぞれにお考えがあることと存じます。ただ、どのようなスタンスであろうと、この問題は、簡単に忘れてしまってはいけないと思います。

民主主義の根幹のひとつは、言論の自由の保障です。でも、これは時の権力や政府が保証してくれるわけではありません。むしろ、歴史的に見れば、時の権力はそれを封殺する立場に立っていたことの方がずっと多いのです。

言論の自由を守るのは民衆です。ジャーナリスト達だけでも、決して出来ることではありません。僕のような、なんの力も特権も持っていない市井の人間の一人一人が意識し、実践することが大切なことなのだと思います。

そんな思いを込めて、以下の一文を引用いたします。


<引用開始>

犯人はいま、どこかで高笑いをしているだろう。朝日だけではない、すべてのマスコミ人に問いたい。あなたたちは悔しくないのか、と。

怒りを通り越し、私は行く末に暗然たる風景を予感している。理由は二つある。

まず、朝日新聞阪神支局襲撃事件からほぼ16年の時を費やしながら、捜査機関だけではなく、マスメディアもまた犯人の貌をついにしかとは暴きえなかったこと。すなわちジャーナリズムも敗北しつつあるのだ。

この間、マスコミ各社の備える情報通信機器は革命的に進化した。しかし、それが事実に肉薄する力と情熱、不正への怒りを後押ししたかというとそうではない。それらはむしろ、かつてなく弱まっているのではなかろうか。

もうひとつの問題は、小尻記者が殺されてから今日までのマスコミの立ち居振る舞いである。87年5月3日の、あの怒りと悲しみと決意は果たして今も変わらず維持されているのか、はなはだ疑問である。

私の目にはミリタント(好戦的)なものへの新聞の反発心が徐々に麻痺し、戦争という絶対暴力への嫌悪と警戒心も以前よりずいぶん鈍化しつつあるように見える。

赤報隊はかつて「反日朝日は50年前に帰れ」と迫り、朝日は「戦前には戻らない」と脅しを毅然として拒否した。だが、その言葉は真に実行されたのか、私は訝る。つまり、この15、16年で新聞の側に <無意識の変節> に似た何かが生じたようにも思えるのだ。

法に公訴時効はありえても、言論の闘いに断じて終わりはない。言論の自由は常住ここにある自明の権利ではなく、常にして闘い取るべき権利である。「完全時効」のこの日を、その闘いの再スタートの時とすべきだ。

<引用終了>


小企業の営業用サイトの掲示板で、このようなおしゃべりをすることが、どれほどの意味を持つのかは、よくわかりませんが、僕はその効果よりも(営業的なマイナスの可能性も含めて)、この気概を多くの市井の民が持つことの意味を考えています。

政治的にも経済的にもまったく非力な民が人口のほとんどを占めているのが国家であるわけですから、僕達、民衆は自分が非力であることを恥じ入り、口を閉ざす必要はまったくないと思います。

というわけで、これからも僕はここで、マスターとして、決して口をつぐむことのないように努力していくことを、あらためて皆様にお約束いたします。それが、亡くなった方に対するせめてものご供養と、失われかけている大切なものを守る行動の、僕なりの再スタートになると思うからです。

ご一読ありがとうございました。

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