レクイエム K626

齋藤 恵  No.2227 記録日 2002/10/30(水) カテゴリー 音楽 URL URL
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レクイエム K626

この掲示板、カフェ・ド・エルサイトウの記事も、通し番号で言うと、おかげさまで670番を越えました。こうなってきますと、マスターの僕でも、あるテーマについて、いったいいつどなたが、どんなことを書いてくださったのか、とても覚えてなんかおられません。 自分で書いた記事だって怪しいものです。

そこでしばらく前から(いつだか忘れました。多分2年くらい前?)「ワード検索」機能をつけたわけです。掲示板のタイトル一覧表の上部にある「ワード検索」をクリックしていただけると、あるキーワードを含んでいる記事の明細一覧が表示される仕組みです。おかげさまで、とても好評をいただいております。

その仕掛けを使って探してみたのですが、該当記事が見つかりませんでしたので、まだ書いたことがなかったのかと思っているのですが、それは当社のオフィスとモーツァルトの音楽のことです。

僕のいるオフィスはパソコンが数台と、会議用大テーブル、それにデスクが6人分置いてあるという、まあどうってことのない、きわめてありきたりのオフィスなのですが、就業時間中は継続してBGMとして、ほとんどモーツァルトの音楽をかけっぱなしにしております。

これはもう十数年前からの習慣でして、一日中小さめな音量で聴くともなく聴いているのですが、実によい習慣だといささか自負しております。

専門的な知識はまったくないのですが、ただ音楽を聴くことが好きな僕は、仕事中と言えども無音は好きではありません。でも、ベートーヴェンでは堅すぎるし、ブラームスは重すぎて、チャイコフスキーやラフマニノフは抑揚が強すぎる、・・・ といわば、消去法で消しながら事務室用BGMを選んでいったら、残ったのがモーツァルトであった、とまあこんなわけです。

よく言われることですが、モーツァルトの作曲した楽譜には、直した痕跡がないのだそうですね。(現物を見たわけではありませんので、あくまでも巷間言われている説によっているのですが・・・)

実際、彼の曲のほとんどは、実に思考や会議を邪魔しません。曲の流れがスムースで、感情的な起伏も少なく、BGMとしても安心して聴けるのです。

ですから、当社にはかなりの数のモーツァルトのCDが用意されており、毎日違った曲を楽しんでおります。

でも、さすがにこの作曲家の曲でも、BGMとしては使えないものもあるのですが、そのひとつが、このおしゃべりの標題のレクィエム (Requiem) K(ケッへル)626です。

レクィエム(鎮魂曲)は死者を送る音楽で、多くの作曲家が作っておりますが、私見ですが、僕はモーツァルトのものが最高だと思っています。モーツァルトの最後の作品であり、未完成の遺作になってしまったこの曲には、モーツァルトとは、まったく異なった文化の中で育った僕でも、魂を揺すぶられる感じがします。

映画「アマデウス」の中では、モーツァルトの真の才能のすごさに嫉妬した、同時代のウイーンの宮廷楽長であったサリエリ(Antonio Salieri  1750 - 1825) が、病とたたかっていたモーツァルトに、匿名でこのレクィエムの作曲を依頼したことになっていましたが、本当の依頼主は、その年に夫人を亡くした、フランツ・ヴァルゼックという伯爵だったようですね。

モーツァルトは1791年12月5日に亡くなっていますが、その前日の12月4日まで、この曲の作曲を続けていたということですから、本当の遺作ですね。でも、結局完成させることなく亡くなってしまったのですが、妻のコンスタンツェは、すでに作曲報酬の半分を受け取っていたこともあり、なんとか完成させる必要がありました。

そこで、補筆を2人の音楽家が依頼されました。最初はモーツァルトと交友があったアイブラー (Joseph Leopold Eybler 1765 - 1846)、そしてアイブラーがギブアップした後は、モーツァルトの最晩年の弟子、ジェスマイヤー (Franz Xaver Sussmayr 1766 - 1803) でした。

おそらく2人の補筆は、モーツァルトの死後、半年くらいのうちに終わっていたのではないか、というのが現在の説のようです。

結局、依頼主のヴァルゼック伯爵は、1793年12月14日に、ウイーンのノイクロスター教会で、亡き妻に捧げる曲として、自身が指揮して(この伯爵は音楽の素養があったようなのです。)演奏されました。

実は今日は僕はお休みで、自宅でのんびりしているのですが、久しぶりにこの曲を何度も全編じっくりと聴いているのです。

ヒマだとこんなことを思いつくのですが、このかなり大きな曲のどの部分がモーツァルト自身の作曲で、どのあたりが補筆されたものなのかなあ、とふと思い立ち、ちょっと調べてみることにしたのです。

それではまず、この曲の構成を整理してみますね。

曲は7つに大きく分けられ、さらに3、4、5 番の曲は、それぞれ複数の部分に分かれています。それはこんなふうです。


第1曲  入祭曲 (Introitus)

第2曲  キリエ (Kyrie)

第3曲  続謡 (セクエンツィア = Sequentia)
     @ 怒りの日 (Dies irae)
     A ラッパは驚くべき音を (Tuba mirum)
     B 恐るべき御稜威輝く王よ (Rex tremendae majestatis)
     C 思い出してください、慈しみ深いイエス様 (Recordare, Jesu pie)
     D 呪われた者は退けられて (Confutatis maledictis)
     E その日は涙にくれる日 (Lacrimosa)

第4曲  奉献謡 (Offertorium)
     @ 主イエス・キリスト (Domine, Jesu Christe)
     A 賛美の生け贄と祈りを (Hostias et preces)
     
第5曲  サンクトゥス (聖なるかな = Sanctus)
     @ サンクトゥス(聖なるかな = Sanctus)
     A ベネディクトゥス(祝福されますように = Benedictus)
     
第6曲  アニュス・デイ (神の子羊よ = Agnus Dei)

第7曲  聖体拝領謡 (Communio)

とここまで整理しながら、何度もこの曲を聴いているのですが、残念ながら僕の耳と知識では、モーツァルト自身の作曲部分と補筆部分を聴き分けることはできません。

そこで資料をあたってみたのですが、こんなことのようでした。

第1曲、第2曲は全部モーツァルト。

第3曲、第4曲は、歌唱部と低音部のみ。僕がもっとも好きな部分のひとつ、3−6の Lacrimosa は、8小節目まで。

以上がモーツァルト本人の作曲で、このあと、最初の補筆者、アイブラーが、3−5、3−6のオーケストレーションを仕上げただけで、ギブアップ。

あとの第4曲の残りから第7曲までは、ジェスマイヤーの補筆だそうです。

とすると、あの荘厳な第5曲、サンクトゥスは弟子の補筆なのですね。この補筆については後生、批判もあるようですが、僕の耳に感ずる限りでは、やむを得ない状況の中で、よくやったという気がします。

しかし、全体としてすさまじい曲だと思います。今日は朝からすでに数回、繰り返して全曲を聴きましたが、まったく飽きませんね。神が与えた天賦の才って、やっぱりあるような気がします。

墓もなく、共同墓地に廃棄されるごとく葬られた(映画、アマデウスの最後のシーンが思い出されますね。)この天才の作品を、死後200年以上経ってからもこんなに感動して聴く人間がいるのです。やっぱり、彼は天才だったと思います。おかげさまで、よい秋の休日を楽しむことができました。

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Re:1   日吉   2002年10月31日(木)00:00
音楽には(音楽にも、と言うべきかもしれませんが)全く素養のない私ですので、モーツァルトといってすぐ連想してしまうのは、映画「アマデウス」です。あの映画で印象が一番強烈だったのは、私にとってもやはりレクィエムですねぇ。あの映画を観てから、家で何度も何度もレクィエムを聞き直したものです。

死の直前まで作曲をしていたというモーツァルトから、天才というのはただひらめきで作品を生み出すのではなく、起きている間はいつも絶えまなく作品の創出に心を傾けていて、その積み重ねですばらしい作品が次々に生み出されるのだということも、強く印象に残りました。ちょうど、ピカソのスケッチ展で、ピカソがいつもいつも絵のことを考え、絵として人物もモノも見てい手を動かすのを一瞬たりとも止めなかったのを知り、天才とはこうしていつも不断に創作活動をし続けているのだなぁと感心させられたように。

ところで、恵マスター、モーツァルトの音楽を「一日中小さめな音量で聴くともなく聴いて」いらっしゃり、「 仕事中と言えども無音は好きでは」ないとおっしゃいますが、それはただ音楽を 聴くことが好きなだけではないのでは‥‥ 実は、容赦なくどんどん飛び込んでくるさまざまな騒音を、モーツァルトの音楽で塞いでいるのではないでしょうか。

私は閑静な郊外の住宅地に住んでいますので、ときどき街の真ん中に泊まったりすると、まぁなんてうるさいのだろうと思いますが、逆に、人里離れた田舎で数日過ごして帰宅すると、朝、目を覚ました途端にいろいろな騒音が外から侵入してくるのに改めてびっくりさせられるのです。そういうときに、音楽をかけて「聴くとはなしに聴いている」と、騒音が耳に入ってこなくなる。いえ、音楽でなくてもいいのです。水の流れの音でも、雨の降る音でも。そういう音を英語で、white sound とか white noise とか言いますが、background music の役目はそういうところにあるのではないかと想像できます。

無音は好きではないとおっしゃる恵マスターですが、本当に静かな所、つまり雑音や騒音のない所で、無音に耳を傾けてみられたら、遠くにいる鳥の声や、風に踊る木の葉の音が耳に入ってきたりして、音楽とは違ったすばらしさを感じられると思いますよ。夜更かしの私は、みんなが眠ってしまった後、一人で起きていることが多いのですが、家の中では時計の針がカチ、カチ、と動く音や、外からは波の音が聞こえてきて、自分の頭の中にある考えすら、はっきり聞こえてくるような気がするのです。そんな「無音」が私は大好きです。

恵マスターにモーツァルトのレクィエムのすばらしい説明をしていただいたのに、話を横道にそらしちゃったようで、ごめんなさい。
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Re:2   恵   2002年10月31日(木)00:00
無音と静寂に関する日吉さんの分析を拝聴しながら、そうかもしれないなあ、と痛感しています。

おっしゃる通り、就業中のオフィスには、実にいろいろな騒音が満ちています。それに、精神的な騒音もね。

それと比べると、風や波、それに木々の葉ずれの音など、自然がかなでる音はすばらしいですね。

ご指摘の通り、きっとモーツァルトの音楽は、僕の居るオフィスの様々な騒音を打ち消す役割を果たしてくれているのだと思います。

人間は、たいてい「無音室」の中のような、完全な無音状態には耐えられないと言いますね。きっと誰しもが、本質的に自然が発する癒し音を必要としているのでしょう。

それにしても、モーツァルトの音楽は、事務用のBGMとしては見事に適していると思います。川のせせらぎや、山の音を聞きながらの仕事って経験がありませんが、どんなものでしょうね。僕ならきっと仕事をしたくなくなってしまうかもしれませんね。

僕とは異なる視点からの考えをお聞きできて、本当に感謝しています。日吉さんが加わってくださると、このカフェの価値がぐっと高まるように思います。ありがとうございました。
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